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①⑥話 前田又左衛門利家の屋敷の日々
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前田又左衛門利家の屋敷に身を寄せてから、一週間が過ぎていた。
季節は初秋を迎え、屋敷の庭には涼やかな風がそよぎ、松の枝先がわずかに揺れている。
木々の葉はまだ緑を保っているが、ところどころに薄黄色が混じり、秋の訪れを静かに告げていた。
庭の隅に植えられた萩の花が小さな紫の房を咲かせ、朝露に濡れたその姿が朝日を受けてきらめく。
私は縁側に腰を下ろし、冷たい板の感触を背に感じながら、その光景を眺めていた。
時折、遠くから聞こえる鳥の声が、静寂を一層深くする。
日々、三度運ばれてくる飯を食べる以外、私にできることはほとんどない。
朝は温かな粥に梅干しが添えられ、昼には焼いた魚と薄味の味噌汁、夜には煮込んだ根菜と飯が膳に並ぶ。
戦乱の世にあって、これだけの食事が毎日用意されることは確かに恵まれている。
だが、箸を手に持つたび、胸の奥に澱んだものが疼く。
父上様、浅井長政の最期を思い出す。
裏切りがなければ、私たち三姉妹は今も近江の小谷城で、秋の風を感じながら穏やかに暮らせていたかもしれない。
そんな儚い夢を見るたび、それが幻想に過ぎないと気づかされる。
織田信長という男のもとでは、穏やかさなど最初から存在しないのだ。
そんな私の様子を見かねたのだろう。
松が気を利かせて、貝合やおはじき、そして赤と白に染め分けられた鞠を用意してくれた。
松は黒髪をきりりと結い上げ、動きやすいように裾を軽くたくし上げた姿は、実直そのもの。
「茶々様、お初様と遊んでみてはいかがでしょう」
と、彼女は穏やかな笑みを浮かべて言った。
その声には、私を気遣う優しさが滲んでいる。
私は小さく頷き、お初の手を取って庭へと出た。
お初はまだ幼く、髪は肩に届くか届かないかほどの長さしかない。
だが、その瞳は母上様に似て、澄んだ光を宿している。
「茶々姉様、鞠を蹴って」
と、お初が小さな手を差し出す。
私は鞠を手に取り、軽く地面に落としてから足先で蹴り上げた。
鞠が秋の空に弧を描き、萩の花の上を越えて落ちる。
お初がそれを追いかけ、短い足で懸命に走る姿に、庭に小さな笑い声が響いた。
一瞬、心が軽くなる。
だが、その笑顔を見ていると、胸の奥に冷たい影が忍び寄る。
この無垢な時間が、いつまで続くのだろう。
貝合では、お初が小さな貝殻を手に持つたびに
「きれいだね」
と目を輝かせた。
おはじきでは、私が石を弾くたびに彼女が手を叩いて喜んだ。
そんな些細な遊びが、私には遠い記憶のように感じられる。
戦場で響く鉄砲の音、血に染まった地面、父上様が私を抱きしめた最後の温もり――それらが頭から離れない。
それでも、お初の笑顔を見ていると、少しだけ現実を忘れられた。
秋の風が頬を撫で、どこか寂しげな音を立てる。
昼を過ぎると、お初は疲れたのか縁側に座ったまま眠りに落ちた。
小さな体が丸まり、規則正しい寝息が聞こえてくる。
その寝顔を見つめていると、心が締め付けられる。
お初は何も知らない。
この屋敷が一時的な避難所に過ぎないこと、私たちが織田信長の掌の上で踊らされていることを。
私はそっとお初の髪を撫で、目を閉じた。
秋の陽光が縁側に差し込み、ほのかな暖かさを与えてくれる。
そこからは、母上様が教えてくれる手習いの時間となった。
母上様、お市の方は、この乱世にあっても気品を失わない。
薄鼠色の小袖を纏い、髪をゆるやかに結い上げた姿は、まるで秋の静かな風景に溶け込むようだ。
彼女の手元には、墨を磨った硯と筆が置かれ、白い紙には端正な字が並んでいる。
私にとって、母上様を独り占めできるこの時間が、何よりも貴重だった。
「茶々、ゆっくりと書きなさい。字は逃げません」
母上様の声は柔らかく、秋の風のように穏やかだ。
私は筆を握り、「川」という字を紙に書こうとした。
だが、手が震え、線がわずかに歪む。
「しかし母上様、戦場で手紙をしたためる事もありましょう。その為には早く字を書く練習をいたさねば」
私は少し声を強めて言った。
頭には、血と煙に包まれた戦場で、将が急ぎの手紙を書く姿が浮かんでいた。
いつか私も、そんな場面に立ち会うかもしれない。
「幼子がその様な事を気にするのではありません」
母上様の声に、ほのかな厳しさが混じる。
その瞳が私をじっと見つめる。
そこには、深い愛情と、隠しきれない哀しみが宿っていた。
「しかし母上様」
私は食い下がろうとした。
速く書ければ、母上様やお初、お江を守る策を、いつか私が立てられるかもしれない。
「しかしもなにもありません。字はその人を表すと言われております。落ち着きしっかりと書くのです」
母上様の言葉に、私は唇を噛んだ。
そして、小さく
「はい」
と答えた。
字は人を表す。
私の震える字は、私の乱れた心を映しているのだろうか。
私たち三姉妹は、いずれ織田信長に利用され、どこかの大名に嫁ぐことになるだろう。
その時、父上様のように裏切ったとき、私も多くの者に手紙を書くことになる。
速い筆が必要だと考えるが、それを母上様に言えば、彼女の顔に悲しみが広がるだろう。
私はそれを想像するだけで胸が痛み、言葉を飲み込んだ。
私が手習いに励んでいると、昼寝から目を覚ましたお江が這いずり歩きを始めた。
まだ覚えたばかりの動きで、ぎこちなく畳の上を進む。
その小さな体が私の近くまで来て、動きに飽きたのか、私の顔をじっと見つめた。
お江の瞳はまだ何も知らず、ただ純粋に私を映している。
そして、縁側からはお初のすやすやとした寝息が聞こえてくる。
私たち三姉妹は、いつまで味方として共にいられるのだろう。
そんな思いが頭をよぎり、心が冷たく締め付けられた。
「お市様、藤掛永勝様がお目通りを願っております」
侍女のさつきが、静かにそう告げた。
彼女の声は控えめだが、どこか緊張を帯びている。
「わかりました。広間を借りてそこで会いましょう。子達の事頼みましたよ、さつき」
母上様は落ち着いた声で答え、立ち上がった。
「はっ」
さつきが小さく頭を下げ、母上様は広間へと向かってしまった。
私は筆を置いてその背中を見送った。
秋の風が再び吹き、屋敷に静かなざわめきをもたらした。
季節は初秋を迎え、屋敷の庭には涼やかな風がそよぎ、松の枝先がわずかに揺れている。
木々の葉はまだ緑を保っているが、ところどころに薄黄色が混じり、秋の訪れを静かに告げていた。
庭の隅に植えられた萩の花が小さな紫の房を咲かせ、朝露に濡れたその姿が朝日を受けてきらめく。
私は縁側に腰を下ろし、冷たい板の感触を背に感じながら、その光景を眺めていた。
時折、遠くから聞こえる鳥の声が、静寂を一層深くする。
日々、三度運ばれてくる飯を食べる以外、私にできることはほとんどない。
朝は温かな粥に梅干しが添えられ、昼には焼いた魚と薄味の味噌汁、夜には煮込んだ根菜と飯が膳に並ぶ。
戦乱の世にあって、これだけの食事が毎日用意されることは確かに恵まれている。
だが、箸を手に持つたび、胸の奥に澱んだものが疼く。
父上様、浅井長政の最期を思い出す。
裏切りがなければ、私たち三姉妹は今も近江の小谷城で、秋の風を感じながら穏やかに暮らせていたかもしれない。
そんな儚い夢を見るたび、それが幻想に過ぎないと気づかされる。
織田信長という男のもとでは、穏やかさなど最初から存在しないのだ。
そんな私の様子を見かねたのだろう。
松が気を利かせて、貝合やおはじき、そして赤と白に染め分けられた鞠を用意してくれた。
松は黒髪をきりりと結い上げ、動きやすいように裾を軽くたくし上げた姿は、実直そのもの。
「茶々様、お初様と遊んでみてはいかがでしょう」
と、彼女は穏やかな笑みを浮かべて言った。
その声には、私を気遣う優しさが滲んでいる。
私は小さく頷き、お初の手を取って庭へと出た。
お初はまだ幼く、髪は肩に届くか届かないかほどの長さしかない。
だが、その瞳は母上様に似て、澄んだ光を宿している。
「茶々姉様、鞠を蹴って」
と、お初が小さな手を差し出す。
私は鞠を手に取り、軽く地面に落としてから足先で蹴り上げた。
鞠が秋の空に弧を描き、萩の花の上を越えて落ちる。
お初がそれを追いかけ、短い足で懸命に走る姿に、庭に小さな笑い声が響いた。
一瞬、心が軽くなる。
だが、その笑顔を見ていると、胸の奥に冷たい影が忍び寄る。
この無垢な時間が、いつまで続くのだろう。
貝合では、お初が小さな貝殻を手に持つたびに
「きれいだね」
と目を輝かせた。
おはじきでは、私が石を弾くたびに彼女が手を叩いて喜んだ。
そんな些細な遊びが、私には遠い記憶のように感じられる。
戦場で響く鉄砲の音、血に染まった地面、父上様が私を抱きしめた最後の温もり――それらが頭から離れない。
それでも、お初の笑顔を見ていると、少しだけ現実を忘れられた。
秋の風が頬を撫で、どこか寂しげな音を立てる。
昼を過ぎると、お初は疲れたのか縁側に座ったまま眠りに落ちた。
小さな体が丸まり、規則正しい寝息が聞こえてくる。
その寝顔を見つめていると、心が締め付けられる。
お初は何も知らない。
この屋敷が一時的な避難所に過ぎないこと、私たちが織田信長の掌の上で踊らされていることを。
私はそっとお初の髪を撫で、目を閉じた。
秋の陽光が縁側に差し込み、ほのかな暖かさを与えてくれる。
そこからは、母上様が教えてくれる手習いの時間となった。
母上様、お市の方は、この乱世にあっても気品を失わない。
薄鼠色の小袖を纏い、髪をゆるやかに結い上げた姿は、まるで秋の静かな風景に溶け込むようだ。
彼女の手元には、墨を磨った硯と筆が置かれ、白い紙には端正な字が並んでいる。
私にとって、母上様を独り占めできるこの時間が、何よりも貴重だった。
「茶々、ゆっくりと書きなさい。字は逃げません」
母上様の声は柔らかく、秋の風のように穏やかだ。
私は筆を握り、「川」という字を紙に書こうとした。
だが、手が震え、線がわずかに歪む。
「しかし母上様、戦場で手紙をしたためる事もありましょう。その為には早く字を書く練習をいたさねば」
私は少し声を強めて言った。
頭には、血と煙に包まれた戦場で、将が急ぎの手紙を書く姿が浮かんでいた。
いつか私も、そんな場面に立ち会うかもしれない。
「幼子がその様な事を気にするのではありません」
母上様の声に、ほのかな厳しさが混じる。
その瞳が私をじっと見つめる。
そこには、深い愛情と、隠しきれない哀しみが宿っていた。
「しかし母上様」
私は食い下がろうとした。
速く書ければ、母上様やお初、お江を守る策を、いつか私が立てられるかもしれない。
「しかしもなにもありません。字はその人を表すと言われております。落ち着きしっかりと書くのです」
母上様の言葉に、私は唇を噛んだ。
そして、小さく
「はい」
と答えた。
字は人を表す。
私の震える字は、私の乱れた心を映しているのだろうか。
私たち三姉妹は、いずれ織田信長に利用され、どこかの大名に嫁ぐことになるだろう。
その時、父上様のように裏切ったとき、私も多くの者に手紙を書くことになる。
速い筆が必要だと考えるが、それを母上様に言えば、彼女の顔に悲しみが広がるだろう。
私はそれを想像するだけで胸が痛み、言葉を飲み込んだ。
私が手習いに励んでいると、昼寝から目を覚ましたお江が這いずり歩きを始めた。
まだ覚えたばかりの動きで、ぎこちなく畳の上を進む。
その小さな体が私の近くまで来て、動きに飽きたのか、私の顔をじっと見つめた。
お江の瞳はまだ何も知らず、ただ純粋に私を映している。
そして、縁側からはお初のすやすやとした寝息が聞こえてくる。
私たち三姉妹は、いつまで味方として共にいられるのだろう。
そんな思いが頭をよぎり、心が冷たく締め付けられた。
「お市様、藤掛永勝様がお目通りを願っております」
侍女のさつきが、静かにそう告げた。
彼女の声は控えめだが、どこか緊張を帯びている。
「わかりました。広間を借りてそこで会いましょう。子達の事頼みましたよ、さつき」
母上様は落ち着いた声で答え、立ち上がった。
「はっ」
さつきが小さく頭を下げ、母上様は広間へと向かってしまった。
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