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『手順を間違えてはいけない』
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その部屋を借りたとき、奇妙な決まりを渡された。
手書きで記された一枚の紙。
簡素な白い便箋に、丁寧で古風な字体で書かれていた。
『就寝前の手順』
① カーテンを閉める
② 水を流す
③ 椅子を正す
④ 返事をしない
⑤ 寝る
たったそれだけだった。
意味があるようでない、謎めいた規則だった。
僕と友人の田中は、顔を見合わせた。
「なんだよこれ。変な宗教か?」
「さあな。まあ、気味悪いけど、別に守って損することもないだろ」
その時は、そう軽く考えていた。
単なる大家の趣味か、古い建物の変な決まり事くらいにしか思っていなかった。
それに、この都心のマンションの家賃は、破格の安さだった。
少しくらい奇妙な規則があったとしても、何ら問題ではなかった。
……そのはずだったのだ。
───
ルームシェアを始めて、数日が経ったある晩。
僕は、バイトで疲れて帰宅した。
時計は夜の11時過ぎ。部屋の中は、すでに薄暗かった。
田中はすでに寝室に入っていたようだ。扉の隙間から静かな寝息が漏れている。
僕は、あくびを噛み殺しながら、ソファに腰掛けた。
そして、ふと目の前の窓を見る。
まだカーテンが開いたままだった。
「あ、閉めないとな」
そう呟きながら立ち上がろうとしたときだった。
「ねえ」
背後から、田中の声がした。
驚いて振り返ると、寝室の扉が少しだけ開いて、彼の影が揺れている。
「……田中?」
返事はない。
僕は首を傾げた。
気のせいかもしれない。夢うつつで話しかけたんだろう。
そのまま窓際へ歩き、カーテンを閉めようとした瞬間。
「ねえ、聞こえてる?」
もう一度、背後から田中の声がした。
今度ははっきりと、起きているときの声だった。
僕は無意識に振り返り、答えようと口を開いた。
──いや、待て。
その瞬間、あの奇妙な『手順』のことが頭をよぎった。
④『返事をしない』。
「……危なかった」
そう呟き、なんとか口を閉ざしたまま窓を閉めた。
だが、その時僕は気づいていなかった。
カーテンを閉めるより先に、僕は水を流していなかったのだ。
──手順を、間違えたのだ。
───
夜中、異変は突然訪れた。
まどろみの中で、僕は息苦しさを感じて目を覚ました。
部屋が、妙に狭く感じた。
空気が圧迫されている。
まるで、天井が下がっているかのように。
暗闇の中で薄目を開けて、ぼんやりと天井を見上げる。
──その瞬間、背筋が凍りついた。
天井が、なかった。
いや、厳密には『なかった』わけではない。
天井は、『上の方へと続いていた』のだ。
正確には、“別の部屋の天井”が、僕の部屋の天井の位置にあった。
そこは、まったく同じ間取りの部屋だった。
壁紙も照明も家具も、寸分違わない『僕の部屋』。
しかし、その部屋は上下が反転していた。
逆さまのソファ。逆さまの机。逆さまのベッド。
そして、逆さまの“僕自身”が、そこに横たわっていた。
上にいるその“僕”は、静かに眠っている。
だが、ふと目を覚ましたかと思うと、こちら側──つまり、下の僕をじっと見つめた。
それは紛れもなく、自分自身の顔だった。
───
翌朝、目覚めたときには、天井は元に戻っていた。
疲れた夢を見たのだろうか。
寝室を出ると、リビングでは田中がコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、昨日は遅かったな」
「ああ、ちょっとバイトが」
僕は曖昧に返事をしたが、違和感は残っていた。
そして、なにげなくテーブルを見ると、
例の『就寝前の手順』の紙が置かれていた。
その紙には、昨日までなかった一文が追加されていた。
『※手順を間違えた場合、絶対に鏡を見ないこと』
「……これ、書き加えた?」
僕は田中に尋ねた。
田中は怪訝な顔で首を振った。
「いや、何も書いてないけど?」
───
その晩、僕は手順を守ろうと必死だった。
①カーテンを閉めた。
②トイレで水を流した。
③椅子をきっちり正した。
④そして、絶対に返事をしなかった。
それからようやく、⑤ベッドに入った。
ホッとため息をついた。
これで安心だ。
だが、その直後。
ギシッ。
部屋のどこかで、家具が動く音がした。
寝返りを打って目を閉じる。気のせいだと思った。
だが、数秒後、もう一度音がした。
ギシッ。
目を開ける。
すると、視界の端で、天井の照明がわずかに揺れていた。
違和感。
嫌な予感。
僕は、そっと視線を上げた。
再び、天井がなかった。
上にはまた、『別の部屋』があった。
だが今度は、“逆さまの僕”がベッドにはいなかった。
代わりに、僕の真上──逆さまに置かれた椅子に、“逆さまの僕”が静かに座っていた。
彼は、こちらをじっと見下ろしていた。
そして、何かを言おうと口を開く。
──駄目だ。返事をしてはいけない。
僕は必死で視線をそらし、布団を被った。
『返事をしない』。
何度も何度も、頭の中で唱えた。
───
翌日、田中の様子がおかしかった。
彼は朝食も取らず、ぼんやりと宙を眺めていた。
何を話しかけても反応しない。
ふと、彼の顔を見ると、目が充血していた。
「田中、大丈夫か?」
僕が心配して声をかけると、彼はぼそりとつぶやいた。
「なあ、お前も見えたか?」
「何が?」
彼は、虚ろな目で天井を指差した。
「……もう一つの夜がさ」
───
それから数日後、僕は部屋を出ることにした。
奇妙な出来事が続き、心が耐えられなかった。
最後の日、荷物をまとめ終え、玄関に向かう途中だった。
リビングの椅子が、倒れていた。
僕は何も考えず、無意識に椅子を正してしまった。
その瞬間、天井から声がした。
「ねえ」
上を見る。
そこには、上下逆さまの僕が、カーテンを閉め忘れた窓の前に立っていた。
「手順、間違えたよ」
その声は、冷たく響いた。
そして、僕は理解した。
もう、“別の夜”からは逃れられないのだと。
手書きで記された一枚の紙。
簡素な白い便箋に、丁寧で古風な字体で書かれていた。
『就寝前の手順』
① カーテンを閉める
② 水を流す
③ 椅子を正す
④ 返事をしない
⑤ 寝る
たったそれだけだった。
意味があるようでない、謎めいた規則だった。
僕と友人の田中は、顔を見合わせた。
「なんだよこれ。変な宗教か?」
「さあな。まあ、気味悪いけど、別に守って損することもないだろ」
その時は、そう軽く考えていた。
単なる大家の趣味か、古い建物の変な決まり事くらいにしか思っていなかった。
それに、この都心のマンションの家賃は、破格の安さだった。
少しくらい奇妙な規則があったとしても、何ら問題ではなかった。
……そのはずだったのだ。
───
ルームシェアを始めて、数日が経ったある晩。
僕は、バイトで疲れて帰宅した。
時計は夜の11時過ぎ。部屋の中は、すでに薄暗かった。
田中はすでに寝室に入っていたようだ。扉の隙間から静かな寝息が漏れている。
僕は、あくびを噛み殺しながら、ソファに腰掛けた。
そして、ふと目の前の窓を見る。
まだカーテンが開いたままだった。
「あ、閉めないとな」
そう呟きながら立ち上がろうとしたときだった。
「ねえ」
背後から、田中の声がした。
驚いて振り返ると、寝室の扉が少しだけ開いて、彼の影が揺れている。
「……田中?」
返事はない。
僕は首を傾げた。
気のせいかもしれない。夢うつつで話しかけたんだろう。
そのまま窓際へ歩き、カーテンを閉めようとした瞬間。
「ねえ、聞こえてる?」
もう一度、背後から田中の声がした。
今度ははっきりと、起きているときの声だった。
僕は無意識に振り返り、答えようと口を開いた。
──いや、待て。
その瞬間、あの奇妙な『手順』のことが頭をよぎった。
④『返事をしない』。
「……危なかった」
そう呟き、なんとか口を閉ざしたまま窓を閉めた。
だが、その時僕は気づいていなかった。
カーテンを閉めるより先に、僕は水を流していなかったのだ。
──手順を、間違えたのだ。
───
夜中、異変は突然訪れた。
まどろみの中で、僕は息苦しさを感じて目を覚ました。
部屋が、妙に狭く感じた。
空気が圧迫されている。
まるで、天井が下がっているかのように。
暗闇の中で薄目を開けて、ぼんやりと天井を見上げる。
──その瞬間、背筋が凍りついた。
天井が、なかった。
いや、厳密には『なかった』わけではない。
天井は、『上の方へと続いていた』のだ。
正確には、“別の部屋の天井”が、僕の部屋の天井の位置にあった。
そこは、まったく同じ間取りの部屋だった。
壁紙も照明も家具も、寸分違わない『僕の部屋』。
しかし、その部屋は上下が反転していた。
逆さまのソファ。逆さまの机。逆さまのベッド。
そして、逆さまの“僕自身”が、そこに横たわっていた。
上にいるその“僕”は、静かに眠っている。
だが、ふと目を覚ましたかと思うと、こちら側──つまり、下の僕をじっと見つめた。
それは紛れもなく、自分自身の顔だった。
───
翌朝、目覚めたときには、天井は元に戻っていた。
疲れた夢を見たのだろうか。
寝室を出ると、リビングでは田中がコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、昨日は遅かったな」
「ああ、ちょっとバイトが」
僕は曖昧に返事をしたが、違和感は残っていた。
そして、なにげなくテーブルを見ると、
例の『就寝前の手順』の紙が置かれていた。
その紙には、昨日までなかった一文が追加されていた。
『※手順を間違えた場合、絶対に鏡を見ないこと』
「……これ、書き加えた?」
僕は田中に尋ねた。
田中は怪訝な顔で首を振った。
「いや、何も書いてないけど?」
───
その晩、僕は手順を守ろうと必死だった。
①カーテンを閉めた。
②トイレで水を流した。
③椅子をきっちり正した。
④そして、絶対に返事をしなかった。
それからようやく、⑤ベッドに入った。
ホッとため息をついた。
これで安心だ。
だが、その直後。
ギシッ。
部屋のどこかで、家具が動く音がした。
寝返りを打って目を閉じる。気のせいだと思った。
だが、数秒後、もう一度音がした。
ギシッ。
目を開ける。
すると、視界の端で、天井の照明がわずかに揺れていた。
違和感。
嫌な予感。
僕は、そっと視線を上げた。
再び、天井がなかった。
上にはまた、『別の部屋』があった。
だが今度は、“逆さまの僕”がベッドにはいなかった。
代わりに、僕の真上──逆さまに置かれた椅子に、“逆さまの僕”が静かに座っていた。
彼は、こちらをじっと見下ろしていた。
そして、何かを言おうと口を開く。
──駄目だ。返事をしてはいけない。
僕は必死で視線をそらし、布団を被った。
『返事をしない』。
何度も何度も、頭の中で唱えた。
───
翌日、田中の様子がおかしかった。
彼は朝食も取らず、ぼんやりと宙を眺めていた。
何を話しかけても反応しない。
ふと、彼の顔を見ると、目が充血していた。
「田中、大丈夫か?」
僕が心配して声をかけると、彼はぼそりとつぶやいた。
「なあ、お前も見えたか?」
「何が?」
彼は、虚ろな目で天井を指差した。
「……もう一つの夜がさ」
───
それから数日後、僕は部屋を出ることにした。
奇妙な出来事が続き、心が耐えられなかった。
最後の日、荷物をまとめ終え、玄関に向かう途中だった。
リビングの椅子が、倒れていた。
僕は何も考えず、無意識に椅子を正してしまった。
その瞬間、天井から声がした。
「ねえ」
上を見る。
そこには、上下逆さまの僕が、カーテンを閉め忘れた窓の前に立っていた。
「手順、間違えたよ」
その声は、冷たく響いた。
そして、僕は理解した。
もう、“別の夜”からは逃れられないのだと。
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