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④⑦話 『静けさに咲く茶の花』
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帰蝶様が引っ越しをしたその日、空はまるで何かを惜しむように曇り、冷えた春の風が廊下を吹き抜けていた。屋敷の隅々にまで、あの人の残り香が漂っていた気がする。帯のほのかな香、茶室に残ったあの一服のぬくもり。ふと胸に手を当てた私は、自分の心にぽっかりと穴が開いていることに気がついた。
——あの人は、もうこの屋敷にはいない。
理由もなく、泣きたくなった。
「母上様、姉上様がまったく遊んでくれません……」
廊下の向こうからお初の嘆く声が聞こえる。木の床に裸足の足音がぺたぺたと響き、手に風車を持ったお初が、しょんぼりとうつむいて立っていた。お江は歩き始め、最近ではお初の遊び相手になることも増えたが、それでもまだ満足できないらしい。どうやら私は、いつの間にかお初の期待を裏切っていたらしい。
「ごめんね、お初……」
私はそう言って、手を差し出そうとしたが、躊躇った。何もかもが上の空だったから。帰蝶様のあの背筋の伸びた立ち姿、しなやかに振る舞う手つき、ふとした時に見せたあの切ない微笑——。
「茶々、大丈夫ですか? どこか具合でも?」
母上様の声には、どこか深い慈しみが込められていた。私はハッと我に返り、慌てて首を振る。
「……茶、もっと飲みたかったな……」
思わず、口からこぼれた言葉だった。
我ながら、どうしてそんなことを言ったのか分からない。けれど、たしかに私はあの茶を、もう一度味わいたいと思っていた。あの日、帰蝶様が静かに点ててくれた、あのほろ苦く、それでいて温かい茶の味を。
母上様はわずかに目を見開いたが、すぐに微笑み、そっと私の手を取った。
「ならば、あなたのために、ある方をお呼びしましょう」
翌日の昼下がり、屋敷に一人の客人が現れた。
「この方は千宗易と申される。堺の名高き茶人でございます」
母上様の言葉に、客人は静かに一礼した。痩せぎすで、歳は五十を超えているだろうか。けれどその身のこなしにはどこか若々しさがあり、目の奥には鋭い光が宿っていた。
「初めまして、茶々様。今日は、お茶を楽しんでいただこうと思い参りました」
その声には、まるで風が木の葉を揺らすような静けさがあった。
私は少し戸惑いながら、彼を見つめた。
「……茶を楽しむ?」
「はい。お茶というのは、ただ飲むものではありません。心を整え、空気を感じ、静けさを味わうものなのです」
私は思わず首をかしげた。飲んで、味わう——それだけでは、足りないのだろうか。
「もしよろしければ、一服差し上げましょう」
そう言うと、宗易は畳に丁寧に道具を並べ始めた。青磁の水指、鉄釜、わずかに欠けた茶碗。どれも古びてはいるが、まるで時を超えてそこにあるような存在感を放っていた。
釜の湯が湧き始めると、ぱちぱちと薪の音が響いた。
その音を聞いていると、なぜか胸の奥がほんのりと温かくなった。宗易の動きはすべてが流れるように滑らかで、まるで舞を見ているようだった。
茶杓が抹茶をすくい、茶筅が湯を含んで踊る。しゅっ、しゅっという音が心を撫でるように響く。
「どうぞ」
差し出された茶碗は、ほのかに温かく、両手で包み込むとじんわりと熱が指先に伝わった。私は、そっと口をつける。
苦い。でも、その苦さの奥に、どこか懐かしい甘みがあった。
目を閉じると、静けさが全身を包み込む。
——帰蝶様の点てた茶とは違う。
でも、それは決して劣るという意味ではない。この茶は、この場の空気を、そのまま味に変えていた。柔らかい陽射し、薪の香り、宗易の静かな呼吸——すべてが、茶の中に溶け込んでいた。
「静けさを感じられましたか?」
宗易が問いかける。私は、こくりと小さく頷いた。
「……少しだけ」
その答えに、彼はゆっくりと微笑んだ。
「それで、十分でございます。茶は、己の心を映す鏡のようなもの。無理に何かを感じようとせず、ただ、そこに在るものを受け入れる——それが茶の道でございます」
私はその言葉を、胸の中で繰り返した。
「また、飲める?」
宗易は母上様を見た。母上様も、優しく頷いた。
「もちろん、茶々。また、この方にお茶を点てていただきましょう」
その日、私の中に新たな何かが芽生えた。名もない、小さな芽——けれど、確かに心の土に根を下ろした何かだった。
後に、私はそれを「静けさ」と名付けることになる。騒がしい戦乱の世にあって、静けさを知ること。それは私にとって、何よりも尊く、かけがえのない学びとなった。
その始まりが、この一服の茶だったのだ。
——あの人は、もうこの屋敷にはいない。
理由もなく、泣きたくなった。
「母上様、姉上様がまったく遊んでくれません……」
廊下の向こうからお初の嘆く声が聞こえる。木の床に裸足の足音がぺたぺたと響き、手に風車を持ったお初が、しょんぼりとうつむいて立っていた。お江は歩き始め、最近ではお初の遊び相手になることも増えたが、それでもまだ満足できないらしい。どうやら私は、いつの間にかお初の期待を裏切っていたらしい。
「ごめんね、お初……」
私はそう言って、手を差し出そうとしたが、躊躇った。何もかもが上の空だったから。帰蝶様のあの背筋の伸びた立ち姿、しなやかに振る舞う手つき、ふとした時に見せたあの切ない微笑——。
「茶々、大丈夫ですか? どこか具合でも?」
母上様の声には、どこか深い慈しみが込められていた。私はハッと我に返り、慌てて首を振る。
「……茶、もっと飲みたかったな……」
思わず、口からこぼれた言葉だった。
我ながら、どうしてそんなことを言ったのか分からない。けれど、たしかに私はあの茶を、もう一度味わいたいと思っていた。あの日、帰蝶様が静かに点ててくれた、あのほろ苦く、それでいて温かい茶の味を。
母上様はわずかに目を見開いたが、すぐに微笑み、そっと私の手を取った。
「ならば、あなたのために、ある方をお呼びしましょう」
翌日の昼下がり、屋敷に一人の客人が現れた。
「この方は千宗易と申される。堺の名高き茶人でございます」
母上様の言葉に、客人は静かに一礼した。痩せぎすで、歳は五十を超えているだろうか。けれどその身のこなしにはどこか若々しさがあり、目の奥には鋭い光が宿っていた。
「初めまして、茶々様。今日は、お茶を楽しんでいただこうと思い参りました」
その声には、まるで風が木の葉を揺らすような静けさがあった。
私は少し戸惑いながら、彼を見つめた。
「……茶を楽しむ?」
「はい。お茶というのは、ただ飲むものではありません。心を整え、空気を感じ、静けさを味わうものなのです」
私は思わず首をかしげた。飲んで、味わう——それだけでは、足りないのだろうか。
「もしよろしければ、一服差し上げましょう」
そう言うと、宗易は畳に丁寧に道具を並べ始めた。青磁の水指、鉄釜、わずかに欠けた茶碗。どれも古びてはいるが、まるで時を超えてそこにあるような存在感を放っていた。
釜の湯が湧き始めると、ぱちぱちと薪の音が響いた。
その音を聞いていると、なぜか胸の奥がほんのりと温かくなった。宗易の動きはすべてが流れるように滑らかで、まるで舞を見ているようだった。
茶杓が抹茶をすくい、茶筅が湯を含んで踊る。しゅっ、しゅっという音が心を撫でるように響く。
「どうぞ」
差し出された茶碗は、ほのかに温かく、両手で包み込むとじんわりと熱が指先に伝わった。私は、そっと口をつける。
苦い。でも、その苦さの奥に、どこか懐かしい甘みがあった。
目を閉じると、静けさが全身を包み込む。
——帰蝶様の点てた茶とは違う。
でも、それは決して劣るという意味ではない。この茶は、この場の空気を、そのまま味に変えていた。柔らかい陽射し、薪の香り、宗易の静かな呼吸——すべてが、茶の中に溶け込んでいた。
「静けさを感じられましたか?」
宗易が問いかける。私は、こくりと小さく頷いた。
「……少しだけ」
その答えに、彼はゆっくりと微笑んだ。
「それで、十分でございます。茶は、己の心を映す鏡のようなもの。無理に何かを感じようとせず、ただ、そこに在るものを受け入れる——それが茶の道でございます」
私はその言葉を、胸の中で繰り返した。
「また、飲める?」
宗易は母上様を見た。母上様も、優しく頷いた。
「もちろん、茶々。また、この方にお茶を点てていただきましょう」
その日、私の中に新たな何かが芽生えた。名もない、小さな芽——けれど、確かに心の土に根を下ろした何かだった。
後に、私はそれを「静けさ」と名付けることになる。騒がしい戦乱の世にあって、静けさを知ること。それは私にとって、何よりも尊く、かけがえのない学びとなった。
その始まりが、この一服の茶だったのだ。
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