26 / 50
第2章 二人の誤算
迫り来る期日 iii(Selina)
しおりを挟む近いようで遠い道のりの半ばで、セリーナは早々に息を切らしていた。
痛むほどに高鳴る心臓をなだめるべく歩調を緩め、でもやや急ぎ足で夜の街を歩いていく。
余日の、しかもこんなに遅い時間ということもあり、ここまで誰ともすれ違うことなくきていた。
衣摺れ、足音、息づかい。全てが自分から発せられる音のみで、それ以外の気配はさっぱり感じられない。
まるでこの世の全てが寝静まっているかのような静寂に包まれていて、ちゃんと警備の目は行き届いているのか……余計な世話と思いつつ、少しだけ王都の守りが心配になった。
しかし、考えてみれば今日ほど無断外出に適した日はなかっただろう。
今夜から明日にかけての、家族や住み込みの使用人たちの外泊予定を思い浮かべ、改めてそう感じるセリーナだった。
しんと冷えた空気の中で、コトコトと軽い音が響く。
セリーナが板石を踏みしめるささやかな足音が、溶けて消えるように闇に吸い込まれていった。
その音に、離れた場所からの他人の足音がかすかに混じり始めた時、セリーナは足を止めて確かめてから逆走し、狭い路地を曲がった先にある積み荷の陰にうずくまって身を隠した。
こんな時間だからこそ、他人との余計な接触を避けられるのなら全力で避けるべきとの判断だった。
だが、近づく足音が複数ではないことに安堵したのも束の間……何故かその足音は通り過ぎることなく路地の手前で立ち止まり、あろうことかセリーナが身を潜めている場所へ接近してきたのである。
護身術はおろか身を守る武器になるような物すら持ち合わせていないセリーナである。かくなる上は自慢の逃げ足で突破しようかと駆け出そうとしたその時――
「セリーナ……」
小さな囁き声でいて、胸に甘く響く旋律で。
呼び止められて振り返った次の瞬間には、セリーナは身動きできないほど強く抱きしめられていた。
(ウィルが、迎えに来てくれた……)
考えてみれば、味方の多い彼には自分の突飛な行動は全てお見通しだったろう。
きっと急いで駆けつけてくれたのだ。いつもきちんと整えている服が少し乱れている。心配させてしまったのかもしれない……
そんなことを考えながらセリーナは、胸いっぱいにウィリアムの香りを吸い込んだ。
行き届かないままだった末端に養分が運ばれるかのように、不足していたものが補充され、みるみる満たされていくのを感じる。
嬉しくてたまらず、どうにか身じろいで腕を抜き、ウィリアムの背をしっかりと抱きしめ返したのだった。
「ウィル……」
呟くとわずかに腕が弱められる。
「……リーナ。何があった?」
頭を抱え込まれたままで、少しだけ強ばった声が落とされた。
「違うわ……なにも無いの。本当よ。ごめんなさい、驚かせて……」
セリーナが埋まっていた顔を持ち上げようともがくと支えていた腕が離れる。見上げるとウィリアムの顔が至近距離に迫っていた。
暗がりにあって表情は読めないが、頰に触れた温かい手の平は、確かめるような動作で撫でている。
やがて音もなく重ねられた唇は、やはりいつもの彼のものであり……セリーナは深く安堵した。
それでいて、いつものウィリアムらしからぬ荒々しいほど情熱的なキスに驚き、胸を高鳴らせたのだった。
*
耳に届くのは湿った感触がもたらす水音と、ときおり漏れる二人分の荒い息づかい――
だんだんと勢いはなりを潜めていき、最初の激しく重ね合わせて貪るような、熱量をぶつけ合うような行為から、ねっとりと舐るような絡み合う口付けに変わっていた。
セリーナは頭の後ろを押さえつけられていて、少しも離れることができなかった――離れたいとも思えない。
自分からキスしやすいようにと爪先立ちになっていた足が震えてくる頃には、両腕を彼の首に絡めて強く引き寄せていた。
もしかしたら無理な姿勢を取らせていたかもしれない。
今までにも一カ月くらい会えないことはよくあった。それなのに――
届きそうで届かない場所にいる、その事実が……王都という、想像以上に華やかで誘惑の多い、この場所が。
弱くなる心と、激しい渇望を生み出してしまったのか。セリーナもまた、いつもとは違った様相で――湧き出る衝動を持て余していた。
(この瞬間がずっと続けばいいのに……)
どれくらいそうしていたのだろうか……月明かりの角度が変わる程には長い時間だったのだろう。
狭い路地を何度も冷たい夜風が通り抜け、互いの放つ熱に負けてじわじわと寒さを感じるようになった頃。
セリーナたちはようやく繋がりを解いて体を離し、見つめ合う。
顔が火照ってとても熱い……言葉もなく口内を貪りあっていた事実が恥ずかしい。
激しくしすぎて顎が少し痛むし、どことは言えない場所が濡れてひんやりする。
随分と夢中になっていたようだと、セリーナは急激な羞恥に苛まれる。
そんなセリーナと同じように、ウィリアムからも照れたような気配が感じられた。
「ごめん、リーナ。寒かったよな」
「そ、そうね。少しだけ……」
「リーナは……僕に会いに来てくれたのか?」
「……ご、ごめんなさいッ。こんな時間に迷惑だとは思ったけど、急に会いたくなってしまって……それで、思わず……」
「思わず、抜け出して来た?」
「……」
セリーナはこくりと無言で首肯した。
今更だが、彼に叱られると思うと辛かった。呆れられてしまうかもと考えたら、少しずつ怖くなってきてしまう。
「そうか……」
ため息混じりの呟きが、悪い予感を後押しする。
「愛してるセリーナ。ありがとう」
言いながらチュッと頰に口付けられた。
予想外の反応に驚いていると、今度は優しく抱きしめられる。
耳元で「ものすごく会いたかった」と囁かれたことで、共鳴鳥が漏らした言葉は本当のことだったのだと実感した。
次からはもっと計画的に、安全に配慮した行動をしなければならないと、深く反省させられた突発的な行動だったけれど……その原動力となったセリーナの恋情を、ウィリアムは真正面から受け止めて、同じくらいの愛情を返してくれた。
(そういうところが好き……本当に、心から。愛しているのは私のほうだわ……)
セリーナは心の中で反抗するように呟いていた。
*
少しでも良いから会いたいという衝動のままにウィリアムを訪ねようとしたセリーナだったが、こうして一目会えたからといってすぐに立ち去れるわけもなく……
早々に屋敷に帰るべきだという常識と、ギリギリまで一緒にいたいという願望に挟まれてしばし葛藤する。
未だに離される気配の無い繋いだ両手を見る限り、ウィリアムも同じことで悩んでいるのが窺えた。
そうしていくばくか迷っていると、意を決したように彼が言う。
「セリーナ。僕は、夜明けまでに戻れば何とかなるんだ。帰りはもちろん送って行く。だから、リーナが良ければ……もうしばらく、僕と一緒に過ごさないか?」
「……ええ……いいわ。喜んで」
セリーナとて、その言葉が含む別の意味や付随するものに気付かないわけじゃない。
婚約者同士であるとはいえ、夜中に未婚の男女が二人きりで過ごすなんて……不道徳極まりないのも分かっている。
だが、自分たちはとうにそんな則は越えている――今更なことだった。
ウィリアムからの誘いや申し出なら、答えはいつだって〝承諾〟だろう。
それが自分の幸せであると――この時のセリーナは信じて疑わなかった。
その日ついに怪鳥の背に乗せてもらうという夢が叶ったセリーナは、月の浮かぶ夜空へと舞い上がることになる。
きらめく水面のように流れ去っていく街の灯りを眺めながら、風をきって進んでいるはずのアベルが纏う、不思議な無抵抗感に包まれながら飛んでいた。
傍らには自分を支えるウィリアムの腕と温もり……セリーナはそれだけでも十分に安心できると感じながら。思いがけず楽しい初飛行となった。
こんなに素晴らしい経験をさせてくれたウィリアムに、今度は自分も同じように彼の願いを叶えたい――そんなことを考えた。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
世間知らずな山ごもり薬師は、××な騎士団長の性癖淫愛から逃げ出せない
二位関りをん
恋愛
平民薬師・クララは国境沿いの深い山奥で暮らしながら、魔法薬の研究に没頭している。招集が下れば山を下りて麓にある病院や娼館で診察補助をしたりしているが、世間知らずなのに変わりはない。
ある日、山の中で倒れている男性を発見。彼はなんと騎士団長・レイルドで女嫌いの噂を持つ人物だった。
当然女嫌いの噂なんて知らないクララは良心に従い彼を助け、治療を施す。
だが、レイルドには隠している秘密……性癖があった。
――君の××××、触らせてもらえないだろうか?
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
贖罪の花嫁はいつわりの婚姻に溺れる
マチバリ
恋愛
貴族令嬢エステルは姉の婚約者を誘惑したという冤罪で修道院に行くことになっていたが、突然ある男の花嫁になり子供を産めと命令されてしまう。夫となる男は稀有な魔力と尊い血統を持ちながらも辺境の屋敷で孤独に暮らす魔法使いアンデリック。
数奇な運命で結婚する事になった二人が呪いをとくように幸せになる物語。
書籍化作業にあたり本編を非公開にしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる