69 / 70
⑥⑦話 正月の岐阜城下 前編
しおりを挟む
雪が岐阜城下に薄く積もり、冷たい風が城の石垣をそっと抜けていた。凛とした冬の空気が肌を刺すように感じられる朝、私――茶々は、母上様、お初、お江と共に、岐阜城のすぐそばにある屋敷から城へと向かっていた。
天正四年、1576年の正月。新たな年を迎えた岐阜の町は、静かに、けれども確かな活気を湛えて息づいていた。
私は藍色の着物を纏い、長良川の流れが静かに響くのを聞きながら、風に髪が揺れるのを感じていた。雪が舞う空の下、屋敷の門をくぐり、石畳の道を踏みしめると、足元の雪が「ぎゅっ」と冷たく軋む音を立てた。
「茶々、信忠殿に新年の挨拶に行きますよ」
母上様――お市様が静かにそう言うと、私は真っ直ぐに頷いた。
「はい、母上様」
伯父・織田信長様が近江へ移られた今、岐阜城はその嫡男・信忠様が治めることとなり、私たちはその新たな城主に正月の挨拶を捧げるために歩を進めていた。
岐阜城の門が見えてくると、立てられた松飾りが厳かな雰囲気を添えており、新年の清々しさが感じられた。母上様は白の地に淡い紅をあしらった晴れ着を纏い、その姿に織田家の姫としての誇りと威厳が宿っていた。
すれ違う家臣たちや、登城してきた家臣の正室と思しき女達は足を止め、私たちに丁寧に一礼した。私はお初とお江の手を引きながら、城の中庭へと足を踏み入れた。そこにも薄く雪が積もり、白く、静寂に包まれていた。
やがて私たちは、金華山の麓に広がる御殿の広間へと導かれた。囲炉裏の火が静かに燃え、炭の香りがほんのりと漂っていた。
信忠様は烏帽子に大紋を纏い、穏やかな表情で座していた。烏帽子がその若い顔に落ち着きを添え、大紋の衣は正月の厳かさを際立たせていた。
その傍らには、土田御前――母上様の母、私の祖母――が黒地の着物に身を包み、厳かな眼差しで控えていた。
さらに、前田利家の妻・松様、羽柴秀吉の妻・ねね様がそれぞれ座しており、信忠様に新年の挨拶を捧げに集まっていた。
松様は微笑をたたえ、母上様に敬意を示していたが、ねね様は丁寧ながらも、その瞳の奥に冷たい光を宿していた。私はその微かな距離感を敏感に感じ取り、母上様の背後に静かに立った。
母上様が一歩進み、信忠様の前に座した。
「信忠殿、新年あけましておめでとうございます。信忠殿が治める岐阜で、こうして穏やかな新年を迎えられたこと、誠に嬉しゅうございます」
その声音には、母として、姫としての誇りと慈しみが込められていた。
信忠様は深く頷き、穏やかに返した。
「叔母上、茶々、お初、お江。こうして皆様と岐阜城で正月を迎えられ、嬉しく存じます」
私はその言葉に小さく頭を下げ、静かに言った。
「信忠様、新年が穏やかでありますように」
お初とお江も後ろでちいさく頭を下げた。
そのとき、土田御前が厳かに告げた。
「信忠、織田の名を汚さぬよう、しっかりと岐阜を治めなさい」
その言葉には愛情とともに、歴戦をくぐり抜けてきた母の威厳と厳しさがあった。
「はい、祖母上。肝に銘じます」
信忠様は静かに頭を下げた。
松様が微笑みながら言葉を添えた。
「市様、茶々様、岐阜城下は雪に包まれ、なんとも静かで美しゅうございますね」
「松、ありがとう。そなたとこうして新年を迎えられるのは、心強いよ」
母上様が柔らかく応じた。
その傍らでねね様が、
「信忠様、岐阜城下は年々栄え、正月も大層賑やかでございます」
と静かに言ったが、その声音には僅かに硬さが混じっていた。私は彼女の視線が一瞬、母上様に注がれたのを感じた。
母上様とねね様――姫と家臣の妻という立場の違い。それは、礼儀の裏に微かな確執として、確かに存在していた。
信忠様が話題を変えるように言った。
「町の者たちも正月を喜んでおると聞き、何よりでございます」
土田御前が再び口を開いた。
「市、家族を守るのもお前の役目だよ。岐阜の町のことは気にせずともよい。どこであろうと、住めば都じゃ」
私は祖母のその言葉に、静かに頷いた。たとえ地が変われど、家族と共にあれば、それが私の都なのだ。
松様が笑みを浮かべて言った。
「市様、利家も城下を巡り、正月の賑わいを喜んでおります」
「松、相変わらず利家殿は働き者ですね。そのような方々のおかげで、こうして平穏な新年が迎えられます」
続けて松様が語った。
「上様からいただいた越前国府中三万三千石、大層喜んでおります」
「そうでしたね。いずれは国持ちにもなるでしょう。羽柴殿のように世渡りが上手であれば…」
ねね様はその言葉に、わずかに誇らしげな表情を浮かべた。
「信忠様、正月の膳の準備、私が見てまいります」
「うむ、頼みます。皆で囲もうぞ」
ねね様は立ち上がり、静かに広間を出た。
お初が私の袖を引き、
「姉上様、お餅食べたいね」
と囁き、お江もにっこりと笑った。
「私も!」
「もうすぐだよ」
私は二人に優しく微笑んだ。
その様子を見ていた周囲の者たちは、皆どこか柔らかな表情を浮かべていた。
間もなく、ねね様が戻ってきた。
「皆様、正月の祝いの準備が整いました。どうぞ、広間へ」
信忠様が立ち上がり、土田御前、母上様と順に続いた。
新たな広間に移ると、膳が並べられ、大人たちは酒を酌み交わした。
「新年をこうして迎えられるのは、ありがたいことですな」
信忠様のその言葉に、皆が頷いた。
ねね様は静かに湯を口に運びながらも、どこか思索するような瞳をしていた。
宴が一段落し、信忠様が席を立って退室すると、広間の空気は一層落ち着いた。
母上様が松様に問いかけた。
「利家殿も、城下の正月を楽しまれておられるのかしら…?」
天正四年、1576年の正月。新たな年を迎えた岐阜の町は、静かに、けれども確かな活気を湛えて息づいていた。
私は藍色の着物を纏い、長良川の流れが静かに響くのを聞きながら、風に髪が揺れるのを感じていた。雪が舞う空の下、屋敷の門をくぐり、石畳の道を踏みしめると、足元の雪が「ぎゅっ」と冷たく軋む音を立てた。
「茶々、信忠殿に新年の挨拶に行きますよ」
母上様――お市様が静かにそう言うと、私は真っ直ぐに頷いた。
「はい、母上様」
伯父・織田信長様が近江へ移られた今、岐阜城はその嫡男・信忠様が治めることとなり、私たちはその新たな城主に正月の挨拶を捧げるために歩を進めていた。
岐阜城の門が見えてくると、立てられた松飾りが厳かな雰囲気を添えており、新年の清々しさが感じられた。母上様は白の地に淡い紅をあしらった晴れ着を纏い、その姿に織田家の姫としての誇りと威厳が宿っていた。
すれ違う家臣たちや、登城してきた家臣の正室と思しき女達は足を止め、私たちに丁寧に一礼した。私はお初とお江の手を引きながら、城の中庭へと足を踏み入れた。そこにも薄く雪が積もり、白く、静寂に包まれていた。
やがて私たちは、金華山の麓に広がる御殿の広間へと導かれた。囲炉裏の火が静かに燃え、炭の香りがほんのりと漂っていた。
信忠様は烏帽子に大紋を纏い、穏やかな表情で座していた。烏帽子がその若い顔に落ち着きを添え、大紋の衣は正月の厳かさを際立たせていた。
その傍らには、土田御前――母上様の母、私の祖母――が黒地の着物に身を包み、厳かな眼差しで控えていた。
さらに、前田利家の妻・松様、羽柴秀吉の妻・ねね様がそれぞれ座しており、信忠様に新年の挨拶を捧げに集まっていた。
松様は微笑をたたえ、母上様に敬意を示していたが、ねね様は丁寧ながらも、その瞳の奥に冷たい光を宿していた。私はその微かな距離感を敏感に感じ取り、母上様の背後に静かに立った。
母上様が一歩進み、信忠様の前に座した。
「信忠殿、新年あけましておめでとうございます。信忠殿が治める岐阜で、こうして穏やかな新年を迎えられたこと、誠に嬉しゅうございます」
その声音には、母として、姫としての誇りと慈しみが込められていた。
信忠様は深く頷き、穏やかに返した。
「叔母上、茶々、お初、お江。こうして皆様と岐阜城で正月を迎えられ、嬉しく存じます」
私はその言葉に小さく頭を下げ、静かに言った。
「信忠様、新年が穏やかでありますように」
お初とお江も後ろでちいさく頭を下げた。
そのとき、土田御前が厳かに告げた。
「信忠、織田の名を汚さぬよう、しっかりと岐阜を治めなさい」
その言葉には愛情とともに、歴戦をくぐり抜けてきた母の威厳と厳しさがあった。
「はい、祖母上。肝に銘じます」
信忠様は静かに頭を下げた。
松様が微笑みながら言葉を添えた。
「市様、茶々様、岐阜城下は雪に包まれ、なんとも静かで美しゅうございますね」
「松、ありがとう。そなたとこうして新年を迎えられるのは、心強いよ」
母上様が柔らかく応じた。
その傍らでねね様が、
「信忠様、岐阜城下は年々栄え、正月も大層賑やかでございます」
と静かに言ったが、その声音には僅かに硬さが混じっていた。私は彼女の視線が一瞬、母上様に注がれたのを感じた。
母上様とねね様――姫と家臣の妻という立場の違い。それは、礼儀の裏に微かな確執として、確かに存在していた。
信忠様が話題を変えるように言った。
「町の者たちも正月を喜んでおると聞き、何よりでございます」
土田御前が再び口を開いた。
「市、家族を守るのもお前の役目だよ。岐阜の町のことは気にせずともよい。どこであろうと、住めば都じゃ」
私は祖母のその言葉に、静かに頷いた。たとえ地が変われど、家族と共にあれば、それが私の都なのだ。
松様が笑みを浮かべて言った。
「市様、利家も城下を巡り、正月の賑わいを喜んでおります」
「松、相変わらず利家殿は働き者ですね。そのような方々のおかげで、こうして平穏な新年が迎えられます」
続けて松様が語った。
「上様からいただいた越前国府中三万三千石、大層喜んでおります」
「そうでしたね。いずれは国持ちにもなるでしょう。羽柴殿のように世渡りが上手であれば…」
ねね様はその言葉に、わずかに誇らしげな表情を浮かべた。
「信忠様、正月の膳の準備、私が見てまいります」
「うむ、頼みます。皆で囲もうぞ」
ねね様は立ち上がり、静かに広間を出た。
お初が私の袖を引き、
「姉上様、お餅食べたいね」
と囁き、お江もにっこりと笑った。
「私も!」
「もうすぐだよ」
私は二人に優しく微笑んだ。
その様子を見ていた周囲の者たちは、皆どこか柔らかな表情を浮かべていた。
間もなく、ねね様が戻ってきた。
「皆様、正月の祝いの準備が整いました。どうぞ、広間へ」
信忠様が立ち上がり、土田御前、母上様と順に続いた。
新たな広間に移ると、膳が並べられ、大人たちは酒を酌み交わした。
「新年をこうして迎えられるのは、ありがたいことですな」
信忠様のその言葉に、皆が頷いた。
ねね様は静かに湯を口に運びながらも、どこか思索するような瞳をしていた。
宴が一段落し、信忠様が席を立って退室すると、広間の空気は一層落ち着いた。
母上様が松様に問いかけた。
「利家殿も、城下の正月を楽しまれておられるのかしら…?」
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
ソラノカケラ ⦅Shattered Skies⦆
みにみ
歴史・時代
2026年 中華人民共和国が台湾へ軍事侵攻を開始
台湾側は地の利を生かし善戦するも
人海戦術で推してくる中国側に敗走を重ね
たった3ヶ月ほどで第2作戦区以外を掌握される
背に腹を変えられなくなった台湾政府は
傭兵を雇うことを決定
世界各地から金を求めて傭兵たちが集まった
これは、その中の1人
台湾空軍特務中尉Mr.MAITOKIこと
舞時景都と
台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと
佐世野榛名のコンビによる
台湾開放戦を描いた物語である
※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる