空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

文字の大きさ
10 / 102
第4章 トラブル

第10話 港町《カルミナ》の腐った匂い

しおりを挟む
 港町《カルミナ》に足を踏み入れた瞬間、鼻をつく生臭さと腐臭が混ざり合った空気が、羽毛の隙間まで容赦なく入り込んできた。

 海の町特有の爽やかな潮の香りは確かに存在している。しかし、その本来なら心地よいはずの香りは、まるで濁った油膜の下に沈んでしまったかのように、腐った魚のような悪臭が全てを覆い隠していた。空中を飛んでいる俺にとって、この空気の変化は特に敏感に感じられる。健全な海の香りと病的な腐敗臭のコントラストが、この町の異常事態を如実に物語っていた。

「……これは相当深刻だな」

 俺が上空から町全体を見渡すと、港沿いの大通りは昼間だというのに驚くほど閑散としていた。船は確かに数多く停泊しているが、甲板の上で荷役作業をしている船員たちの動きは明らかに鈍く、活気がない。本来なら賑やかな掛け声が響いているはずの市場も、露店がまばらで、ほとんどの店が重い木の戸を閉ざしている。看板を出している店でさえ、客の姿がほとんど見えない。

 港町の「昼間の静けさ」ほど不自然で不気味なものはない。海と交易で栄えているはずの町が、まるで死んだように静まり返っているのだ。

 先導するダリオは険しい表情のまま口数少なく、俺たちを港の中央区画へと案内していった。彼の背中からも、故郷の変貌に対する悲しみと怒りが伝わってくる。

 大きな石造りの倉庫群が整然と並んでおり、その前では荷役たちが半ばやけくそ気味に重い荷物を運んでいる。積まれているのは魚の干物や塩漬けの樽だが、そのいくつかからも明らかに異臭が漂っていた。普通なら即座に処分されるはずの商品が、なぜかそのまま放置されている。

「被害が一番出てるのは、港の西側だ。……こっちについてきてくれ」

 ダリオが案内したのは、港の一角にある古い木造の長屋だった。漁師や荷役労働者が共同で使う休憩所らしく、建物は年季が入っているが手入れはされている。しかし、重い扉を開けて中に入ると、重苦しい空気と病人の弱々しい呻き声が俺たちを出迎えた。

 室内には十数人の男女が粗末な布団に寝かされており、全員の額には濡れた布が当てられ、枕元には吐瀉物用の桶が置かれている。中には痩せ細って動くことさえできない者もいれば、苦しげに身をよじりながら小さく呻く者もいた。

 高熱と激しい吐き気、そして止まらない下痢……一見すると典型的な食中毒症状だが、患者ごとに症状の程度には大きな差があった。軽症者はまだ意識がはっきりしているが、重症者は目が落ちくぼみ、唇は乾いてひび割れ、呼吸も浅く危険な状態だ。

「こいつは昨日から完全に寝たきりになっちまった……」

 ダリオが心配そうに指差したのは、まだ二十代前半と思われる若い漁師の男だった。がっしりとした体格のはずなのに、今や顔色は土のように悪く、頬はこけ、唇は乾燥でひび割れている。呼吸は浅く、時折苦しそうに眉間にしわを寄せる。

「触らせてもらう」

 俺は男の腕にそっと嘴を触れる。瞬間、詳細な診断情報が脳内に流れ込んできた。

 ――高熱(39.5度)、重度の脱水症状、電解質異常、腸壁の広範囲な炎症。血中に高濃度のヒスタミン類化合物と、少量だが明らかに人工的な未知の化合物が検出される。これは単純な腐敗性ヒスタミン中毒に加えて、意図的に混入された毒性物質による複合中毒だ。

「やっぱり自然な腐敗だけじゃないな。人為的に何かを混ぜ込んでる」

「つまり……誰かが故意に毒を?」

 リィナの声が危険なほど低くなる。薬師として、意図的な毒殺に対する怒りを抑えきれないようだ。

「ああ。しかもこの化合物、保存魚に混ぜれば非常に分かりにくい。普通なら腐った強烈な臭いで誰も口にしないはずだが、この成分には一時的に腐敗臭をマスキングする効果がある」

 俺は視線を港の西側にある倉庫群に向ける。あそこに、答えがあるはずだ。

 バルグは逞しい腕を組み、わずかに顎をしゃくった。

「調べに行くか」

「もちろんだ」



 夕方、港の喧騒がさらに減った薄暮時を見計らって、俺たちは倉庫街へ向かった。

 港湾労働者たちは一日の重労働で疲れ切った表情で家路についており、荷役所の見張りも一日の終わりで警戒が緩んでいる。ダリオが昔からの顔なじみらしい地元の衛兵に事情を説明し、軽く話をつけてくれたおかげで、西側倉庫群の一部に立ち入る特別許可が下りた。

 最初の二棟は至って普通だった。魚の干物や塩漬けが整然と詰まっており、保存状態も良好で特に異常は感じられない。しかし、三棟目に足を踏み入れた途端、これまで嗅いだことがないほど強烈な腐臭が鼻を突いた。

 奥に積まれた樽の重い木の蓋を恐る恐る開けると、中には半分溶けかけた魚肉と、どろどろに黒ずんだ液体が詰まっている。悪臭は想像を絶するほどで、バルグも思わず顔を背けるほどだった。

 さらに別の樽を調べると、そちらには比較的新しい干物が詰まっていたが、俺が嘴で軽く触れた瞬間、確信に至った。

「これだ……明らかに腐敗の兆候があるのに、表面からはほとんど臭わない。例の化合物で巧妙に臭いを抑制してやがる」

「つまり、外見も匂いも"食べられる"状態に見せかけて、実際は毒物を仕込んでるってことね」

「そういうことだ。……このままだと港に入った商船の乗組員が全員やられる可能性がある」

 リィナが薬師として怒りを込めた険しい表情で干物の一部を慎重に切り取り、成分分析用の小瓶に詰める。

「詳しい成分を調べて、適切な解毒薬を作るしかないわね。でもこの量……個人の犯行じゃない。誰がこんな大掛かりで組織的なことを?」

 その疑問に答える前に、俺の鋭い視覚は倉庫の二階部分にある小さな窓際で、わずかに動く怪しい影を捉えた。

 背の高い人影が、フードを深くかぶってじっとこちらを見下ろしている。まるで俺たちの行動を監視していたかのような位置取りだった。夕日の光がわずかに差し込んだ瞬間、その胸元に金糸で刺繍された見覚えのある紋章が輝いた――まぎれもなく《黒羽同盟》の紋章だ。

「……やっぱり奴らが来てたか」

 俺が低く呟くと同時に、その影は素早く窓から後方へと消えた。訓練された動きで、明らかに素人ではない。

 バルグが無言で背中の戦斧を握り、リィナは腰の弓に手を伸ばす。二人とも戦闘態勢に入ったが、相手は既に逃走を開始していた。

 だが、急いで倉庫を飛び出して追跡を試みた時には、その影はもう港の夕方の雑踏の中へ巧妙に紛れ込み、完全に見失っていた。代わりに、夕暮れの海の彼方で、ゆっくりと黒い帆を上げる不気味な船影が見えた。まるで「次の舞台は海の上だ」と俺たちに告げるかのように。

「……どうやら、静かで平和な旅はここまでみたいだな」

 俺は潮風の中で羽を震わせた。

 南の海と古い港町を舞台に、黒羽同盟との新たな闘いの幕が、夕日とともにゆっくりと上がろうとしていた――。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

薬漬けレーサーの異世界学園生活〜無能被験体として捨てられたが、神族に拾われたことで、ダークヒーローとしてナンバーワン走者に君臨します〜

仁徳
ファンタジー
少年はとある研究室で実験動物にされていた。毎日薬漬けの日々を送っていたある日、薬を投与し続けても、魔法もユニークスキルも発動できない落ちこぼれの烙印を押され、魔の森に捨てられる。 森の中で魔物が現れ、少年は死を覚悟したその時、1人の女性に助けられた。 その後、女性により隠された力を引き出された少年は、シャカールと名付けられ、魔走学園の唯一の人間魔競走者として生活をすることになる。 これは、薬漬けだった主人公が、走者として成り上がり、ざまぁやスローライフをしながら有名になって、世界最強になって行く物語 今ここに、新しい異世界レースものが開幕する!スピード感のあるレースに刮目せよ! 競馬やレース、ウマ娘などが好きな方は、絶対に楽しめる内容になっているかと思います。レース系に興味がない方でも、異世界なので、ファンタジー要素のあるレースになっていますので、楽しめる内容になっています。 まずは1話だけでも良いので試し読みをしていただけると幸いです。

異世界に移住することになったので、異世界のルールについて学ぶことになりました!

心太黒蜜きな粉味
ファンタジー
※完結しました。感想をいただけると、今後の励みになります。よろしくお願いします。 これは、今まで暮らしていた世界とはかなり異なる世界に移住することになった僕の話である。 ようやく再就職できた会社をクビになった僕は、不気味な影に取り憑かれ、異世界へと運ばれる。 気がつくと、空を飛んで、口から火を吐いていた! これは?ドラゴン? 僕はドラゴンだったのか?! 自分がドラゴンの先祖返りであると知った僕は、超絶美少女の王様に「もうヒトではないからな!異世界に移住するしかない!」と告げられる。 しかも、この世界では衣食住が保障されていて、お金や結婚、戦争も無いというのだ。なんて良い世界なんだ!と思ったのに、大いなる呪いがあるって? この世界のちょっと特殊なルールを学びながら、僕は呪いを解くため7つの国を巡ることになる。 ※派手なバトルやグロい表現はありません。 ※25話から1話2000文字程度で基本毎日更新しています。 ※なろうでも公開しています。

[完結]異世界転生したら幼女になったが 速攻で村を追い出された件について ~そしていずれ最強になる幼女~

k33
ファンタジー
初めての小説です..! ある日 主人公 マサヤがトラックに引かれ幼女で異世界転生するのだが その先には 転生者は嫌われていると知る そして別の転生者と出会い この世界はゲームの世界と知る そして、そこから 魔法専門学校に入り Aまで目指すが 果たして上がれるのか!? そして 魔王城には立ち寄った者は一人もいないと別の転生者は言うが 果たして マサヤは 魔王城に入り 魔王を倒し無事に日本に帰れるのか!?

【幸せスキル】は蜜の味 ハイハイしてたらレベルアップ

カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
僕の名前はアーリー 不慮な事故で死んでしまった僕は転生することになりました 今度は幸せになってほしいという事でチートな能力を神様から授った まさかの転生という事でチートを駆使して暮らしていきたいと思います ーーーー 間違い召喚3巻発売記念として投稿いたします アーリーは間違い召喚と同じ時期に生まれた作品です 読んでいただけると嬉しいです 23話で一時終了となります

オバちゃんだからこそ ~45歳の異世界珍道中~

鉄 主水
ファンタジー
子育ても一段落した40過ぎの訳あり主婦、里子。 そんなオバちゃん主人公が、突然……異世界へ――。 そこで里子を待ち構えていたのは……今まで見たことのない奇抜な珍獣であった。  「何がどうして、なぜこうなった! でも……せっかくの異世界だ! 思いっ切り楽しんじゃうぞ!」 オバちゃんパワーとオタクパワーを武器に、オバちゃんは我が道を行く! ラブはないけど……笑いあり、涙ありの異世界ドタバタ珍道中。 いざ……はじまり、はじまり……。 ※この作品は、エブリスタ様、小説家になろう様でも投稿しています。

異世界遺跡巡り ~ロマンを求めて異世界冒険~

小狸日
ファンタジー
交通事故に巻き込まれて、異世界に転移した拓(タク)と浩司(コウジ) そこは、剣と魔法の世界だった。 2千年以上昔の勇者の物語、そこに出てくる勇者の遺産。 新しい世界で遺跡探検と異世界料理を楽しもうと思っていたのだが・・・ 気に入らない異世界の常識に小さな喧嘩を売ることにした。

知識スキルで異世界らいふ

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
他の異世界の神様のやらかしで死んだ俺は、その神様の紹介で別の異世界に転生する事になった。地球の神様からもらった知識スキルを駆使して、異世界ライフ

【完結】転生したら最強の魔法使いでした~元ブラック企業OLの異世界無双~

きゅちゃん
ファンタジー
過労死寸前のブラック企業OL・田中美咲(28歳)が、残業中に倒れて異世界に転生。転生先では「セリア・アルクライト」という名前で、なんと世界最強クラスの魔法使いとして生まれ変わる。 前世で我慢し続けた鬱憤を晴らすかのように、理不尽な権力者たちを魔法でバッサバッサと成敗し、困っている人々を助けていく。持ち前の社会人経験と常識、そして圧倒的な魔法力で、この世界の様々な問題を解決していく痛快ストーリー。

処理中です...