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第三章 一番星の光
第23話 腹が立つ理由
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その日の終業時刻は、とっくに過ぎていた。
キリの良いところまでやりたくなってしまう自分の癖を悔いながら、パソコンの電源を落とす。
モニターの明かりと、空調の低い音だけが残る中で、もう誰もいないと高を括った俺は思いっきり伸びをした。
そのとき、少し離れた席で、まだキーボードを叩き続けている影が目に入る。
……茉莉?
時計を見れば、もう時刻は21時。
アシスタントは最近業務が落ち着いていて定時に帰る人がほとんどのはずなのに。
「まだやってるのか?」
疑問に思って声をかけると、彼女は一瞬肩を揺らし、慌ててこちらを振り向いた。
「あ、すみません。集中してたらつい……」
興味本位で覗いた画面には「アルカ」プロジェクト全体の運営マニュアル。
目次に映るページ数で、かなりの分量があるのが分かる。
「マニュアルか。確かにあったら嬉しいよな。誰の指示?」
「村上さんです。エンジニアからずっと要望はあったみたいなんですけど、あの大きなトラブルもあったしなかなか後回しになってて」
そう言いながら、彼女はまた画面に向き合った。
……思ったよりも、そのマニュアルはずっと細かい。
エラー時の一次対応、ユーザーからの問い合わせ文例、感情的なクレームをどう受け止めるかまで、想定されている。
今日までのトラブルの事象も全て頭に入っていないと書けない内容だった。
「ここ、わざわざ注意書き入れてるのか」
集中しているところを悪いと思いながらも、思わず口に出してしまう。
「はい。実装自体は問題なくても、運営側が勘違いしやすいところなので」
ただの事務仕事の範疇じゃない。
きっと今後同じミスが起きないように、いろんな立場の人の考えや困ることを想定した、多くの人を助けるマニュアルが作られているのだ。
——やっぱすごいな。
隣の夏目さんの席を借りて、集中する横顔を見つめる。
数日前、茉莉は俺の荒れ果てた部屋をものの1時間であっという間に整理整頓してしまった。
あるべき場所にあるべきものがある空間は仕事の効率を上げる。
彼女はきっと、そういう整った環境を作り出すのが得意で、無意識のうちにそれを作り出せる賢い人なのだと思った。
「これは、茉莉の実績になるんだよな?」
「あー、それはきっと、村上さんです」
ふと気になったことを尋ねると、彼女からは困ったような返事が返ってきた。
「……そうか」
その名前に一気に、腹の底が重くなる。
このマニュアルがあれば、現場は相当楽になる。
トラブルも、確実に減る。
急ぎではないけれど、確実に会社の利益になる仕事を、深夜までやり切る姿勢とハイクオリティの資料。
なのに、評価されるのが別の人間であることは、おかしいことだと思えた。
「これさ」
俺は、言葉を選びきれず、そのまま吐き出した。
「茉莉の実績にするべきだよ。村上さんなにもしてないだろ」
茉莉は手を止めて驚いたようにこちらを見た。
「いえ……まとめるだけの仕事なので。誰でもできますし。私でも村上さんでも変わらないです」
困ったように笑う茉莉に、沸々と湧き上がってくる怒りを俺はどうしても抑えきれなかった。
「誰でもできるなら、なんで今まで誰もやってなかったんだよ。村上さんだって今手隙なのは一緒だろ」
彼女は一瞬、言葉に詰まった。
「あの、評価のことだったら……私、まだまだなので。評価されないのも、当然だと思ってます。なので、大丈夫です、ありがとうございます」
イライラしている俺の語感を察してか、茉莉は小さく頭を下げた。
「柊真さんは本当に優しい」
その妙に静かな態度が、長い時間をかけて彼女に染みついた自己肯定感の低さだと分かってしまう。
——なんでそんなに……。
会社に対してはもちろんのこと。
この環境に慣れてしまった彼女自身にすら、少しイラついた。
「茉莉」
低くなりすぎないように、落ち着いたトーンで名前を呼ぶ。
「俺はフリーだからさ。自分のやった仕事は、そのまま評価になる世界にいる」
彼女が不思議そうにこちらを見た。
「このマニュアルを作れる茉莉は、どこでも即戦力だと思う」
少し強めになった声を、俺は抑えられなかった。
茉莉は、視線を落とし、ペンを指先で転がした。
「……ありがとうございます。そんな風に褒めてくれるの柊真さんだけです」
どれだけ本音で褒めても伝えても、押し固められた自己評価だけは、簡単に書き換えられないのだ。
これ以上言ってもダメだと判断し、苛立つ気持ちを抑えるように、俺は小さくため息をこぼした。
——そもそも。
俺は、こんなことで怒る人間だったか?
その感情を不思議に思う。
「……ごめん。言葉が強かったかも」
しばらくして、心を落ち着かせてから柔らかく呟く。
「でも、実力主義の世界にいる俺が、茉莉を評価しているのは本当。だから、ちょっとは自信持って」
いつもの調子でそう伝えると、茉莉は、少し驚いたように目を瞬かせてから、小さく頷いた。
「ありがとうございます。なんかもう益々頑張れそうです」
謙虚に喜ぶ彼女を見て、俺は微笑んだ。
そのあとも、彼女は淡々と作業を続ける。
変わらず丁寧で、変わらず静かな時間。
——なのに。
俺の心の中だけが、やけに騒がしい。
今まで、業務委託先の一社員の評価なんて気にしたことはなかった。
自分の評価は正当に評価させるだけだし、正当だと感じなければ去ればいい話だと割り切っていたから。
なのに今は、彼女の評価が、まるで自分のことみたいに腹が立つ。
それが何を意味するのか、本当はわかるような気がするその問いを考えないようにして、俺は黙って、彼女の作業が終わるのを待っていた。
_/_/_/_/_/_/
第23話も、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
気に入っていただけたら、お気に入りやエールをいただけますと励みになります!
ここまで呼んでくださっている皆様がいることが本当に嬉しいです。
次回もぜひよろしくお願いいたします。
キリの良いところまでやりたくなってしまう自分の癖を悔いながら、パソコンの電源を落とす。
モニターの明かりと、空調の低い音だけが残る中で、もう誰もいないと高を括った俺は思いっきり伸びをした。
そのとき、少し離れた席で、まだキーボードを叩き続けている影が目に入る。
……茉莉?
時計を見れば、もう時刻は21時。
アシスタントは最近業務が落ち着いていて定時に帰る人がほとんどのはずなのに。
「まだやってるのか?」
疑問に思って声をかけると、彼女は一瞬肩を揺らし、慌ててこちらを振り向いた。
「あ、すみません。集中してたらつい……」
興味本位で覗いた画面には「アルカ」プロジェクト全体の運営マニュアル。
目次に映るページ数で、かなりの分量があるのが分かる。
「マニュアルか。確かにあったら嬉しいよな。誰の指示?」
「村上さんです。エンジニアからずっと要望はあったみたいなんですけど、あの大きなトラブルもあったしなかなか後回しになってて」
そう言いながら、彼女はまた画面に向き合った。
……思ったよりも、そのマニュアルはずっと細かい。
エラー時の一次対応、ユーザーからの問い合わせ文例、感情的なクレームをどう受け止めるかまで、想定されている。
今日までのトラブルの事象も全て頭に入っていないと書けない内容だった。
「ここ、わざわざ注意書き入れてるのか」
集中しているところを悪いと思いながらも、思わず口に出してしまう。
「はい。実装自体は問題なくても、運営側が勘違いしやすいところなので」
ただの事務仕事の範疇じゃない。
きっと今後同じミスが起きないように、いろんな立場の人の考えや困ることを想定した、多くの人を助けるマニュアルが作られているのだ。
——やっぱすごいな。
隣の夏目さんの席を借りて、集中する横顔を見つめる。
数日前、茉莉は俺の荒れ果てた部屋をものの1時間であっという間に整理整頓してしまった。
あるべき場所にあるべきものがある空間は仕事の効率を上げる。
彼女はきっと、そういう整った環境を作り出すのが得意で、無意識のうちにそれを作り出せる賢い人なのだと思った。
「これは、茉莉の実績になるんだよな?」
「あー、それはきっと、村上さんです」
ふと気になったことを尋ねると、彼女からは困ったような返事が返ってきた。
「……そうか」
その名前に一気に、腹の底が重くなる。
このマニュアルがあれば、現場は相当楽になる。
トラブルも、確実に減る。
急ぎではないけれど、確実に会社の利益になる仕事を、深夜までやり切る姿勢とハイクオリティの資料。
なのに、評価されるのが別の人間であることは、おかしいことだと思えた。
「これさ」
俺は、言葉を選びきれず、そのまま吐き出した。
「茉莉の実績にするべきだよ。村上さんなにもしてないだろ」
茉莉は手を止めて驚いたようにこちらを見た。
「いえ……まとめるだけの仕事なので。誰でもできますし。私でも村上さんでも変わらないです」
困ったように笑う茉莉に、沸々と湧き上がってくる怒りを俺はどうしても抑えきれなかった。
「誰でもできるなら、なんで今まで誰もやってなかったんだよ。村上さんだって今手隙なのは一緒だろ」
彼女は一瞬、言葉に詰まった。
「あの、評価のことだったら……私、まだまだなので。評価されないのも、当然だと思ってます。なので、大丈夫です、ありがとうございます」
イライラしている俺の語感を察してか、茉莉は小さく頭を下げた。
「柊真さんは本当に優しい」
その妙に静かな態度が、長い時間をかけて彼女に染みついた自己肯定感の低さだと分かってしまう。
——なんでそんなに……。
会社に対してはもちろんのこと。
この環境に慣れてしまった彼女自身にすら、少しイラついた。
「茉莉」
低くなりすぎないように、落ち着いたトーンで名前を呼ぶ。
「俺はフリーだからさ。自分のやった仕事は、そのまま評価になる世界にいる」
彼女が不思議そうにこちらを見た。
「このマニュアルを作れる茉莉は、どこでも即戦力だと思う」
少し強めになった声を、俺は抑えられなかった。
茉莉は、視線を落とし、ペンを指先で転がした。
「……ありがとうございます。そんな風に褒めてくれるの柊真さんだけです」
どれだけ本音で褒めても伝えても、押し固められた自己評価だけは、簡単に書き換えられないのだ。
これ以上言ってもダメだと判断し、苛立つ気持ちを抑えるように、俺は小さくため息をこぼした。
——そもそも。
俺は、こんなことで怒る人間だったか?
その感情を不思議に思う。
「……ごめん。言葉が強かったかも」
しばらくして、心を落ち着かせてから柔らかく呟く。
「でも、実力主義の世界にいる俺が、茉莉を評価しているのは本当。だから、ちょっとは自信持って」
いつもの調子でそう伝えると、茉莉は、少し驚いたように目を瞬かせてから、小さく頷いた。
「ありがとうございます。なんかもう益々頑張れそうです」
謙虚に喜ぶ彼女を見て、俺は微笑んだ。
そのあとも、彼女は淡々と作業を続ける。
変わらず丁寧で、変わらず静かな時間。
——なのに。
俺の心の中だけが、やけに騒がしい。
今まで、業務委託先の一社員の評価なんて気にしたことはなかった。
自分の評価は正当に評価させるだけだし、正当だと感じなければ去ればいい話だと割り切っていたから。
なのに今は、彼女の評価が、まるで自分のことみたいに腹が立つ。
それが何を意味するのか、本当はわかるような気がするその問いを考えないようにして、俺は黙って、彼女の作業が終わるのを待っていた。
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