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⑤⓪話 南蛮の品との出会い
しおりを挟む岐阜城下の商人街は、織田信長の威光のもとに日々の活気を増していた。
長良川のせせらぎが遠くから響き、通りには商人や旅人が行き交い、鍛冶屋の槌音や馬の蹄の音が絶え間なく鳴り響いている。雑多な人々の熱気と活気が入り混じる街並みの一角に、千宗易の茶店があった。
その岐阜の屋敷で、私は千宗易から茶の湯の手ほどきを受けていた。
茶室に流れる静寂と湯の沸く音が、慌ただしい日々の中でひとときの安らぎを与えてくれた。
そんな時間の合間、彼はふいに言った。
「店の用がある。一緒に見に行きますか?」
私は茶の香りに包まれながら、興味をそそられ「はい」と答えた。
茶室と店を分ける庭を歩き、暖簾をくぐると、そこには茶釜や茶碗が整然と並び、奥には異国の布や器が積み上げられていた。
店の者たちは、私に気づくと丁寧に頭を下げ、商人らしい穏やかな笑みを浮かべて迎え入れてくれる。
「姫様、ようおいでくださいました」
千宗易は奥へと用を済ませに向かい、残された私は店の者と共に茶を飲みながら、茶道具の話をして時を過ごした。
しばらくして彼が戻ると、思いもよらぬ提案を口にした。
「せっかくおいでいただいたのですから、店の蔵を少しお見せしましょうか。南蛮の品がございます」
その言葉に私は一瞬、言葉を失った。
南蛮の品——それは私にとって、遠い世界の産物だった。硝煙と血の臭いに慣れた私にとって、異国の美しさや珍しさなど、これまでの人生で触れる機会はほとんどなかった。
小谷城が落ち、家族を失い、伯父・織田信長の庇護のもとで暮らす今の私は、ただの少女に過ぎない。
だが、千宗易の目が「良い機会じゃ」と語っているように見えて、私は小さく頷いた。
蔵の扉が軋みをあげて開かれると、埃の混じった空気の中に、異国の香辛料や木の匂いが鼻をついた。
薄暗い蔵の中へ足を踏み入れると、光が斜めに差し込み、積み上げられた品々がまるで別世界のように輝いていた。
木の梁が支える高い天井。壁沿いには棚が並び、その上に置かれた品々が色とりどりの光を放っている。
千宗易は私を蔵の中央に案内し、やわらかな声で言った。
「南蛮の品でございます。もし何か気に入ったものがあれば、どうぞ」
思いもよらぬ言葉に、私は軽く目を見開いた。
「どれも綺麗なのじゃ。欲しいが……高いのであろう?」
私の声には、遠慮と少しの警戒が混じっていた。南蛮渡来の品は珍重され、高価であることくらいは、幼いながらも理解している。
小谷城を失い、戦乱の中を生き延びた私は、人の思惑や物の価値に敏感だった。
千宗易は、そんな私の気配を読み取ったように、穏やかに微笑んだ。
「お近づきの印に、好きな物を差し上げたく存じます」
贈り物——それは、ただでくれるという意味だろうか。
私は少し意地悪な気持ちで探るように言った。
「私みたいな幼子に媚びへつらっても、なにも出ませぬよ?」
私が『茶々』という名の姫であることは、もちろん自覚している。
だが、それがなんになる? 戦で全てを失った今、私はただの少女にすぎない。
千宗易は慌てたように手を振った。
「媚びへつらいなどとんでもない。ただ、お美しい姫に一品、と思った次第で」
その言葉に私は彼の顔をじっと見つめた。
そこには、商人の打算的な笑みではなく、まるで孫を見守る祖父のような優しさがあった。
その瞬間、私は少しだけ心を緩めた。
「そうか……」
と呟くと、千宗易は安心したように微笑んで、蔵の中を自由に見て回るよう促した。
私はゆっくりと歩き始めた。足元の板が軋み、その音が静かな蔵の空気に響く。
彼の視線を背中に感じながら、目の前に広がる異国の品々に意識を集中させた。
まず目に飛び込んできたのは、鮮やかな色の反物だった。赤や青、金色の糸で織られた布地は、光を浴びると絹のように輝いた。
私はその一枚を手に取り、指先でそっと撫でてみた。
滑らかな手触りが心地よく、まるで水面に触れるような艶やかさだった。
次に目を奪われたのは、異国の髪飾り。
貝殻やガラスで作られたそれは、触れるとひんやりと冷たく、精巧な細工が施されていた。
私は小さなガラス玉が連なった髪飾りを手に取り、千宗易に尋ねた。
「これは何じゃ?」
彼はやさしく答えた。
「それは南蛮のガラス玉で作られた髪飾りでございます。陽の光に透かすと、色が七色に輝きます」
その言葉に私は窓から差し込む光にかざしてみた。
確かに、赤、青、緑が混ざり合い、蔵の壁に小さな虹のような光を投げかけた。
思わず、私は小さく声を漏らした。
「おお……」
それは夢のように美しい光景だった。
戦火の中で育った私にとって、この蔵で見たものは、まるで現実とは思えぬ別世界だった。
私はしばらくその光を見つめていた。
まるで異国の妖精が舞い降りたかのように、七色の光が指の隙間をすり抜け、私の心の奥に染み込んでいくようだった。
ふと我に返ると、千宗易が柔らかな声で尋ねた。
「それを気に入られましたか?」
私は小さく頷いた。
「綺麗……じゃ。まるで――おとぎ話の中にある宝石のよう……」
言葉にした瞬間、我ながら幼い台詞だと思ったが、彼は優しい笑みを崩さなかった。
「姫様にこそふさわしい品でございます。どうぞ、お持ち帰りください」
「えっ……よいのか?」
思わず聞き返す私に、彼は深く頷いた。
「南蛮の風は時に、心の傷を癒してくれます。姫様がそれを美しいと思われたのなら、それだけで価値があるのです」
私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
幼いながらも、幾度となく命の危機に晒され、守られるよりも自分で強くあることを求められてきた日々――。
だが、この蔵の中で出会った美しき髪飾りは、そんな私にほんの一瞬、少女であることを思い出させてくれた。
「……ありがとう。大切にする」
小さな声でそう言うと、千宗易は満足げに目を細めた。
「姫様がそう仰ってくださるなら、何よりの喜びです」
その後、私は蔵の中をさらに歩き回り、いくつかの南蛮の器や書物にも目を通した。
重厚な革表紙の本には、見慣れぬ文字が並んでおり、どれも異国の風を感じさせるものだった。
「これは……何が書いてあるのじゃ?」
「ポルトガル語で書かれた祈祷書でございます。主に南蛮人の神父が持ち込んだもので、聖書の一部です」
「しぇいしょ……?」
「異国の神の教えが書かれた本でございます」
私は興味深そうにページをめくったが、当然ながら意味はまったくわからなかった。
ただ、文字の形状や装飾がどこか芸術品のようで、それだけでしばし見とれてしまった。
気づけば、蔵の中での時間がずいぶんと経っていた。
千宗易は私の横で静かに佇み、時折言葉を添えるだけで、私の探訪を妨げなかった。
外に出ると、午後の陽光が庭先に優しく降り注いでいた。
私はふと、手にした髪飾りをもう一度光にかざす。
七色の光がまた私の頬を照らし、心の中で何かが解けるような感覚を覚えた。
千宗易がそっと言った。
「姫様。南蛮の品とは、ただの贅沢ではございません。それは世界の広さと、未知の美しさを我々に教えてくれるもの。……そして時に、それは心を慰め、希望を与えるのです」
私は彼の言葉に、ただ静かに頷いた。
この日、私は一つの髪飾りと、そしてもう一つ――失われかけた“夢を見る心”という贈り物を、受け取ったのだった。
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