空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第6章 ヴァルメリア

第36話 廃墟の中の罠

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 港封鎖作戦二日目の夜、炎と煙に包まれた西門倉庫街での戦闘は、幹部の女剣士を取り逃がす形で終わった。

 だが、逃走した一団が持ち去った木箱の一つが、現場近くに転がっていた。恐らく撤退の混乱で取り残されたものだろう。馬車に積み込む際に落としたか、それとも重量制限で意図的に放棄されたのか――いずれにせよ、俺たちにとっては貴重な手がかりとなった。

 その箱は焦げと煤で外側こそ傷んでいたが、中身は無傷だった。木材が燃えかけた痕跡があるものの、金属製の留め金がしっかりと内容物を守っていたようだ。蓋を開けると、そこには銀色に輝く奇妙な金属製の筒がぎっしりと詰まっていた。一本一本が手のひらほどの大きさで、精巧な細工が施されている。

 リィナが手袋をはめて慎重に一本を取り出し、即座に検査を始めた。筒の表面を嗅ぎ、重さを確認し、わずかに振って中身の音を聞く。その真剣な表情を見ていると、ただならぬ代物であることが伝わってきた。その金属筒は薬品の保存容器で、中には無色透明の液体が入っていた。

 「これ……毒の原料に使われる《カリュム蒸留液》だわ」

 「おい、それってこの前押収した毒物にも混ざってたやつじゃないか」

 バルグが眉をひそめる。彼の記憶力は確かで、以前の事件で押収した毒物の成分をよく覚えていた。

 「そう。単体じゃ無害だけど、特定の鉱石粉末と混ぜれば致死性になる。しかも、無味無臭で発見はほぼ不可能」

 リィナの声は震えていた。薬師として、この液体の危険性を誰よりも理解している。カリュム蒸留液は、古代から暗殺者が愛用してきた毒物の基材だ。単体では無害だが、適切な触媒と組み合わせることで、検知不可能な猛毒に変化する。

 もしこれが大量に市街へばら撒かれれば、港封鎖どころの騒ぎではなくなる――まさに静かなる大量殺戮兵器だ。水源に混入されれば、街の住民全体が危険にさらされる。食料に混ぜられれば、気づいた時にはもう手遅れだ。

 俺は翼を震わせながら、その恐ろしい想像を頭から振り払った。黒羽同盟の計画は、想像以上に大規模で残酷なものだったのだ。



 翌朝、現場の痕跡を追っていた衛兵の一人が、小さな金属片を発見した。

 それは焼け跡の中に半ば埋もれており、見過ごしそうになるほど小さなものだった。しかし、その表面に刻まれた文様は見覚えがある――それは黒羽同盟の紋章が刻まれた留め金で、馬車の車輪に付けられていたものらしい。恐らく逃走時の激しい振動で外れ、地面に落ちたのだろう。

 リィナがその金属片を手に取り、拡大鏡を使って丹念に調べ始めた。表面の汚れや付着物から、移動経路を推定できる可能性がある。彼女の薬学知識は、こうした微細な分析にも威力を発揮する。その金属の汚れを調べた結果、沿岸部特有の塩分と、山間部でしか採れない苔の胞子が同時に付着していることが判明した。

 「沿岸と山地の匂いが両方……?」

 「そんな場所、この周辺じゃひとつしかない」

 バルグが地図を指差す。その指先が示したのは、そこはヴァルメリアの北西にある旧鉱山跡――十年以上前に閉鎖され、今は廃墟と化している地域だった。海岸から内陸に向かって掘り進められた坑道は、地下水脈と交差し、独特の湿度環境を作り出している。

 俺もその場所は知っていた。かつては銀鉱石の採掘で栄えた場所だが、鉱脈が枯渇すると共に放棄された。今では立ち入り禁止区域となっており、崩落の危険もあって誰も近づかない。隠れ家としては理想的な場所だ。

 「だが、本当にそこが黒羽同盟のアジトなのか?」

 俺の疑問に、リィナが頷く。

 「この苔の胞子は、採取されてから二日以内のもの。間違いなく最近そこを通過している」



 昼過ぎ、俺たちは偵察のため旧鉱山跡へ向かった。

 港から馬で二時間ほどの道のりを、俺は上空から、リィナとバルグは地上から進む。周囲の警戒を怠らず、黒羽同盟の見張りがいないか常に注意を払った。上空から見るその場所は、確かに廃墟そのものだった。崩れかけた建物、錆びた機械、雑草に覆われた道。坑道の入り口はコンクリートで封鎖され、「立入禁止」の札が風に揺れている。一見すれば人の気配などない……だが、俺の目は見逃さなかった。

 廃墟の奥にある大きな掘削小屋、その屋根の一部が新しい木材で補修されている。古い建物の中で、そこだけが明らかに最近手を加えられた形跡があった。さらに、裏手の地面には馬車の新しい轍がくっきり残っていた。轍は雑草の生え具合から判断して、せいぜい数日前のものだろう。

 俺は翼を静かに羽ばたかせながら高度を下げ、リィナとバルグに手信号で状況を伝えた。二人も俺の指示を理解し、慎重に建物に近づいていく。

 「……臭うな」

 地上に降り立った俺がつぶやくと、バルグが眉をひそめた。

 「何が?」

 「いや、実際に甘い匂いがする。干し果物の匂いだ」

 「完全にお前の嗅覚フィルターが甘味専用になってるんだが……」

 リィナがため息をつく。確かに俺の甘味への執着は仲間内でも有名だが、今回ばかりは真剣だった。この匂いは明らかに不自然で、わざと置かれたもののような気がする。

 だが、その甘い匂いは本物だった。建物の影に近づくと、廃材の陰に木箱が置かれているのが見えた。箱は新しく、明らかに最近運び込まれたものだ。近づくと、廃材の影に木箱が置かれ、中には干し果物がぎっしり――そして、リィナが箱の底を調べると、その底にカリュム蒸留液の容器が巧妙に隠されていた。

 「やっぱり……これは罠ね」

 リィナの声には警戒が込められていた。しかし、俺はもう一つ別のことに気を取られていた。干し果物の香りが鼻腔を刺激し、理性を揺さぶってくる。

 「でも、もったいないよな。こんなにおいしそうな干し果物を罠に使うなんて」

 「おい、まさか……」

 バルグが俺を制止しようとしたが、時すでに遅し。俺は思わず干し果物を一つ摘まんで口に放り込んでしまった。甘酸っぱい味が口の中に広がり、思わず笑みがこぼれる。



 罠は突然動いた。

 俺が干し果物を口に入れた瞬間、足元の地面が崩れ、俺は地下へ真っ逆さまに落ちた。体重に反応する仕掛けだったようで、木の板で偽装された落とし穴が開いたのだ。慌てて翼を広げて減速したものの、落ちた先は暗闇の通路だった。

 地下は思っていたより広く、人工的に掘られた坑道が続いている。松明の明かりが通路の奥から漏れており、確実に人がいることが分かった。そこには黒羽同盟の兵が数人、松明を手に待ち構えていた。彼らは俺が落ちてくることを予想していたかのように、武器を構えて身構えている。にやりと笑うその顔が、松明の光で不気味に浮かび上がる。

 「餌に食いついたな、鳥野郎」

 その挑発的な言葉に、俺は内心で苦笑した。確かに餌に釣られたのは事実だが、結果的に敵の隠れ家を発見できたのだから、悪い結果ではない。

 上から覗き込むリィナとバルグの姿が見える。穴の縁から心配そうに下を見下ろしているが、すぐに降りてくることはできないだろう。どうやら、俺が囮になる形で敵の地下施設の入り口を暴いたらしい。

 「……いや、囮って言っても、ただ甘味に釣られただけなんだけどな」

 「自分で言うな!」

 バルグの怒鳴り声が上から響いてくる。リィナも呆れた表情を隠せずにいるが、同時に俺の安全を心配している様子だった。

 黒装束の兵士たちが俺を囲み、武器を向けてくる。剣を持つ者、短槍を構える者、弓を引く者――いずれも訓練を積んだ戦士たちだ。しかし、俺も翼を持つ戦士として、地下戦闘の経験は積んでいる。バルグの怒鳴り声を背に、俺は鋭い嘴を構えて地下の敵に突っ込んだ。

 翼は狭い地下では制約があるが、それでも機動力の優位は保てる。何より、この地下施設の構造を把握し、黒羽同盟の計画を阻止することが最優先だ。

 「さあ、来い。お前たちの計画を全て暴いてやる」

 俺はそう宣言し、最初の敵に向かって突進した。松明の光が翼の影を壁に大きく映し、地下坑道に戦闘の音が響き始めた。剣と爪のぶつかり合う金属音、翼で風を切る音、敵の怒号と俺の鋭い鳴き声――暗闇の中で激しい戦いが幕を開けた。

 敵の一人が槍を構えて突進してくるが、俺は身を低くして翼で相手の足を払う。バランスを崩した敵に、鋭い嘴で肩を突いて無力化する。致命傷は与えず、あくまで戦闘不能にするだけだ。情報を得るためには、生かしておく必要がある。

 しかし、敵も手強い。地下戦闘に慣れているようで、松明の光を巧みに利用して俺の影を攪乱してくる。翼の動きが制限される狭い空間では、俺の優位も限定的だった。

 「上からの援護はまだか……」

 俺がそうつぶやいた時、頭上から太いロープが垂れ下がってきた。リィナとバルグが別の入り口を見つけ、降下準備を整えたようだ。これで形勢は一気に逆転する。

 地下坑道での戦いは、まだ始まったばかりだった。
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