空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第2章 はじまり

第3話 エルフ薬師と果物の取引

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 子供を獣人の父親に引き渡した翌日、俺は森の高い枝の上でのんびりしていた。

 朝の風は心地よく、木漏れ日が羽毛を温めてくれる。昨日までの緊張感が嘘のように、平和な朝の森に包まれている。眼下には昨日の獣人たちが焚き火を囲み、治療の準備をしているのが見えた。煙が細く立ち上り、薬草を煮出しているいい香りが微かに漂ってくる。

 俺の役目は終わった。あとは彼らの手で治るはずだ。適切な薬草の調合法も伝えたし、骨の固定方法も指示した。医者として出来ることはすべてやった。
 ……そう、役目は終わったはずなのに、だ。

 俺の視線は、森の奥の一本の木に釘付けになっていた。その木の枝に鈴なりになっている、見たこともない果実に。

 黄金色に輝く果実が、朝日を浴びて宝石のように煌めいている。形は洋ナシに似ているが、表面は半透明で、まるで中に蜜が詰まっているかのように光を透かしている。昨日食べた赤い果物よりも、ずっと甘そうな香りが風に乗って運ばれてくる。その香りだけで、もう口の中に唾液が溢れそうになる。

「……あれは、食べるしかない」

 医者としての使命感よりも、果物愛好家としての欲望が勝った瞬間だった。理性など、美味しそうな果物の前では無力だ。

 翼を大きく広げ、黄金果実の木に向かって滑空する。風を切って飛ぶ爽快感と、新しい果物への期待で胸が躍る。しかし、目標の木に近づいた時、その下に人影があることに気づいた。

 緑色のローブをまとった、背の高い人物が立っている。腰まで届く銀髪が朝日にきらめき、まるで絹糸のように美しい。耳は長く、尖っている。顔立ちは整っていて、人間よりも神秘的な美しさを持っている。

 ――エルフ。現実に存在するとこうなるのか。

 その人物は背負った大きな籠に果実や薬草を詰めながら、俺が近づくのをじっと見上げていた。その瞳は深い緑色で、森の奥のように神秘的だった。警戒しているというより、好奇心に満ちた表情を浮かべている。

「……鷲、よね?」

 澄んだ声が朝の静寂に響く。声色からして女性のようだ。

「おう、そうだ」

 俺は近くの太い枝に止まりながら答える。

「しゃべった!?」

 エルフの目がこれでもかというほど見開かれる。長い睫毛に縁取られた瞳が、驚きで丸くなった。口元も僅かに開いて、完全に予想外だったという表情だ。

 俺は翼で黄金果実を指差す。近くで見ると、果実の表面には細かい産毛のような毛が生えていて、触り心地も良さそうだ。

「それ、何の果実だ? 見たことない」
「"ルミエの実"。甘くて滋養があるけれど、生で食べると腹を壊すの」
「……なんだと」

 空腹と期待で膨らんでいた胸が一瞬でしぼむ。せっかく美味しそうな果実を見つけたのに、生で食べられないとは。果物愛好家としては致命的な情報だった。

「でも、加熱すれば毒性が消えて、薬効が高まるの。滋養強壮にとてもいい飲み物になるわ。私の村では病人や疲れた兵士によく飲ませるの」

 エルフは籠の中の果実を手に取りながら説明してくれる。その手は細くて白く、薬師らしい丁寧な手つきだった。

「ふむ……触らせろ」
「は?」

 俺の突然の申し出に、エルフは困惑の表情を浮かべる。まあ、初対面の喋る鷲に「触らせろ」と言われれば、誰でも戸惑うだろう。

 エルフが恐る恐る差し出した果実に、俺は嘴をちょんと触れる。瞬間、脳内に大量の情報が流れ込んできた。タンパク質分解酵素、各種ビタミン、ミネラル、そして加熱によって毒性が消失するメカニズム。最適な調理法まで詳細にわかる。

「……なるほど。沸騰させると香りが飛ぶな。弱火で二十七分、温度は85度前後が最適だ」
「なっ……! 正解よ。それ、私の師匠でも数年かけて覚えたことなのに……どうして一瞬でわかるの?」

 エルフの声には驚愕と、僅かな恐れが混じっていた。確かに、触っただけで詳細な調理法までわかるなんて、普通に考えれば異常だ。

「医者だから」
「意味がわからないわ」

 エルフは腕を組み、俺を観察するように見つめた。その視線は鋭く、まるで希少な標本を観察する研究者のようだった。

「あなた、薬草にも詳しいの?」
「薬草、鉱物、動物の病気、人間の病気、ほぼ全部。触れば成分も症状も効能もわかる」
「……すごいけど、ちょっと怖いわね」

 確かに、相手の立場になって考えれば、得体の知れない能力を持つ喋る鷲など、不気味以外の何物でもないだろう。

 彼女は名をリィナと名乗った。エルフの薬師で、森の奥にある小さな村から薬草や果物を集めに来ているらしい。年齢は見た目より遥かに上で、エルフの寿命を考えれば人間でいう中堅の薬師に当たるそうだ。

 俺が昨日獣人の子供を救った話も、もう彼女の耳に入っていた。

「村に戻ったら、その子の噂で持ちきりだったわ。"しゃべる鷲の医者"って」
「……もう広まったのか」

 異世界の情報伝達速度は侮れない。きっと獣人たちが村々に話を伝えて回ったのだろう。

「良い噂だから大丈夫よ。みんな感謝してるわ。それで……提案があるの」

 リィナは真剣な目で俺を見上げる。その瞳には決意のような光が宿っていた。

「私と一緒に旅をしない? 薬草や薬効の知識はそれなりにあるけど、あなたの鑑定能力は私にはない。あなたがいれば、もっと多くの人を救えるし、未知の薬草の効能もわかる」

 興味深い提案だった。確かに、この世界には見たことのない薬草や果実がまだたくさんありそうだ。そして何より、旅をすれば各地の名産果物を味わえる可能性が高い。

「……悪くない話だが、俺は戦えないぞ。攻撃力ゼロだ。魔物が出てきたらどうする?」
「戦うのは私と、私が声をかける仲間がやるわ。あなたは空から見て、触って、教えてくれればいいの。それだけで充分よ」

 リィナは自信に満ちた表情で答える。どうやら戦闘能力もそれなりにあるらしい。エルフの薬師なら、毒や痺れの薬も使えるだろうし、弓の腕前も期待できそうだ。

「……果物は?」

 最も重要な質問を投げかける。

「街ごとに名産を用意するわ。この大陸には美味しい果物がたくさんあるから」

 その言葉で、俺の心は完全に決まった。

「乗った」
「早っ!」

 リィナは呆れたような、でも嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 こうして、俺は空飛ぶ医者として、エルフ薬師リィナと旅をすることになった。空にはまだ見ぬ果物があり、地上にはまだ救える命がある。医者としての使命と、果物愛好家としての欲望が、見事に両立する理想的な展開だ。

 どうやら退屈だけはしなさそうだ――。
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