空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第4章 トラブル

第12話 追跡航路

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 翌朝、カルミナの港はまだ眠っているように静かだった。

 夜明け前の空は美しい薄紫色に染まり、水平線の彼方からわずかに差し始めた朝日の光が、港の静かな水面に金色の筋を幻想的に描き始めている。潮の香りは昨夜よりもずっと強く感じられ、海鳥たちが群れをなしながら低く鳴き交わし、港の上を自由に飛び回っていた。平和な朝の光景だが、昨夜の事件を思えば嵐の前の静けさのようにも感じられる。

 俺は宿の赤い瓦屋根から港全体を見下ろしていた。夜のうちに証拠を持って逃げた黒羽同盟の帆船――あの不気味な黒い帆は、今朝の時点ではまだ沖合のどこにも姿を見せていない。だが、この海域の潮流と風向きから考えて、そう遠くまでは逃げられていないはずだ。必ずどこかに潜んでいる。

 背後で重い足音が近づき、ダリオが力強い声を掛けてきた。

「準備は全て整ったぜ。俺の船なら必ず追いつける」

 港の古い木造桟橋には、彼が操る二本マストの快速帆船《セイレーン号》が朝日を浴びて停泊していた。船体はやや年季が入っているが、細身で速度を重視した流線型の造りになっている。帆布は丁寧に手入れされて真っ白に輝き、甲板も無駄な装備や装飾がなく、海風を最大限に受けて全力で走れるような実用的な構造になっている。

「問題は……奴らがどの方角に向かったかだな」

 バルグが船の縁に太い腕を乗せながら困ったように呟く。

「黒羽同盟の航路は公式な記録には残らない。普通の商船が使う安全な交易路じゃなく、税関や警備を避ける密輸船専用の危険な航路を使うはずだ」

 ダリオはそう説明しながら、古い羊皮紙の海図を甲板の上に慎重に広げる。港の西方、外海へと抜ける広大な海域には、小さな無人島や海面下に潜む危険な暗礁帯が点在していた。潮の流れも非常に複雑で、この海域をよく知る熟練した船乗りでなければ安全な航行は不可能だ。

「俺なら間違いなくあの暗礁帯を安全に抜けられる。もし奴らが隠れ港に向かってるなら、絶対にこのルートを使うはずだ」

 リィナは昨夜の戦闘で辛うじて持ち帰った貴重な毒物入り干物の欠片を、防水加工された布袋に丁寧に包み直し、腰の薬袋の奥深くに大切に収めた。

「これさえあれば、港の長官や衛兵隊に奴らの犯罪を完全に立証できる。でも……できることなら逃がしたくないわね」

「そのために危険を承知で追いかけるんだろう」

 俺は大きく翼を広げ、朝の爽やかな海風を羽毛全体で受けながら短く答えた。



 出航から三時間が経過した頃。

 《セイレーン号》は港の静かな内海を離れ、外海の大きなうねりに乗って力強く進んでいた。甲板の上では絶え間ない潮風が髪と羽毛を激しく乱し、時折、船首が波を切って進む際に立つ白い飛沫が冷たく肌を打つ。船は海面を滑るように進み、風を帆に受けて気持ちよく加速している。

 俺はメインマストの頂上から、360度の視界で海面を監視していた。一見すると何もない広大な青い海原でも、小さな波の乱れ方や太陽光の反射の微細な違いが、他の船が通った航跡をわずかに浮かび上がらせることがある。鷲の視力なら、そうした痕跡を見逃すことはない。

「……見つけたぞ」

 沖の陽炎のような揺らめきの中、遠くに黒い帆がかすかに見えた。まだ相当な距離があるが、風向きの関係で相手は風下に位置しているため、このまま追跡を続ければ必ず追いつけるはずだ。

 俺が翼を大きく振って合図を送ると、ダリオは即座に舵を切り、帆の張り方を調整して船の速度を最大まで上げた。船体が風を受けて軋み、海面を切り裂く音がより一層鋭くなる。

 だが、黒羽同盟の船もこちらの接近に気付いたようで、急に航路を変更し、危険な暗礁帯の奥深くへと逃げ込み始めた。

「やっぱりそこに逃げ込むつもりか!」

 ダリオの声に緊張と興奮が混じる。

 暗礁帯は潮の流れが非常に速く、鋭い岩礁が海面すれすれの見えない場所に無数に潜んでいる。経験のない船や操船技術が未熟な者なら、船体に大穴を開けて大破しかねない危険極まりない海域だ。

「俺が上空から航路を見張る! 岩礁の正確な位置を指示するから、俺の声に従ってくれ!」

 俺は甲板から勢いよく飛び立ち、海面すれすれまで急降下した。海水の色の微妙な変化や波の立ち方、わずかな白波の位置から、水面下に隠れた岩礁の場所を正確に読み取っていく。これは経験と本能を総動員した、命がけの航海術だった。

「次、右に十五度舵を切れ! そのまま直進、三十秒後に今度は左に大きく舵を切れ!」

 甲板のダリオが俺の指示に即座に反応し、熟練した手つきで舵を操る。船は危険な岩礁と危うい距離で擦れ違いながらも、見事に障害物をかわして進む。一歩間違えれば船底に大穴が開く綱渡りの航海だった。

 黒羽同盟の帆船は視界の向こうで不安定に揺れながらも、確実に距離を詰められていた。このまま行けば必ず追いつける。だが、まさにその瞬間、奴らの船尾から何かが海中に投げ込まれ、海面に不気味な白い泡が円状に広がった。

「……嫌な予感がするな」

 泡立つ海面の中から、突然、海水を激しく割って黒い影が複数現れた。鋭く尖った背びれ、ぬらりと不気味に光る鱗、血走った赤い目――これらは普通の海の生物ではない。明らかに、何らかの薬物や邪悪な魔術によって人工的に凶暴化させられた海の怪物だった。

「海魔が来るぞ!」

 俺の警告と同時に、怪物たちは鋭い牙を剥き出しにして《セイレーン号》に向かって猛烈な勢いで突進を開始した――。
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