空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第4章 トラブル

第11話 夜の港に潜む影

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 カルミナ港に夜が訪れると、昼間の生臭い腐敗臭とは別の匂いが町全体を覆った。

 潮風の冷たさに混じって、焚き火や松明の煙の香ばしい匂い、漁師たちが使う魚油ランプを炊く独特の匂いが漂ってくる。しかし、本来なら夜の港町特有の活気――酒場から響く笑い声、船員たちの陽気な歌声、遅くまで開いている食堂の賑わい――がまるで感じられない。開いている酒場や宿屋は数えるほどで、通りを歩く数少ない人々も皆、どこか急ぎ足で目的地に向かっている。まるで夜の闇に何か恐ろしいものが潜んでいるかのような雰囲気だった。

 俺たちは港近くの古い石造りの宿に部屋を取り、リィナは昼間に持ち帰った毒物の疑いがある干物の切れ端で、詳細な成分分析を始めていた。

 小さな木製の机の上には精密な蒸留器や様々な反応瓶が整然と並び、青や緑に美しく輝く薬液が瓶の中でゆらゆらと揺れている。リィナが薬品を混ぜ合わせるたびに立ち上る湯気に混じって、鼻をつく刺激的な薬品臭が部屋の隅々まで満たしていく。エルフの薬師としての知識と技術が遺憾なく発揮されている光景だった。

「……やっぱりね。予想通りよ」

 リィナは集中した表情で眉間にしわを寄せ、試験管の中で変化していく反応液の微妙な色の変化を見つめながら言った。

「天然の腐敗成分に加えて、明らかに人工的な保存料が……いえ、これは保存料じゃないわ。神経系に直接作用する危険な化学成分よ」

 彼女の声には薬師としての怒りと困惑が滲んでいる。

「適量なら軽い麻痺程度で済むけど、量を誤れば呼吸障害や全身痙攣を引き起こす可能性がある。軽く済んでも数日間は満足に歩けない体になるわね」

 俺は宿の窓辺に止まり、夜の港を見下ろしていた。漆黒の海面には月明かりが銀色の道を作り、静かに揺らめいている。美しい光景だが、視線を少し下に向ければ、倉庫街の一角で怪しい人影がちらほらと動いているのが見える。

 暗がりを巧妙に利用して荷物を運び出す者、倉庫の扉に何やら複雑な細工をしている者――どの動きも、港の公式な夜間荷役作業とは明らかに異なる、秘密裏に行われている作業だった。

「……奴ら、証拠隠滅を図るつもりだな」

「黒羽同盟の連中か?」

 バルグが低い声で警戒しながら問う。

「間違いない。あの統率の取れた動きは、ただの盗賊や密売人のものじゃない。組織的な訓練を受けている」

 俺たちは急いで宿を出て港へ向かった。夜の石畳は海からの湿気と潮で滑りやすく、足音がやけに響いて緊張感を高める。倉庫街に近づくにつれて、松明を手にした数人の影がはっきりと見えてきた。

 中年の体格の良い男が手下たちに手際よく指示を飛ばしながら、問題の干物や樽を次々と荷馬車に積み込んでいる。松明の炎が揺れるたびに、その胸元にも例の黒羽同盟の金色の紋章がちらちらと光った。

 荷馬車の荷台には、リィナが分析に使ったものと同じ種類の、あの異臭を放つ干物がぎっしりと積み込まれている。全てが証拠品だった。

「……あれが全部港から消えてしまう」

「そうなったら決定的な証拠がなくなってしまう」

 バルグが背中の戦斧をゆっくりと構えた瞬間、夜の静寂を破って別の方向から鋭い笛の音が響いた。合図だ。次の瞬間、路地の陰や建物の屋根の上から複数の武装した影が現れ、俺たちを包囲するように素早く動き出す。

「完全に待ち伏せされてたな」

 俺は大きく羽を広げ、月明かりと港に点々と灯る松明の光を頼りに空中へ跳び上がる。夜間飛行は昼間よりも難しいが、鷲の優れた夜目と空間把握能力があれば問題ない。

 明暗のまだら模様の中で影の動きだけを正確に捉えるのは、もう慣れたものだ――夜目の良さには自信がある。

 上空から見下ろせば、敵の戦術的配置は手に取るように明確だった――三人が正面からの退路をふさぎ、二人が側面から挟み込むように回り込み、残りの数人は証拠を積んだ荷馬車を死守している。

「バルグ、右側の二人を押さえろ! リィナは左から回り込んで荷台を確保!」

「了解だ!」

「任せて!」

 夜の静寂を破って、バルグの戦斧が空気を切る重い音と、リィナの弓弦が弾ける鋭い音が響く。俺は急降下して荷馬車の荷台に飛び乗り、嘴で荷物を固定している縄を切り始めた。重い樽の一つを転がして蓋を開けると、中から例の黒ずんだ腐敗した魚が悪臭と共に姿を現す。

 ――これが、港全体を汚染している決定的な証拠だ。

 だが、まさにその瞬間だった。

 真上の建物の屋根から何かが落下してきた。黒い布で包まれた袋状のもの――次の瞬間、それが荷台に激突して破裂し、白い粉末が爆発的に周囲に広がった。視界が一瞬で真っ白に染まり、何も見えなくなる。

 咳き込みながら必死に羽ばたく俺の耳に、荷馬車が慌ただしく走り去る蹄の音と車輪の音が響く。煙幕弾だったのだ。

「くそっ……証拠の大部分を持って行かれた!」

 バルグが斧を振り払いながら悔しそうに叫ぶ。白い粉末が彼の髭や髪にも付着している。

「でも、全部じゃないわ!」

 リィナが勝利の笑みを浮かべながら、しっかりと手に握っていた小さなガラス瓶を掲げた。中には、戦闘前に干物から慎重に削り取った小さな欠片が大切に保管されている。

 ――まだ、完全に負けたわけじゃない。

 俺たちは残った敵の影を素早く蹴散らし、港の迷路のような路地裏を駆け抜けた。遠く、月明かりに照らされた海上には、黒い帆船の不気味な影がゆっくりと沖へ向かっているのが見える。あの船が、奴らの本拠地へと繋がっているのは間違いない。

「次の戦場は……海の上になりそうだな」

 冷たい潮風に羽を震わせながら、俺は静かにそう呟いた。陸での戦いは終わり、いよいよ海上での追跡劇が始まろうとしていた。
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