空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第7章

第47話 波間に漂う異変

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 その日、港町は珍しく晴天に恵まれていた。

 数日続いた雲り空が嘘のように晴れ渡り、青空が港町全体を包んでいる。海は穏やかで、陽光を反射して銀色に輝いている。波も穏やかで、港の堤防に打ち寄せる音も心地よいリズムを刻んでいた。漁師たちは久しぶりに沖へと船を出し、港は魚の匂いと活気で満ちていた。

 封鎖が続いていた港だが、この日は漁業だけは許可され、町全体が久しぶりの活気を取り戻していた。市場には新鮮な魚が並び、商人たちの掛け声が響いている。住民たちの表情も明るく、長い間続いていた緊張が少し和らいでいるようだった。

 だが、その賑わいの中に、妙な違和感が混じっていた。

 表面的には平和な日常が戻ったように見えるが、注意深く観察すると不自然な点がいくつもある。衛兵の巡回が普段より頻繁で、住民たちの笑顔にもどこか作り物めいた感じがある。まるで、何かを押し隠そうとしているかのようだった。

 朝方、港の倉庫街で爆発音があったという噂が駆け巡った。

 実際には爆発ではなく、荷物の山が突然崩れただけだったらしいが、その荷の中から"正体不明の樽"がいくつも見つかったのだという。

 噂は尾ひれがついて広がり、人によって話の内容が微妙に違っている。しかし、樽が発見されたという事実は共通しており、何らかの異常事態が発生したことは間違いないようだった。



 衛兵隊の調査に同行した俺たちは、その樽を確認した。

 倉庫街は普段以上に厳重な警備が敷かれており、一般人の立ち入りは制限されている。現場は港の古い倉庫の一つで、長年使われていない建物だった。表面は普通の木製だが、底板の一部に焼き印が押されている。――黒羽同盟の紋章だ。

 樽は全部で七つあり、いずれも同じ大きさで統一されている。明らかに計画的に配置されたものだ。焼き印も鮮明で、最近押されたものだと分かる。

「中身は?」と俺が尋ねると、衛兵の一人が顔をしかめた。

「……海水のような匂いだが、どうも違う。魚の腐った臭いに、薬草を混ぜたような……」

 その描写だけで、ただならぬ代物であることが想像できる。普通の海水や魚なら、このような異様な匂いはしないはずだ。

 リィナが手袋をはめ、小さな液体サンプルを採取する。

 彼女は慎重に樽の縁から少量の液体を採取し、小さなガラス瓶に移している。薬師としての経験から、未知の物質を扱う際の安全手順を熟知している。そして、嗅いだ瞬間に顔を曇らせた。

「これ……毒じゃない。でも、放置すると何かが繁殖する。しかも、かなり早い速度で」

 彼女の声は低く、周囲に聞かれないよう配慮していた。

 毒でないなら安全かと思いきや、逆に厄介な代物のようだ。俺は直感的に嫌な予感を覚える。これは直接的な攻撃ではなく、"時間をかけて広がる何か"だ。

 生物兵器の類いかもしれない。毒よりも発見が困難で、気づいた時には手遅れになっている可能性がある。

「どんなものが繁殖するんだ?」

 バルグの質問に、リィナは首を振った。

「分からない。でも、この匂いと色から判断すると、恐らく病原体の培養液。感染症を引き起こす可能性がある」



 調査を終えて宿へ戻る途中、港の一角で人だかりができていた。

 人々の話し声が騒然としており、何か重大な事態が発生したことが分かる。漁から戻った男が桟橋で倒れ、息苦しそうに胸を押さえている。

 男は中年の漁師で、普段なら健康そのものの体格をしている。しかし今は顔色が悪く、呼吸も荒い。明らかに異常な状態だった。

「熱が高い……! 呼吸が浅いわ!」

 人混みをかき分け、リィナが男の容態を確認する。

 彼女は素早く男の脈を取り、体温を確認している。医療知識も豊富で、緊急時の対応にも慣れている。その表情は深刻で、ただの体調不良ではないことを示している。

 周囲の漁師たちは「昨日まで元気だった」「急に船の上で具合が悪くなった」と口々に言う。

 症状の急激な変化は、感染症の特徴と一致している。しかも、海上で発症したということは、海からの感染源が疑われる。

 潮風に混じって、先ほど倉庫で嗅いだあの異様な臭いが微かに漂っていた。

 風向きを考えると、倉庫から港全体にその臭いが拡散している可能性がある。もし病原体が空気感染するなら、港の住民全体が危険にさらされている。

 バルグが俺に目配せをした。

「……これ、偶然じゃねえな」

 俺も頷く。黒羽同盟の報復は、剣や火薬だけではない。

 今度は、目に見えない"病"という形で迫ってきているのかもしれない。直接的な戦闘よりも発見が困難で、対処も複雑だ。しかも、感染が拡大すれば被害は甚大になる。

「すぐに隔離措置を取るべきだ」

 俺がリィナに提案すると、彼女も同意した。

「この男性だけでなく、同じ船に乗っていた人たち、そして接触した可能性がある人たちも検査が必要よ」



 夜、港の沖に小さな漁船が一艘、音もなく入り込んできた。

 俺は宿の屋根で夜番をしていた時、その不審な船影を発見した。帆も出さず、櫂だけで静かに進むその船影は、月明かりを避けるように波間に消えていく。

 普通の漁船なら堂々と港に入ってくるはずだが、この船は明らかに人目を避けている。しかも、港の封鎖をすり抜けて侵入してきたということは、相当な技術と準備を持った者たちの仕業だ。

 船は港の奥深くまで進入せず、外縁部で何かを海に投下しているようだった。その後、来た時と同様に静かに沖へ戻っていく。

 俺は屋根の上からそれを見下ろし、背筋が冷たくなるのを感じた。

 あの船は、港に入るためではなく、"何かを置いていく"ために来たのだと。海に投下された物体が何なのかは分からないが、樽の件と関連している可能性は高い。

 恐らく病原体の培養液を海に撒いているのだろう。海流に乗って港全体に拡散し、漁業や水の利用を通じて住民に感染していく仕組みなのかもしれない。

 ――波間に漂う異変は、すでに港全体を包み込み始めていた。

 翌朝には、さらに多くの住民が体調不良を訴えるかもしれない。目に見えない敵との戦いが、静かに始まっていた。

 俺は急いで屋根から降り、リィナとバルグを起こした。事態は予想以上に深刻で、一刻も早い対策が必要だった。

「緊急事態だ。港全体に感染症が広がろうとしている」

 俺の報告を聞いて、二人とも即座に状況を理解した。これまでの戦いとは性質が異なる、新たな脅威との戦いが始まろうとしていた。

 時間との勝負だった。感染拡大を阻止し、住民の命を守るために、俺たちは再び行動を開始した。
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