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Part 4. クチナシの君
1.
しおりを挟むあの日あの場所を訪ねたのは、ほんの気まぐれだったのです。
しばらく書類仕事が続いていたために、長く座っていることが苦痛で。それ故の息抜きを兼ねた見回りでした。名目上はただの散策ということで。
いつもの定期巡回よりも半年ほど早い寒い時期。年に一度あるかないかの思い付きでした。
その季節特有の、ひたすら代わり映えの無い景色が続く道無き道を進むだけで、得るものは何もないはずでした。
〝不変の森〟と呼ばれるくらい、何十年も前から成長を止めてしまっている、穏やかで異変のない場所。だからといって手抜きをする性分でも無かったので、ついでとはいえ念入りに、奥の方まで見て回っていました。
まさかその判断が運命の分かれ道であり、奇跡のようなタイミングで遭遇できただなんて。
その日の幸運を、私は生涯忘れない――
* * *
なんだろうか、この匂いは。
「……砂糖?」
いや、砂糖に香りは無いはずだ。でもそれに近い甘ったるい感じは――
「花の香り?」
しかし目の前に広がるのは湿った腐葉土や結晶化した古木が山積し、静まりかえって春を待つ白景色。
霧に飲まれることも間々あるが、それ以外では見通しが良い冬枯れの森である。暖かい季節には枝葉のせいで日当たりが悪く、花など滅多に見られない。
少数の条件の良い場所では多少の花も咲くのだろうが、このように豊潤な香りを持つ花がこんな季節に咲くとは思えない。なにか人為的なものを感じる。
訝しみ、警戒しながら進んでいると、十数タール離れた前方の木の根元に黒っぽい影を見つける。
一歩ずつ足を踏みしめるたびに、食べたくなるような甘い香りが舞い上がって胸が騒めく。
薄々感じていたが、接近するにつれて確信した。
その先に待つ匂いの元は、長らく自分が〝待ち望んでいたモノ〟であると。
「……っ!」
全体を見下ろして息を飲む。あまりの光景に絶句して、ごくりと唾を飲み込んだ。
まさかそんな……あり得ない……!
そんなことを考えながらも心はすでに受容し、誰ともなく罵っていた。
焼け跡のように黒くなった地面に蹲っている彼女はあまりに酷い状態で。想像の範囲を超えた予想外の出来事に、私の心は掻き乱れ、とても言葉にならなかった。
目を逸らしたいのに一瞬たりとも目が離せない、そこだけ切り取ったかのように不自然なほど色鮮やか光景。類稀なる芳香に身を包まれて、理性と本能がせめぎ合う。
周囲を警戒する傍らで、私の身の内には喜びと感動と、焦りと恐怖が押し寄せていた。
身体中が激しく脈打っいるのを感じる。それなのに末端から冷えが忍び寄る。
震える手元を叱咤して、そっと近付き、触れて確かめる。
「……あぁ、よかった……まだ生きてる」
物心ついてから初めて、泣くほど神に感謝した瞬間だった。
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