『おかえり、という声がしない夜に』 ―アラフォー独女・奈緒の三千夜記―

本能寺から始める常陸之介寛浩

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プロローグ『誰にも気づかれないまま、春が来た』

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 部屋の隅に、小さな異変があった。

 最初にそれに気づいたのは、下の階の住人だった。
 洗濯物を干そうとベランダに出た彼女は、ふと鼻をひくつかせた。
 どこかから、変な匂いがする。

 台所の生ゴミかとも思ったが、違う。もっと、湿っていて、重たくて、沈むような匂いだった。
 風に運ばれてくるその匂いの向こうに、「誰か」がいる気がして、彼女はそっと視線を上に向けた。

 階段をのぼり、ドアの前に立つ。チャイムを押すが、音はむなしく鳴り続ける。
 ──応答は、ない。

 次に来たのは管理会社の男だった。
 鍵を開けて入った彼は、一歩踏み出した瞬間、顔をしかめた。
 室内は静かだった。テレビの画面は真っ黒で、スマホは机の上で電池切れ。
 カレンダーは三月で止まっていた。

 台所には、ひとくちだけ食べられた卵焼きがあった。
 箸が途中で置かれている。
 洗濯機の中には、まだ濡れたままの服。
 風呂場には、お湯が張られていたが、すっかり冷めている。

 ──そのまま、彼女は、そこで眠るように倒れていた。

 表情は穏やかだった。苦しんだ形跡はない。
 ただ、そこにいるべき人が、いなくなっただけ。
 少なくとも、外から見れば、そういうふうに見えた。

 財布の中には、身分証。名前、住所、生年月日。
 通帳の残高は、五十六万円と小銭少々。
 冷蔵庫には、食べかけのプリンと、期限切れの牛乳。
 テレビには録画リストが残っていた。恋愛ドラマと、バラエティと、夜中の通販番組。

 通知は、ゼロだった。
 未読メールは、広告が二件。
 着信履歴は、数ヶ月前を最後に止まっていた。

 葬儀は行われなかった。
 連絡の取れる親族は見つからなかった。
 役所が形式的な手続きを済ませたあとは、火葬、そして、納骨。
 遺骨は引き取り手がなかったため、合葬墓へと移された。

 名前は記録に残っていた。けれど、記憶には誰の中にも残らなかった。

 それでも──
 その部屋には、彼女が確かに「生きていた日々」があった。

 目覚ましをかけて寝ていた朝。
 冷蔵庫を開けて「なんにもない」と独り言を漏らした日。
 誰にも見せないような笑顔で、テレビにツッコミを入れた夜。
 ときどき、ほんの一瞬だけ、昔の恋人を思い出して、頬をかすかにゆがめた夕方。

 ──それらすべてが、あった。
 でも、それを“覚えている人”は、もういない。

 だから、この物語は始まる。
 “もういない人”が、“確かにここにいた”ことを、誰かが忘れてしまう前に。

 これは、ひとりの女性の、三千夜にわたる静かな記録。
 「おかえり」と言われることのない夜を、生きてきた彼女の──その最期から始まる物語。
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