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第4章 トラブル
第8話 新たな脅威と旅立ちの準備
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事件が終わった翌日、俺たちは再び《リューネ》の市場を訪れていた。
昨日までの張り詰めた緊張感が嘘のように、市場には平和な日常が戻っていた。商人たちは朝から元気よく声を張り上げ、客たちとの値段交渉に熱を入れている。通りは笑い声と活気ある呼び込みの声で溢れ、子供たちが商品の間を駆け回っている光景も見える。色とりどりの果物や芳しい香辛料、鮮やかな色合いの布、精巧に作られた金属製品が所狭しと並び、商業都市らしい雑多で生命力に満ちた活気が完全に戻っていた。
衛兵隊長の計らいで、今回の報酬はギルドを通さず直接支払われることになった。通常なら仲介手数料を取られるところだが、街の危機を救ったということで特別待遇だ。金貨数枚の現金報酬に加えて――
「こちらはお礼の品です」
隊長が両手で大事そうに差し出したのは、上質な木材で作られた大きな木箱だった。表面には《リューネ》の紋章が彫り込まれており、正式な贈り物であることが分かる。蓋を開けた瞬間、俺の目は釘付けになった。
中には見たこともない果物がぎっしりと詰まっている。それぞれが丁寧に藁で包まれ、まるで宝石のように大切に保管されていた。
鮮やかな青い皮に薄い金の筋が走る「ブルーサンアップル」、表面が絹のように柔らかい毛羽立ちで覆われた小ぶりの「シルキーピーチ」、そして紫と赤のグラデーションが夕焼けのように美しい「ルビースターグレープ」。どれも果物愛好家の俺でさえ見たことがない希少品種ばかりだ。
「……なんというか、まるで宝石箱みたいだな」
思わず溜め息が出る。こんな美しい果物たちを前にして、興奮を抑えるのは不可能だった。
「市場の被害を止めてくれた礼だ。どれもこの街でもそう簡単に手に入らない貴重品だぞ。王侯貴族しか口にできないような代物もある」
「ありがたくいただこう」
俺はさっそく一つ、ブルーサンアップルに嘴を軽く触れる。瞬間、詳細な情報が脳内に流れ込んできた。
――糖度14度、酸味は弱め、芳香成分が特に豊富。皮ごと食べれば疲労回復効果が高く、果汁には解熱作用がある。保存は冷暗所で七日が限度、ただし三日目が味のピーク。
「……これはいい。冷やしても焼いても旨い。生で食べるなら明日の午後がベストだな」
「そんな詳細な食レポみたいな診断、よくそんなにスラスラ口から出てくるわね」
リィナが笑いながらも感心したような表情で言う。彼女も薬師として植物の鑑定はできるが、俺の能力は明らかに異次元だ。
果物をバルグの大きな背負い袋に分けて丁寧に詰めると、俺たちは市場の外れにある「情報屋の店」へ向かった。
あの黒衣の男の胸に刺繍されていた紋章――見覚えがあるような気がするが、記憶の奥底に引っかかっているだけで正体が思い出せない。医者として様々な患者を診てきた中で、どこかで似たような紋章を見た気がするのだが。こういう時は専門家に聞くに限る。
情報屋の店は古びた二階建ての建物で、表向きは古本屋を装っている。看板も「古書店《知識の泉》」となっており、一見すると普通の学術書店だ。棚には歴史書や地理書、薬草図鑑などが並んでいるが、カウンターの奥の壁には、表の市場では絶対に手に入らないような貴重な書物や古文書、そして禁書らしきものまで並んでいた。
「いらっしゃい……おや、これは珍しい客だ。喋る鳥とは聞いていたが、実物を見るのは初めてだ」
細身で長い白髪の老人が、読んでいた分厚い古書から顔を上げた。眼鏡越しの視線は鋭く、まるで人の心の奥まで見透かすような知性を感じさせる。ただの本屋の店主ではないことがすぐに分かった。
俺は男の胸元の紋章を記憶を頼りに紙に描き、カウンターの上に置いた。細部まで正確に再現できたかは怪しいが、特徴的な部分は覚えている。
「この紋章を知ってるか?」
老人はしばらくその紙を眺め、しわがれた指先で紋章の輪郭をゆっくりとなぞった。その表情が次第に険しくなる。
「……"黒羽同盟"だな。厄介な連中の印だ」
「黒羽?」
「ああ。正式名称は『黒羽商工同盟』。だが実態は各地の裏社会を仕切る巨大組織で、表向きは商人ギルドの分派を装っている。毒薬の製造販売、密輸、奴隷取引、賭博、高利貸し、暗殺請負まで、犯罪に関わることなら何でも手広くやっておる」
リィナが眉をひそめ、バルグは低く唸る。想像以上に大きく、悪質な組織だったようだ。
「つまり、今回の毒果物の件も……」
「恐らくは資金調達の一環だろう。市場を混乱させれば競合する商人を潰せるし、恐怖で値を釣り上げることもできる。さらには、混乱に乗じて利権を奪うことも可能だ。だが君たちが邪魔をした。奴らが黙って引き下がるとは思えん」
嫌な予感が背筋を這い上がる。あの黒衣の男は、恐らく組織の末端の駒でしかなかったのかもしれない。本体はもっと大きく、もっと恐ろしい存在なのだろう。
「報復の可能性が高いということか」
「間違いないだろう。奴らは面子を重んじる。組織の威信に関わる」
店を出ると、午後の陽射しが街全体を暖かな黄金色に染めていた。平和な光景だが、その裏に暗い影が潜んでいることを知ってしまった今、素直に美しいとは思えない。
「……すぐにここを発った方がいいかもしれんな」
「賛成だ。正面から組織と戦争なんてしたくない。俺たちは戦士じゃなくて医者と薬師だ」
「でも、どこに向かうの? あてもなく逃げ回るわけにもいかないでしょう」
リィナの問いに、俺は市場の外、南の方角を見やる。遠くに見える山々の向こうに、新たな目的地がある。
衛兵隊長から聞いた話では、南の山岳地帯にある街《グランツ》で、この大陸でも珍しい薬草が大量に採れるとのことだった。高地特有の気候と土壌が、他では育たない貴重な薬草を育むらしい。ただし、そこまでの道のりは険しく、山賊の根城や飛行魔獣の縄張りも点在しているという危険地帯だ。
「《グランツ》だ。薬草と果物の宝庫だそうだ」
「……果物の方が本命でしょ、どうせ」
リィナが呆れ顔をするが、その口元には親しみやすい微笑が浮かんでいる。もう俺の性格を完全に理解しているようだ。
出発は二日後と決めた。それまでに装備と物資を整え、山岳地帯での旅に備える必要がある。特に防寒具と保存食、そして薬草採集用の道具を揃えなければならない。
しかし、その夜のことだった。
宿の二階、俺が止まり木代わりにしている窓辺で夜風に羽を揺らしていると、暗い路地の奥で何かが動いた。月明かりが雲に隠れた瞬間、影の中からこちらをじっと見ている気配を感じる。
月明かりに一瞬だけ照らされ、影の中からこちらを見ている輪郭が浮かぶ。
鋭い視線――そう感じたのは、視覚よりもむしろ肌を刺すような気配のせいだった。
「……もう動き出したか」
黒羽同盟の追手だろう。思ったより行動が早い。
翌朝、バルグとリィナにその件を伝えると、二人は即座に出発を前倒しすることに同意した。
次の目的地《グランツ》への旅は、平和な薬草採集の旅ではなく、追跡者から逃れながらの危険な逃避行になりそうだった。静かに、しかし確実に、新たな波乱の幕開けを予感させる旅立ちとなった。
昨日までの張り詰めた緊張感が嘘のように、市場には平和な日常が戻っていた。商人たちは朝から元気よく声を張り上げ、客たちとの値段交渉に熱を入れている。通りは笑い声と活気ある呼び込みの声で溢れ、子供たちが商品の間を駆け回っている光景も見える。色とりどりの果物や芳しい香辛料、鮮やかな色合いの布、精巧に作られた金属製品が所狭しと並び、商業都市らしい雑多で生命力に満ちた活気が完全に戻っていた。
衛兵隊長の計らいで、今回の報酬はギルドを通さず直接支払われることになった。通常なら仲介手数料を取られるところだが、街の危機を救ったということで特別待遇だ。金貨数枚の現金報酬に加えて――
「こちらはお礼の品です」
隊長が両手で大事そうに差し出したのは、上質な木材で作られた大きな木箱だった。表面には《リューネ》の紋章が彫り込まれており、正式な贈り物であることが分かる。蓋を開けた瞬間、俺の目は釘付けになった。
中には見たこともない果物がぎっしりと詰まっている。それぞれが丁寧に藁で包まれ、まるで宝石のように大切に保管されていた。
鮮やかな青い皮に薄い金の筋が走る「ブルーサンアップル」、表面が絹のように柔らかい毛羽立ちで覆われた小ぶりの「シルキーピーチ」、そして紫と赤のグラデーションが夕焼けのように美しい「ルビースターグレープ」。どれも果物愛好家の俺でさえ見たことがない希少品種ばかりだ。
「……なんというか、まるで宝石箱みたいだな」
思わず溜め息が出る。こんな美しい果物たちを前にして、興奮を抑えるのは不可能だった。
「市場の被害を止めてくれた礼だ。どれもこの街でもそう簡単に手に入らない貴重品だぞ。王侯貴族しか口にできないような代物もある」
「ありがたくいただこう」
俺はさっそく一つ、ブルーサンアップルに嘴を軽く触れる。瞬間、詳細な情報が脳内に流れ込んできた。
――糖度14度、酸味は弱め、芳香成分が特に豊富。皮ごと食べれば疲労回復効果が高く、果汁には解熱作用がある。保存は冷暗所で七日が限度、ただし三日目が味のピーク。
「……これはいい。冷やしても焼いても旨い。生で食べるなら明日の午後がベストだな」
「そんな詳細な食レポみたいな診断、よくそんなにスラスラ口から出てくるわね」
リィナが笑いながらも感心したような表情で言う。彼女も薬師として植物の鑑定はできるが、俺の能力は明らかに異次元だ。
果物をバルグの大きな背負い袋に分けて丁寧に詰めると、俺たちは市場の外れにある「情報屋の店」へ向かった。
あの黒衣の男の胸に刺繍されていた紋章――見覚えがあるような気がするが、記憶の奥底に引っかかっているだけで正体が思い出せない。医者として様々な患者を診てきた中で、どこかで似たような紋章を見た気がするのだが。こういう時は専門家に聞くに限る。
情報屋の店は古びた二階建ての建物で、表向きは古本屋を装っている。看板も「古書店《知識の泉》」となっており、一見すると普通の学術書店だ。棚には歴史書や地理書、薬草図鑑などが並んでいるが、カウンターの奥の壁には、表の市場では絶対に手に入らないような貴重な書物や古文書、そして禁書らしきものまで並んでいた。
「いらっしゃい……おや、これは珍しい客だ。喋る鳥とは聞いていたが、実物を見るのは初めてだ」
細身で長い白髪の老人が、読んでいた分厚い古書から顔を上げた。眼鏡越しの視線は鋭く、まるで人の心の奥まで見透かすような知性を感じさせる。ただの本屋の店主ではないことがすぐに分かった。
俺は男の胸元の紋章を記憶を頼りに紙に描き、カウンターの上に置いた。細部まで正確に再現できたかは怪しいが、特徴的な部分は覚えている。
「この紋章を知ってるか?」
老人はしばらくその紙を眺め、しわがれた指先で紋章の輪郭をゆっくりとなぞった。その表情が次第に険しくなる。
「……"黒羽同盟"だな。厄介な連中の印だ」
「黒羽?」
「ああ。正式名称は『黒羽商工同盟』。だが実態は各地の裏社会を仕切る巨大組織で、表向きは商人ギルドの分派を装っている。毒薬の製造販売、密輸、奴隷取引、賭博、高利貸し、暗殺請負まで、犯罪に関わることなら何でも手広くやっておる」
リィナが眉をひそめ、バルグは低く唸る。想像以上に大きく、悪質な組織だったようだ。
「つまり、今回の毒果物の件も……」
「恐らくは資金調達の一環だろう。市場を混乱させれば競合する商人を潰せるし、恐怖で値を釣り上げることもできる。さらには、混乱に乗じて利権を奪うことも可能だ。だが君たちが邪魔をした。奴らが黙って引き下がるとは思えん」
嫌な予感が背筋を這い上がる。あの黒衣の男は、恐らく組織の末端の駒でしかなかったのかもしれない。本体はもっと大きく、もっと恐ろしい存在なのだろう。
「報復の可能性が高いということか」
「間違いないだろう。奴らは面子を重んじる。組織の威信に関わる」
店を出ると、午後の陽射しが街全体を暖かな黄金色に染めていた。平和な光景だが、その裏に暗い影が潜んでいることを知ってしまった今、素直に美しいとは思えない。
「……すぐにここを発った方がいいかもしれんな」
「賛成だ。正面から組織と戦争なんてしたくない。俺たちは戦士じゃなくて医者と薬師だ」
「でも、どこに向かうの? あてもなく逃げ回るわけにもいかないでしょう」
リィナの問いに、俺は市場の外、南の方角を見やる。遠くに見える山々の向こうに、新たな目的地がある。
衛兵隊長から聞いた話では、南の山岳地帯にある街《グランツ》で、この大陸でも珍しい薬草が大量に採れるとのことだった。高地特有の気候と土壌が、他では育たない貴重な薬草を育むらしい。ただし、そこまでの道のりは険しく、山賊の根城や飛行魔獣の縄張りも点在しているという危険地帯だ。
「《グランツ》だ。薬草と果物の宝庫だそうだ」
「……果物の方が本命でしょ、どうせ」
リィナが呆れ顔をするが、その口元には親しみやすい微笑が浮かんでいる。もう俺の性格を完全に理解しているようだ。
出発は二日後と決めた。それまでに装備と物資を整え、山岳地帯での旅に備える必要がある。特に防寒具と保存食、そして薬草採集用の道具を揃えなければならない。
しかし、その夜のことだった。
宿の二階、俺が止まり木代わりにしている窓辺で夜風に羽を揺らしていると、暗い路地の奥で何かが動いた。月明かりが雲に隠れた瞬間、影の中からこちらをじっと見ている気配を感じる。
月明かりに一瞬だけ照らされ、影の中からこちらを見ている輪郭が浮かぶ。
鋭い視線――そう感じたのは、視覚よりもむしろ肌を刺すような気配のせいだった。
「……もう動き出したか」
黒羽同盟の追手だろう。思ったより行動が早い。
翌朝、バルグとリィナにその件を伝えると、二人は即座に出発を前倒しすることに同意した。
次の目的地《グランツ》への旅は、平和な薬草採集の旅ではなく、追跡者から逃れながらの危険な逃避行になりそうだった。静かに、しかし確実に、新たな波乱の幕開けを予感させる旅立ちとなった。
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