空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第6章 ヴァルメリア

第32話 黒い風、吹き荒れる

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 運命の二日後の夜――。

 ヴァルメリアの西門周辺は、昼間の活気ある喧騒が嘘のように完全に静まり返っていた。商人たちの呼び込みの声も、荷車の軋む音も、全てが夜の静寂に呑み込まれている。

 月は厚い暗雲に隠れ、星の光すら地上に届かない不気味な夜だった。まるで街全体が息を潜めて身を隠し、何か恐ろしく巨大なものの到来を恐れながら待っているかのようだ。空気自体が重く、嵐の前の静けさを思わせる緊張感に満ちていた。

 俺たちは廃倉庫街の外縁部に身を潜め、敵の動きを息を殺してじっと窺っていた。

 バルグはいつも以上に無駄口を一切叩かず、戦士としての鋭い集中力で周囲を警戒している。リィナも普段の穏やかな表情とは打って変わって、薬師らしい冷静さの中に強い緊張を滲ませていた。

 俺は古い建物の屋根の上から鷲の優れた視力で周囲を詳細に見渡し、敵の警備配置と巡回ルートのパターンを正確に頭に叩き込む。一つのミスも許されない状況だった。

 目標となる倉庫は、他の廃屋よりも一回り大きく、明らかに頑丈な造りになっている。入り口には二人の重装備をした武装警備が、石像のように動かずに立っていた。

 だが、それ以上に俺たちの目を釘付けにしたのは、倉庫の裏手で展開されている光景だった――黒い外套に身を包んだ大勢の集団が、まるで軍隊のような規律で無言の長蛇の列を作り、組織的に荷車へ重い木箱を積み込み続けている。

 闇夜の中でもはっきりと見える黒羽同盟の特徴的な羽根飾り。その作業に従事している人数の規模は、俺たちが事前に想定していたよりもはるかに大きく、背筋が寒くなるほどだった。



 事前に綿密に計画した潜入ルートは三つ。

 バルグは得意の正面突破で警備を制圧し、注意を引きつける。リィナは建物横の人目につかない細い路地から内部への侵入を試みる。俺は屋根を伝って上空から倉庫内部へ侵入する。

 三人が示し合わせたタイミングで、事前に練った計画通り、三方向から同時に行動を開始した。

 俺は翼を体に密着させて空気抵抗を最小限にし、一気に急降下して屋根の小さな窓から音もなく倉庫内部へ滑り込む。

 薄暗い倉庫内部は、外見からは想像もできないほど整然と組織化されていた。中央部には巨大な防水帆布が被せられた荷物がいくつも規則正しく並び、その周囲を複数の黒装束が警戒しながら監視している。明らかに極秘の重要物資だった。

 予定通りリィナが合流し、二人で慎重に帆布の端をそっと捲ってみると――中から現れたのは、これまで見てきた毒物の樽ではなかった。

 ぎっしりと詰まった鉄製の円筒形容器……火薬だ。

 しかも、容器に刻まれた刻印を見る限り、都市防衛用の公的な火薬庫から流出したものと同じ官製の印が押されている。内部関係者の協力がなければ入手不可能な軍事物資だった。

「……これ、もし全部同時に爆発させたら……」

 リィナの声が震えている。

「西門ごと周辺の街区全体が跡形もなく吹き飛ぶな」

 バルグの声は低く抑えられ、鋼鉄のように冷たい怒りが込められていた。



 まさにその瞬間、背後から乾いた拍手の音が不気味に響く。

 振り返ると、刺青の男が暗闇から幽霊のように姿を現した。港でも北区でも見せることのなかった、獲物を完全に追い詰めた捕食者特有の残忍な笑みを、唇の端に浮かべながら。

「よくぞここまで来た。お前たちは必ずここに来ると、最初から信じていた」

 その言葉と同時に、倉庫の四方にある全ての扉が一斉に重い音を立てて閉ざされ、外で待機していた大勢の黒装束たちが雪崩のように一斉に内部へ雪崩れ込んできた。

 十人、いや十五人以上――俺たちは完全に包囲されていた。

「これはお前たちを捕らえるために用意した檻だ。だが安心しろ、檻ごと美しく吹き飛ばしてやる」

 刺青の男の冷酷な視線が、背後に積まれた大量の火薬の山にゆっくりと向けられる。

 奴は本気で、この場所ごと俺たちを完全に消し去るつもりだ。



「バルグ! 火薬から敵を可能な限り引き離せ!」

「任せておけ!」

 バルグの巨体が轟音と共に突進し、複数の敵をまとめて力任せに弾き飛ばす。リィナは正確無比な矢で、火薬につながる導火線らしき紐を的確に切り落とし、爆破のタイミングを必死に遅らせようとする。

 俺は翼を全開にして上空から急降下し、刺青の男に向かって一直線に迫った――が、奴は俺の鋭い嘴を紙一重でかわし、逆に曲刀の切っ先を俺の翼の根元に鋭く掠らせた。

 激しい痛みと共にバランスを完全に崩し、硬い床に叩きつけられる。視界の端で、刺青の男がゆっくりと曲刀を殺人者の構えで握り直すのが見えた。

「これで全てが終わりだ、鷲」

 ――その刹那、倉庫全体を激しく震わせる巨大な轟音が響き、外壁の一部が爆発によって完全に吹き飛んだ。

 土煙と破片が舞い散る中から現れたのは、完全武装した鎧姿の衛兵隊だった。昨日情報を共有した信頼できる隊長が、精鋭の増援部隊を率いて絶妙のタイミングで突入してきたのだ。

 形勢は一気に逆転――と思った瞬間、刺青の男は後方の窓ガラスを一蹴りで粉々に蹴破り、夜の深い闇へと再び神出鬼没の如く姿を消した。



 激しい戦闘の末、火薬は全て安全に押収され、「黒い風」と呼ばれた都市破壊の大規模爆破計画は間一髪で未然に防がれた。ヴァルメリアの街と無数の市民の命が救われたのだ。

 だが、最大の敵である刺青の男を再び取り逃がした事実が、勝利の美酒に苦い後味を残していた。

 瓦礫の山の上で傷ついた翼を休めながら、俺は夜空を見上げた。厚い雲間から覗く月が、まるで俺たちを嘲笑うかのように不気味に輝いているように見えた。

 ――この辛うじて得た勝利は、真の嵐の始まりに過ぎない。
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