空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第7章

第63話 戦いの終わり

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 戦いの熱が去った夜の空気は、刺すように冷たい。

 激しい戦闘で火照った身体に、夜風が容赦なく冷たさを運んでくる。海面にはさっきまでの死闘が嘘のように穏やかな波が広がり、月光を受けて揺れていた。

 自然は人間の戦いなど知らぬ顔で、いつも通りの美しい夜景を見せている。黒槍の狩人が沈んだあたりも、もう泡ひとつ残っていない。まるで最初から存在しなかったかのように、海は静かだった。

 だが、海風に混じる血と鉄の匂いは、つい数分前までそこに死があったことを物語っている。

 戦いの痕跡は目には見えないが、確実にそこに残されている。

(……生き残った)

 それが実感として胸に広がった瞬間、緊張で硬直していた筋肉が一気に弛緩した。

 長時間の緊張状態から解放され、身体が正直な反応を示している。同時に、膝が笑い、翼が重く垂れ下がる。

 戦いを終えた身体は、もう一歩も無駄に動きたくないと訴えていた。

 今まで気合いで持ちこたえていた疲労が、一気に押し寄せてくる。



 崖下から、バルグの豪快な笑い声が響いた。

「見たか、あの海獣の顔!」

 勝者の余裕がその声に滲んでいるが、息は荒く、全身から湯気を立てていた。

 興奮状態にあるとはいえ、激しい戦闘で相当な体力を消耗しているのは明らかだった。魔術師の死骸と共に海獣が沈んだ跡が、潮に揉まれながら波間に消えていく。

 巨大な海獣も、今では海の底で静かに眠っている。

 崖の上に目をやれば、洞窟の入り口からリィナと衛兵たちが姿を現した。

 全員無事に脱出できたようで、安堵の表情を浮かべている。彼女はまだ口元を布で覆ったままだが、無事な姿に胸を撫で下ろす。

 毒性ガスの影響はまだ残っているようだが、命に別状はなさそうだった。

「お互い、死ななくて済んだみたいね」

 リィナはそう言いながらも、足取りがふらついていた。

 薬剤の揮発や酸欠で頭が朦朧としているのだろう。彼女の戦いも相当過酷だったことが、その様子から伝わってくる。

 俺とバルグは目を合わせ、同時に頷いた。

 言葉を交わさなくても、互いの健闘を称え合うことができる。それが長い間共に戦ってきた仲間の絆だった。

「もう終わりか?」

「いや――まだだ」

 戦闘は終了したが、まだやるべきことが残っている。敵の施設を完全に破壊し、二度と使用できないようにしなければならない。



 施設の内部は、まだ破壊しきれていない。

 汚染液の製造設備は止まっているが、敵が再建を試みれば再び脅威になる。機械類や保管されていた原料をそのままにしておけば、いずれ復活する可能性がある。

 俺たちは再び洞窟に戻り、残された樽や魔導器を一つ残らず破壊していった。

 慎重に、しかし確実に、すべての危険物を無力化していく作業だった。

 金属を叩き壊す音と、薬剤が燃え上がる匂いが、夜の闇に響く。

 破壊作業は地味だが重要で、これを怠れば今夜の戦いが無駄になってしまう。焦げた石壁に映る炎の影が、死闘の余韻を際立たせた。

 最後の爆薬を仕掛け、俺たちは外へ退避する。

 安全な距離まで離れてから、起爆装置を作動させる。夜の海を背に、洞窟が低い爆音と共に崩れ落ちた。

 石と砂が噴き上がり、内部は完全に瓦礫の山と化す。

 これで敵の拠点は完全に使用不能になった。

「これで……もう二度と、あの施設は使えねぇ」

 バルグの声には、勝利の実感がこもっていた。

 今夜の作戦は完全な成功を収め、黒羽同盟の計画は阻止された。



 港町へ戻る道中、月は西の空に傾き、東の空がわずかに白み始めていた。

 長い夜がようやく終わりを迎えようとしている。夜明け前の冷たい空気が肺に入り、戦いの緊張を少しずつ洗い流していく。

 自然の美しさが、心の平静を取り戻すのを助けてくれる。

 その静けさの中で、俺はふと背後の海を振り返った。

 何か気になることがあるような気がして、無意識に振り返ってしまう。

 ――黒槍の狩人。

 あれほどの戦士が、あれほどの執念を見せて沈んだ。しかし、死体が本当に沈んだままなのか、それは誰にも確認できていない。

 重装甲であれば確実に沈むはずだが、魔術師なら何らかの手段を持っている可能性もある。

 月光を受けた波間が、どこか不気味に煌めいていた。

(……あいつが、これで終わりとは限らない)

 戦士としての直感が、まだ危険が去っていないことを告げている。胸の奥に、冷たい予感が残る。

 黒羽同盟の本当の計画も、その全貌はまだ見えていない。

 今回の作戦は彼らの計画の一部に過ぎない可能性もあり、油断は禁物だった。



 港町の入り口で、見張りの衛兵が俺たちを見つけて叫んだ。

「戻ったぞ! 全員、生きて帰った!」

 その声に、町中の灯りが一斉にともる。

 住民たちが俺たちの帰還を心から喜んでくれているのが分かる。眠っていた住民たちが次々と顔を出し、俺たちの無事を喜ぶ声が溢れた。

 この光景を守るために戦った――そう実感できる瞬間だった。

 住民たちの笑顔こそが、俺たちが戦い続ける理由だった。

 だが同時に、胸の奥には戦いの残滓がまだくすぶっている。

 完全な勝利を収めたはずなのに、なぜか心の底に不安が残っている。夜明けの光が町を照らす頃、そのくすぶりは炎に変わるだろう。

 黒羽同盟との戦いは、まだ終わってはいない。

 今回の勝利は一つの節目に過ぎず、真の平和を取り戻すまでには、まだ長い道のりが待っているのかもしれない。

 しかし、仲間と共に戦い続ける限り、どんな困難も乗り越えられるはずだ。今夜の勝利がその証拠だった。

 俺は町の明かりを見つめながら、次の戦いへの覚悟を新たにした。港町の平和を守るために、俺たちの戦いは続いていく。
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