空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第7章

第70話 岩礁の罠

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 海面を切り裂く潮風の中、俺と黒槍の狩人の距離は縮まる一方だった。塩分を含んだ風が頬を叩き、海の匂いが鼻腔を刺激する。瞬間硬化薬で稼いだ数秒など、奴にとってはほんの小休止にすぎないらしい。

 足を海から引き抜いた狩人は、再び海面を蹴り、波間を駆けるように迫ってくる。重装甲を身に纏いながらも、まるで海上を陸地のように走る超人的な技術だ。黒いオーラが鎧から立ち上り、槍先にも同様の魔力が渦巻いている。奴の執念深さと戦闘能力に、背筋に冷たいものが走った。

(……くそ、やっぱり化け物だな)

 心の中で毒づきながらも、俺は冷静に距離を測り続ける。港はすでに視界の端に小さくなっており、故郷の街並みが遠くかすんで見えた。あの港では今も仲間たちが必死に戦っているはずだ。この狩人を何とか始末しなければ、彼らの努力も水の泡になってしまう。

 沖合の岩礁帯まであと百メートル――その手前に、半ば沈みかけた難破船が不気味に口を開けて待っていた。数年前の嵐で座礁したその船は、船体の半分が海中に没し、残りの部分も波に削られて朽ち果てている。甲板は穴だらけで、マストは根元から折れて海に浮いていた。

 俺は高度を下げ、あえて岩礁帯の真上を通るルートを取った。眼下には鋭い岩が群れをなし、波が砕けて白い飛沫を上げている。海中に沈んだ岩礁は、海面からはその位置が分からないものも多い。重装甲の人間が落ちれば、たとえ生き延びても身動きは取れなくなるだろう。

 海鳥たちが上空を舞い、時折鳴き声を上げている。彼らにとって、眼下で繰り広げられる死闘など、日常の一風景にすぎないのかもしれない。しかし俺にとっては、この戦いこそが港町の運命を左右する決定的な瞬間なのだ。



 狩人の気配が背後で濃くなる。殺気が肌を刺すように伝わってきて、本能的に危険を察知する。息を殺して距離を測り、あえて速度をわずかに落とす。囮として自分を差し出し、狩人を誘い込む作戦だ。

 予想通り、奴はすぐに食いつき、槍を構えて跳躍した――この瞬間を待っていた。狩人の跳躍力は常人の何倍もあり、一気に十数メートルの距離を詰めてくる。黒い鎧が陽光を反射し、槍先の魔力が空気を震わせていた。

 俺は反転し、翼で全力の突風を奴の正面へ叩きつける。これまで温存していた力を一気に解放し、海面を巻き上げるほどの暴風を生み出した。海面が盛り上がり、狩人の跳躍軌道がわずかにずれた。

 そのまま奴は難破船の残骸に叩きつけられる。朽ちた木材と錆びた金属が軋み、船体全体が大きく揺れた。鈍い衝撃音が海上に響き渡り、海鳥が一斉に飛び立った。羽音と鳴き声が騒々しく空を満たし、まるで戦場の混乱を象徴しているかのようだった。

 俺は上空で旋回しながら、狩人の様子を窺う。これで終わりであってほしいという願いと、そう簡単にはいかないだろうという予感が心の中で交錯していた。



 しかし――狩人は沈まなかった。予想していたとはいえ、その生命力の強さに愕然とする。砕けた甲板の中から、鎧を軋ませながら立ち上がる姿は、まさに不死身の戦士そのものだった。

 左腕がだらりと下がり、肩の装甲は大きく歪んでいる。鎧の表面には無数の傷が刻まれ、所々で内部の素材が露出していた。それでも奴は槍を手放していない。右手で槍を支え、依然として俺を見据える眼光は少しも衰えていなかった。

(マジかよ……あれで動くのか)

 狩人の執念深さに戦慄を覚えながらも、俺は次の手を考える。岩礁帯の上では、海流が複雑に渦を巻いている。潮の満ち引きによって岩の位置も微妙に変化し、足場は非常に不安定だ。

 狩人が一歩踏み出すたびに、足元の岩が不安定に沈み、波が腰まで打ち付ける。海水が鎧の隙間に侵入し、重量を増している様子が見て取れた。それでも奴の眼光は一点、俺を捉え続けていた。その集中力と闘志に、改めて相手の恐ろしさを実感する。

 難破船の残骸が波に揺られ、きしみ音を立てている。船底に開いた穴から海水が出入りし、時折空気の塊が泡となって海面に浮上していた。この不安定な足場では、いかに狩人といえども自由な動きは取れないはずだ。



 俺は高度を取り、再び急降下の態勢に入る。今度は狙うのは槍ではなく、奴の足元――海面下に見える岩の先端だ。水中に隠れた岩礁は、見た目以上に鋭く、そして深い。

 翼を最大限に広げ、突風と波を同時に叩きつける。風と水の力を組み合わせ、狩人の足を岩礁の間へ押し込むように誘導した。海水が渦巻き、白い泡が立ち上る。

 水中で岩に足を取られた狩人が、一瞬だけ動きを止める。重い鎧が足枷となり、水中での身動きを大きく制限していた。その隙を逃さず、俺は翼で波を巻き起こし、さらに体勢を崩させた。

 連続する波が狩人を襲い、奴のバランスが完全に崩れる。黒い鎧が海中に没し、槍を持つ手が必死に海面上に伸びていた。しかし、岩礁の複雑な地形と重い装備が、奴の動きを致命的に阻害している。

 波に呑まれた狩人の姿が、ゆっくりと海中に消えていく。海水が鎧の隙間に入り込み、浮力を奪っていく様子が手に取るように分かった。最後まで抵抗していた狩人だったが、ついに海の力には勝てなかった。



 しばらくして海面に浮かんだのは、折れた黒槍と、鎧の一部だった。槍は根元近くで真っ二つに折れ、鎧の破片は無数の傷を負って原形を留めていない。深い海流がそれらを巻き込み、ゆっくりと海底へ沈めていく。

 奴が生きているのか、死んだのか――確認はできない。しかし、重い鎧を着けたまま岩礁だらけの海底に沈んだのだ。仮に生きていたとしても、すぐに浮上することは不可能だろう。少なくとも今すぐ港を脅かす力は失われた。

 俺は大きく息をつき、全身の緊張を解いた。翼が疲労で重く感じられ、呼吸も荒くなっている。これほど長時間の空中戦は初めての経験だった。だが、やり遂げた達成感と安堵感が胸を満たしている。

 港の方角へ向き直ると、遠くに見える港の防衛線では、リィナとバルグが必死に戦っているのが見えた。黒煙が上がっているが、その量は先ほどより減っている。敵の勢いは明らかに落ちていた。狩人という最大の脅威が取り除かれたことで、戦況は好転しているようだ。

 海風が頬を撫で、潮の香りが心地よく感じられる。さっきまでの死闘が嘘のように、海は静寂を取り戻していた。海鳥たちも再び岩礁の上に降り立ち、何事もなかったかのように羽繕いを始めている。

(戻るぞ……まだ終わってない)

 狩人は倒したが、港での戦いはまだ続いている。仲間たちが俺の帰りを待っているはずだ。潮風を切り裂きながら、俺は港へ向けて飛び立った。翼に新たな力が宿り、故郷への道のりが短く感じられる。

 狩人との死闘を越えて、戦いの行方は仲間たちの奮闘に委ねられている。しかし俺は確信していた。この勝利が、必ず港町に平和をもたらすと。陽光が海面に反射し、希望の光のように俺の行く手を照らしていた。

 背後では、岩礁帯が静寂の中に佇んでいる。そこには激闘の痕跡だけが残り、狩人の存在を示すものは海に漂う破片だけとなった。新たな伝説が、この海に刻まれたのかもしれない。
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