空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第2章 はじまり

第2話 鷲、森で初診察する

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 風を切る音が、耳の奥まで届く。

 羽ばたき。羽ばたき?

 意識がゆっくりと浮上してくる中で、最初に感じたのは風の感触だった。頬を撫でる風ではない。全身を包み込むような、圧倒的な風の流れ。まるで風の中を泳いでいるような感覚に、混乱が頭の中を駆け巡る。

 ゆっくりと目を開けると、視界がやけに広い。いや、広すぎる。

 180度近くまで見渡せる視野に戸惑いながら、無意識に首を動かす。すると、さらに驚くべきことに気づいた。首が信じられないほど自由に回転する。人間だった頃には絶対に不可能な角度まで。

 下を見れば、木々の海がうねるように広がっている。緑の絨毯が風に揺れ、葉擦れの音が遠くからかすかに聞こえてくる。高度は相当なものだ。少なくとも数百メートルは上空にいる。

 そして、両脇に広がるのは――翼だ。自分の肩から生えている巨大な翼が、リズミカルに上下している。茶褐色の羽毛に覆われたその翼は、見事なまでに機能的で美しい。風を切り、空気を掴み、自分の体重を支えている。

「……夢だな。うん、夢だ」

 自分の声に違和感がある。低く、短く、かすれている。人間だった頃の声とは全く違う。喉の構造が変わってしまったのだろうか。

「……クエッ」

 やめてくれ。今度は完全に鳥の鳴き声になっている。言葉を発しようとしているのに、出てくるのは鳥類特有の鳴き声だ。これは本当にまずい。意思疎通ができなくなる。

 パニックを抑えながら、試しに足を動かそうとした。しかし、動いたのは足ではなく、鋭い鉤爪だった。人間の足指のような器用さはない。つかめるのは獲物だけのような、純粋に狩猟に特化した構造だ。

 飛んでいることに今さら気づき、慌てて羽ばたきを強める。墜落するかもしれないという恐怖が一瞬頭をよぎったが、意外と簡単にバランスが取れた。体が勝手に風の流れを読み、最適な羽ばたきのリズムを刻んでいる。

 身体が覚えている感覚。いや、この身体は借り物のはずなのに、まるで生まれた時からこの体で生きてきたかのような自然さがある。本能レベルで飛行技術が刻み込まれているのだろう。

 恐る恐る高度を落として、目についた大きな枝に止まってみる。爪が木肌にがっしりと食い込み、体重を完全に支える。握力は人間時代とは比較にならないほど強い。この爪なら、相当大きな獲物でも捕らえられそうだ。

 枝の下には、昨夜の雨でできた水たまりがあった。鏡のように空を映している水面を見下ろし、ふと自分の姿を確認したくなった。恐る恐る覗き込んだ瞬間、息を呑む。

 映っていたのは、鋭い金色の虹彩。太陽光を反射してきらめく、まさに猛禽類特有の眼光だった。鉤型の嘴は黄色みがかった黒色で、獲物を引き裂くのに最適化された形状をしている。茶褐色と黒が美しく混ざり合った羽毛は、一枚一枚が完璧な aerodynamics を持っているようだ。そして肩から先に広がる翼は、自分の人間時代の背丈よりもはるかに大きい。

「……鷲、だな。間違いない。いや、猛禽類になってる場合か俺は」

 現実逃避したい気持ちと、この状況を受け入れなければならないという理性が心の中で激しくせめぎ合う。医者として数々の難しい症例に向き合ってきたが、自分が鳥になるという症例は流石に経験がない。

 感傷に浸っていたら、腹が鳴った。空腹感と共に、視線が勝手に木の上の果実に向く。赤くて丸くて、りんごのような形をした果実が、まるで自分を誘っているかのように風に揺れている。甘い香りが微かに漂ってくる。

「……いや、待て、俺は鷲だぞ。もっとこう、兎とか、魚とか……」

 猛禽類なら肉食のはずだ。果物を食べるなんて、生態系的におかしい。そう理性では理解しているのに、体は正直に果実を欲している。我慢できずに翼を使って近くの果実をついばむ。

「……うまっ」

 瞬間、思考が完全に停止した。人間だった頃に味わったどの果物よりも甘く、ジューシーで、複雑な味わいが口の中に広がる。肉食動物としてのプライドなど、一口で粉々に砕け散った。完全に果物派に堕ちた瞬間だった。

 もう一個、もう一個と夢中になって果実を頬張っていると、突然、耳に――いや、鳥には 外耳がない。耳孔というべきか――助けを求める声が飛び込んできた。

 森の奥から響く、甲高い悲鳴。それは明らかに苦痛に満ちた、助けを求める声だった。

 医者としての本能が反射的に体を動かしていた。果実のことなど忘れて枝から飛び立つ。枝から枝へと素早く移動し、そして大きく翼を広げて空中へ舞い上がる。上空からの視点を活かして、声の主を探す。

 緑の海を見下ろすと、小さな人影が地面に倒れているのが見えた。獣人の子供のようだ。猫科の特徴を持つ幼い獣人が、片足を不自然な角度に曲げて呻いている。その側には、牙を剥き出しにした魔物の死骸が転がっていた。返り討ちには成功したようだが、代償も大きかったらしい。

 迷うことなく枝に降り立ち、子供のそばまで滑空する。人間だった頃の医師としての経験が、鳥の体を動かしている不思議な感覚だった。
 恐る恐る鉤爪で子供に触れた瞬間――視界の端に、無数の医療情報が流れ込んできた。
 右脛骨骨折、軽度の出血、脈拍数上昇、血圧低下の兆候、軽度の脱水症状。さらには胃の中に入っている食べ物の種類まで、まるでX線やCTスキャンで見ているかのように鮮明にわかる。

「……おいおい、本当に"触っただけ"でわかるのかよ」

 冗談みたいだが、脳内で完全に診断が終わっている。これは人間だった頃にも持っていなかった能力だ。転生特典とでも言うべきか。

「君、聞こえるか? ……あー、喋る鳥は初めてか?」

 子供が大きな瞳を見開いて、こちらを見つめている。確かに喋る鳥なんて、この世界でも珍しいのだろう。

「落ち着け。足は折れてるが命に別状はない。ただ、このままじゃ感染とショックが来る」

 医者としての冷静さを保ちながら、周囲を観察する。近くの茂みに、見覚えのある薬草が風に揺れていた。現世で山菜採りをしたときに見た"オオバギシギシ"にそっくりだ。

 だが、ここは異世界だ。見た目が似ていても成分が全く違う可能性がある。安易に使うわけにはいかない。

 恐る恐る葉に嘴をちょんと触れる――瞬間、今度は植物の成分と効能が脳裏に流れ込んだ。タンニン、フラボノイド、止血効果、消毒作用、煮出せば抗炎症薬として使用可能。現世のそれとほぼ同じ成分構成だった。

「……間違いない。こいつは使える」

翼で茂みを指し示しながら、子供に指示を出す。

「これを煮出して飲ませろ。いや、君じゃ無理だ。飲ませられる大人を呼べ」
「……しゃべる……しゃべる鳥……」

 子供の意識が朦朧としてきているのがわかる。ショック症状の初期段階だ。

「あと十秒で気絶するぞ! 急げ!」

 子供は震える手で腰の笛を取り出し、必死に息を吹き込んだ。甲高い音色が森に響く。
 しばらくして、毛むくじゃらの大柄な獣人が森の奥から現れた。筋骨隆々とした体格で、おそらく戦士か狩人だろう。子供を慎重に抱き上げると、警戒するような眼差しで俺を睨む。

「何をした」
「診察と応急処置の指示だ。今すぐこの葉を煮ろ。骨は木の枝で固定しろ」
「……お前、何者だ」
「元・医者。現・鷲。趣味・果物」

 長い沈黙が流れる。獣人は俺を見つめ、子供を見下ろし、また俺を見る。
 次の瞬間、獣人は腹の底から豪快に笑い出した。

「面白い! もし本当にこいつが助かったら……酒でも果物でも好きなだけ持っていけ!」
「じゃあ果物で」
「即答か!」

 獣人の笑い声が森に響く中で、俺は果物への愛を改めて実感していた。

 こうして、異世界での初診察は果物の約束と共に終わった。空を飛ぶ夢は叶ったが、どうやらそれだけでは済まなそうだ。新たな世界で、新たな体で、それでも医者としての使命は変わらない。

 果物好きの空飛ぶ医者として、この世界でどんな冒険が待っているのだろうか――。

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