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④⑨話 初めて茶を点てる
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数日後、私は母上様とともに、千宗易の屋敷を訪ねた。
通されたのは屋敷の広間ではなく、庭にひっそりと佇む、草庵風の小さな建物だった。小屋と呼ぶにはどこか気品があり、しかし豪華さとは無縁の、簡素な佇まい。私はその入り口で、ほんの少し息を整えた。
襖を開けると、そこには静寂が広がっていた。
障子越しに差し込む淡い光、風に揺れる竹の葉擦れの音、そして畳のきしむわずかな音すら、音楽のように響く空間。日常の喧騒から切り離されたその場所は、まるで別世界のようだった。
私はそっと畳に足を踏み入れ、足裏に伝わる感触を確かめるように、一歩一歩を慎重に進んだ。
「お待ちしておりました、姫様」
宗易が静かに一礼した。その落ち着いた眼差しに、私は自然と肩の力が抜けるのを感じた。
「今日は、姫様にもお手伝いいただきたいと思います」
「……私が?」
驚きと、ほんの少しの誇らしさが混ざった声が漏れる。
「はい。お茶を点てることは、心を整え、相手を思いやることにつながります」
そう言って、宗易は私の前に茶杓をそっと置いた。
私は恐る恐るそれを手に取り、抹茶をすくおうとした。だが、手元がふらつき、粉が思うようにすくえない。焦りがじわりと浮かぶ。
「焦らずに、力を抜いて……茶杓をそっとすべらせるように」
宗易の声は、庭の風のように静かで穏やかだった。その言葉に導かれるように、私はもう一度手を動かす。
今度は、抹茶がふわりと茶杓に乗った。
その瞬間、ほんの少し、自分の中に自信のようなものが芽生える。
茶碗に抹茶を移し、湯を注ぐ。湯気がふわりと立ち上り、草のような青々とした香りが鼻先をくすぐる。
「次は茶筅を使って、お湯と抹茶をなじませていきます」
宗易はそっと私の手に茶筅を握らせた。
「手首を軽やかに、泡を立てるように――水面を撫でる風のように」
最初はぎこちない動作だった。けれど、宗易の助言に耳を傾けながら、少しずつ手に感覚が宿っていくのが分かる。
やがて、細やかな泡が茶碗の表面をやさしく覆った。
「よろしければ、母上様にお出ししてみてはいかがでしょう」
促され、私は茶碗をそっと持ち上げる。湯気はまだほのかに立ちのぼり、指先に茶碗の温もりが伝わってくる。
母上様の前にひざを進め、丁寧にそれを差し出した。
母上様は微笑みながらそれを受け取り、静かに口をつける。そして、目を細めて、ゆっくりと頷いた。
「とても美味しいわ、茶々」
胸がじんわりと温かくなった。
私の点てた茶が、ちゃんと届いたんだ――その実感が、心をふわりと満たしていく。
「お茶の味は、その人の心が映るもの。姫様の優しい気持ちが、このお茶に込められております」
宗易の言葉に、私ははっとした。
今まで「茶の湯」とは、ただお茶を飲む行為だと思っていた。でも違った。
それは、相手を思い、自分と向き合う“こころ”そのものだった。
「……また、点てたい」
思わず漏れたその言葉に、宗易は目を細めて優しく頷いた。
「もちろんです。茶とは、一度きりでは終わらぬもの。静けさと向き合うたびに、新しい自分と出会えるのです」
その日の帰り道――
私は母上様と並んで歩きながら、ふと後ろを振り返った。竹がさやさやと風に鳴り、小さな茶室がしんと佇んでいる。
「また、あの静けさに会いたい……」
自分でも気づかぬほど小さくつぶやいたその言葉は、春の空気に溶けて、どこかへ消えていった。
ほんの一椀のお茶が、私の心に新しい扉を開いた。
その扉の向こうに何があるのかは、まだわからなかったけれど――
私は確かに、何かを見つけ始めていた。
通されたのは屋敷の広間ではなく、庭にひっそりと佇む、草庵風の小さな建物だった。小屋と呼ぶにはどこか気品があり、しかし豪華さとは無縁の、簡素な佇まい。私はその入り口で、ほんの少し息を整えた。
襖を開けると、そこには静寂が広がっていた。
障子越しに差し込む淡い光、風に揺れる竹の葉擦れの音、そして畳のきしむわずかな音すら、音楽のように響く空間。日常の喧騒から切り離されたその場所は、まるで別世界のようだった。
私はそっと畳に足を踏み入れ、足裏に伝わる感触を確かめるように、一歩一歩を慎重に進んだ。
「お待ちしておりました、姫様」
宗易が静かに一礼した。その落ち着いた眼差しに、私は自然と肩の力が抜けるのを感じた。
「今日は、姫様にもお手伝いいただきたいと思います」
「……私が?」
驚きと、ほんの少しの誇らしさが混ざった声が漏れる。
「はい。お茶を点てることは、心を整え、相手を思いやることにつながります」
そう言って、宗易は私の前に茶杓をそっと置いた。
私は恐る恐るそれを手に取り、抹茶をすくおうとした。だが、手元がふらつき、粉が思うようにすくえない。焦りがじわりと浮かぶ。
「焦らずに、力を抜いて……茶杓をそっとすべらせるように」
宗易の声は、庭の風のように静かで穏やかだった。その言葉に導かれるように、私はもう一度手を動かす。
今度は、抹茶がふわりと茶杓に乗った。
その瞬間、ほんの少し、自分の中に自信のようなものが芽生える。
茶碗に抹茶を移し、湯を注ぐ。湯気がふわりと立ち上り、草のような青々とした香りが鼻先をくすぐる。
「次は茶筅を使って、お湯と抹茶をなじませていきます」
宗易はそっと私の手に茶筅を握らせた。
「手首を軽やかに、泡を立てるように――水面を撫でる風のように」
最初はぎこちない動作だった。けれど、宗易の助言に耳を傾けながら、少しずつ手に感覚が宿っていくのが分かる。
やがて、細やかな泡が茶碗の表面をやさしく覆った。
「よろしければ、母上様にお出ししてみてはいかがでしょう」
促され、私は茶碗をそっと持ち上げる。湯気はまだほのかに立ちのぼり、指先に茶碗の温もりが伝わってくる。
母上様の前にひざを進め、丁寧にそれを差し出した。
母上様は微笑みながらそれを受け取り、静かに口をつける。そして、目を細めて、ゆっくりと頷いた。
「とても美味しいわ、茶々」
胸がじんわりと温かくなった。
私の点てた茶が、ちゃんと届いたんだ――その実感が、心をふわりと満たしていく。
「お茶の味は、その人の心が映るもの。姫様の優しい気持ちが、このお茶に込められております」
宗易の言葉に、私ははっとした。
今まで「茶の湯」とは、ただお茶を飲む行為だと思っていた。でも違った。
それは、相手を思い、自分と向き合う“こころ”そのものだった。
「……また、点てたい」
思わず漏れたその言葉に、宗易は目を細めて優しく頷いた。
「もちろんです。茶とは、一度きりでは終わらぬもの。静けさと向き合うたびに、新しい自分と出会えるのです」
その日の帰り道――
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その扉の向こうに何があるのかは、まだわからなかったけれど――
私は確かに、何かを見つけ始めていた。
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