空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第1章 プロローグ

第1話 プロローグ 神の手、空を見上げる

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 午前五時。救急外来の自動ドアが「ピンポーン」と鳴るたび、院内の空気が一段重たくなる。
 だけど彼の足取りだけは軽かった。白衣の裾をひらひらさせながら、天道(てんどう)隼人――救命、脳外、心外を渡り歩いた大ベテラン――は、コーヒーではなく紙コップのオレンジジュースを片手に現れた。

「先生、コーヒーじゃないんですか?」
「朝は果糖で起動するんだ。果物は正義だ。ビタミンに罪はない」

 看護師の目が「また始まった」という顔になる。隼人は気にしない。オレンジジュースを一口。わずかな酸味で、眠気の配線がスッと切り替わる。窓の外は夜の青。明ける前の空がいちばん好きだった。

 救急車が到着する。多発外傷。隼人は指先で患者の胸骨に触れる、脈に触れる、瞳孔に光を当てる――その動きは、迷いがない。見ている研修医たちは毎度のことながら口を開ける。

「君、挿管準備。君、輸血ライン二本、止血パック。骨盤バインダー締める。三分でCTに飛ぶぞ」
「さ、三分!?」
「三分。で、飛ぶ」

 “飛ぶ”。言った本人が一番嬉しそうだ。隼人はいつも空の言葉を使う。

 処置は流れるように進む。胸腔ドレーンが入る音が「コトン」と鳴った瞬間、患者のサチュレーションが持ち直した。研修医が小さくガッツポーズをする。

「先生、やっぱり“神の手”ですね」
「やめろやめろ。神が聞いたら笑うぞ。私はただの人間の手だ」

 そう言いながら、隼人は患者の額をやさしく撫でる。撫でる、というより“触れて確かめる”。彼の診断は、触れて、知って、決める。

 背後で助手が囁く。「先生、触診だけでよくそこまで……」

「身体は喋るよ。耳より先に、手が聞く」

 また救急車。今度はクモ膜下疑い。CTへ走る途中、隼人はガラス越しに空を見た。白く細い月が、ビルの縁に引っかかっている。

 ――飛びてえなぁ。

 心の中だけで、彼はよく呟く。子どもの頃から鳥が好きだった。父に連れられて高原に行き、空に黒い点がふわりと舞い昇るのを見上げた。あれが鷲だと知った日、初めて“重力”という言葉に反抗した。

 昼。手術室。破裂動脈瘤クリッピング。脳の中の細い細い糸を結ぶ作業に、手術台の上の時間だけは止まる。
 隼人のマスクの奥の目が、ほんの少しだけ楽しそうになる。器械出しの看護師が、彼のクセを知っている。

「先生、今日も果物で釣れました?」
「朝はオレンジ、さっき休憩でリンゴ、夜は桃でフィニッシュだな」
「甘党すぎません?」
「果物は別腹だ」

 縫合を終え、マスクを外す。ふっと軽く息をつくと、背中の羽が広がるような錯覚がする。羽? ないない。ないけど、あったらいいな。

 家に帰る途中、スーパーの果物売り場に吸い込まれる。磨かれた果実の列が宝石みたいに並ぶ。隼人はついつい桃を二つ手に取る。触れた瞬間、固さ、香り、食べごろがわかる。

 ――うん、今夜は当たりだ。

 その夜、病院に呼び戻された。心臓外科の緊急オペ。胸を開いてから四時間、五時間、時間の感覚がなくなる。研修医がふらつくのを肘でフォローしつつ、隼人は心臓の鼓動と呼吸機のリズムを合わせるように、自分の呼吸も整える。

 術野の向こう側で、循環器内科の若手が恐る恐る聞く。

「せ、先生、どうしてそんなに落ち着いて……」
「空の上で焦ると、落ちる。地上でも同じだ」

 術後管理まで付き合い、夜明け前。屋上に出る。

 ――空が、もう少し近ければな。

 手すりに肘を置き、東の地平線が薄桃色にほどけていくのを見つめる。

 ポケットから取り出したのは、昨夜のもう一つの桃。夜勤の看護師に半分渡そうと持ってきたが、タイミングを逃した。

 ひと口。甘い汁が流れる。空気が冷たい。肺が喜ぶ。

 そのとき、風に乗って一枚の羽根が舞い上がってきた。カラスの羽だろうか、黒い。彼の目の前で、ふわりと回転しながら落ちていく。つい手を伸ばして、掴みかけて、笑う。

「なにやってんだ俺は。鳥か」

 インカムが鳴る。救急外来からのコール。多発傷病者受け入れ要請。交通事故の玉突き。

 階段を駆け下りながら、隼人は半分の桃を紙袋に戻し、もう半分だけを口に放り込む。甘い。

 救急外来は騒然としていた。泣いている子ども。怒鳴っている男。血の匂い。

 隼人は順に触れる。手首、足首、腹部、頸部。手が患者の声を聞き、脳が勝手に整理する。

「この子は脾損。輸血準備。そっちの人、気胸。ドレーン。奥の女性は頸椎固定最優先。まだ喋れる? よし、痛い場所の移動禁止」

 指示が飛び、部屋が整理され、混乱が収束していく。

 ひと段落したと思った瞬間、救急の自動ドアがもう一度開いた。ストレッチャーの上に、少年。青い顔。搬送員が言う。

「毒、かもしれません。採取してた山菜を……」

 少年の父親が震える声で言い訳のように繰り返している。

 隼人は少年の口角、手のしびれ、発汗、瞳孔を一瞬で確認し、鼻で匂いを嗅いだ。

――アセチルコリン過剰。ムスカリン症状優位。

 脳内の引き出しが勝手に開く。

「アトロピン、準備。量は――」

 言いかけて、隼人はふと受付のカウンターの上を見た。置きっぱなしの差し入れの果物籠。
 彼はにやりと笑う。

「……いや、まず蜂蜜水。少量でいい。口が動くなら飲ませる。時間の節約だ。アトロピンも同時進行」
「は、蜂蜜!?」
「糖は正義。胃の粘膜の保護と、本人の恐怖に効く。薬は遅れない。ダブルで行け」

 手早く処置が進む。少年の呼吸が少し落ち着いた。父親が何度も頭を下げる。
 隼人は指先で少年の額に触れ、声を落として言った。

「大丈夫だ。次は山菜の“鑑定”は詳しい人に聞け。山の恵みは、準備と敬意がないと牙をむく」

 “鑑定”という言葉が舌の上で転がった。なんの気なしに使ったが、妙にしっくりきた。

 自販機で水を買い、喉を潤す。すると、ロビーの隅の観葉植物に小鳥が止まっているのが目に入った。スズメだ。病院の中に? どうやって。

 小鳥は一声「チュ」と鳴いて、ガラス戸の隙間から空へ抜けた。

 隼人は思わず追いかけて、自動ドアが開くのを待って外へ出る。

 朝の風。空は薄く、やわらかい。

 ――いつか、あれに触れたい。

 おかしな願いだと笑いながら、胸の中でだけ本気で思う。

 昼過ぎ。カンファレンス。若手が症例発表をするたび、隼人は「触ってみた?」と聞く。

「画像を見る前に、触ってみろ。身体はもう答えを出してることが多い」

 それは彼自身の信条であり、癖であり、救急でも手術でも変わらない。「見るより、まず触れる」。

 そして、触れた対象の“状態が頭に流れ込んでくる”ような錯覚を、彼は昔からまとっていた。説明不能。自分の中でだけの比喩だ。

 だからこそ、彼は迷わない。迷わないから、みんなが付いてくる。

 夜、外は雨になった。救急搬送がひと段落し、隼人は当直室のソファに倒れ込む。

 テーブルの上には、昼間の桃の残りと、コンビニの果物ゼリー。

 壁の時計は二十三時を回っている。

 ――今日もよく飛んだ。いや、走った、か。

 目を閉じる。耳の奥で、遠くの雷が小さく鳴った。

 インカムがまた震えた。

「ドクターコール。脳梗塞疑い、発症一時間。搬送中」
「了解。CT室準備。血栓回収も視野」

 身体が自動で起き上がる。足取りは、朝と同じくらい軽い。

 CT室前で救急隊と合流。ドアの前でふと、彼は自販機の横のポスターに目を止める。

 そこには観光地の写真。蒼い山脈の上、黄金色の鷲が翼を広げていた。

 隼人は一瞬、時間を忘れ、ポスターの前に立ち尽くした。

「……かっこいいな。お前、どこまで行ける?」

 答えるはずのない鳥に問いかけて、苦笑い。

 CT室のドアが開く。現実が戻る。

「行こう」

 処置はうまくいった。患者の家族が泣きながら礼を言う。

 深夜二時。雨は止み、月が滲む。

 屋上。さっきのポスターの鳥を思い出しながら、隼人は空に手を伸ばす。

 その瞬間、足元で「カラン」と音がした。

 手すりの外側に、誰かが忘れた工具が一本、転がっていた。拾おうと腰をかがめ――

 世界が、傾いた。

 ほんの少し、重心を誤っただけだ。雨上がりの床が、思ったより滑っただけだ。

 指先が手すりを掴み損ね、手にした工具が宙に舞う。

 視界が、空と地面をぐるりと入れ替える。

 ふわり、と胸が軽くなる。

 ――あ、飛べる。

 馬鹿みたいにそんなことを思い、次の瞬間、強い衝撃が背中を叩いた。

 音が消える。

 痛みは、思ったよりない。代わりに、ひどく眠い。

 遠くで誰かが叫んでいる。名前を呼ばれた気がする。

 隼人は、ゆっくりと目を閉じた。

 暗闇の中で、ひとつだけ音がした。

 風の音。

 どこかで果物屋の鈴が鳴ったような気もする。

 それから、声がした。

〈――空を、飛びたいか〉

 返事は、決まっていた。

 彼は、笑ってうなずいた。

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