空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第7章

第72話 静けさの裏で

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夕暮れの港は、戦いの痕跡を色濃く残していた。オレンジ色の夕日が海面を染める中、焼け焦げた小舟が岸壁に打ち寄せられ、石畳には破損した武器や鎧が散乱している。戦闘の激しさを物語るように、建物の壁には矢が刺さり、爆発によって抉れた箇所があちこちに見受けられた。

 海面には火薬の匂いと血の匂いが混じり、波がゆっくりとそれらを運び去ろうとしていた。潮風に乗って漂ってくるその混合した臭いは、勝利の余韻を複雑なものにしている。美しい夕暮れの光景とは裏腹に、戦争の現実を突きつけられているような気分だった。

 防衛隊員たちは怪我人を担ぎ、住民たちは壊れた家屋の修復に取りかかっている。女性たちは破れた網を繕い、男性たちは倒れた看板を立て直していた。子供たちも小さな手で瓦礫を運び、家族の手伝いをしている。港全体が、戦いの熱気から復旧の熱気へと移行していた。

 俺は上空からその様子を見下ろしながら、人々の生命力の強さに感心する。どんなに辛い状況でも、彼らは立ち上がり、明日への準備を始める。医者として数多くの人間を見てきたが、この逞しさこそが生命の本質なのかもしれない。



「さて……どれだけ汚染されたか、調べるか」

 リィナが汚れた白衣の袖をまくり上げ、海辺にしゃがみ込んだ。戦闘中の煤や血が付着した彼女の服装は、普段の清潔な薬師の姿とは程遠い。しかし、その表情は真剣そのもので、プロフェッショナルとしての責任感が滲み出ている。

 手には見慣れた木製の試験管ケースがあり、海水をすくっては色の変化を確かめている。ガラス製の細い管に入った液体を光にかざし、微細な反応を観察していた。試験管の中の液体がわずかに緑がかって光るのを見て、彼女は小さく眉をひそめた。

「やっぱり反応がある……でも濃度はかなり薄いわね。今すぐ危険ってほどじゃない」

「"今すぐ"ってのが怖い言い方だな」

「医療者は常に最悪を想定するものよ。……それに、これ、自然分解しないかも」

 リィナの言葉に、俺の心に重いものが沈む。自然分解しない汚染物質ほど厄介なものはない。一度環境に放出されれば、何年、何十年と残り続け、生態系全体を蝕んでいく可能性がある。

 俺は空から港外の海を見下ろした。戦闘中に割れた樽から漏れ出した汚染液は、薄まりながらも沿岸に漂っている。夕日に照らされた海面には、わずかに虹色の膜が浮かんでいるのが見えた。通常の油膜とは明らかに異なる、不自然な輝きだ。

 流れによっては他の港や漁村にも届く可能性があった。この地域一帯の漁業が壊滅的な打撃を受けるかもしれない。そうなれば、多くの人々の生活が脅かされることになる。

 ふと、沖の方で海鳥が一羽、海面でもがいているのが目に入った。羽がべっとりと濡れ、飛び立とうとしても上手くいかない。普通の鳥なら油汚れ程度で済むはずだが、あれはただの油汚れではない。羽毛の表面が化学的に変質している。

(やっぱり、この液体……自然界にとって致命的だ)

 同じ鳥として、あの海鳥の苦痛が他人事には思えない。汚染物質がこれほど即効性を持っているとすれば、長期的な影響は計り知れない。海洋生物全体が危険にさらされている可能性がある。



「なあワシ」

 後ろからバルグがやってきて、肩をどん、と叩く。その手は戦闘の疲労でいつもより重く、彼も相当疲れているのが分かった。それでも彼の表情は明るく、勝利の高揚感がまだ残っている。

「港の連中、今夜は大宴会だってよ。お前も来いよ」

「宴会か……羽の手入れをしてからなら」

「それが"医者らしい断り方"か? 普通は"風呂入ってから"だろ」

 バルグの突っ込みに、思わず笑ってしまった。確かに人間なら「風呂に入ってから」と言うところだ。鳥である俺にとって、羽の手入れは入浴に相当する大切な身繕いだが、人間には理解しにくいかもしれない。

「羽が汚れてると飛行性能が落ちるんだよ。命に関わる問題だ」

「お前にとっては風呂より大事ってことか。まあ、鳥だもんな」

 バルグは豪快に笑いながら、俺の事情を理解してくれた。こういう細かい配慮ができるところが、彼の魅力でもある。

 しかし、心の中では複雑な感情が渦巻いていた。今夜の宴は勝利の祝い。住民たちにとって、この喜びは何物にも代えがたいものだろう。しかし俺たちが勝ったのは、この港の戦いだけだ。背後にいる黒羽同盟の本隊や、汚染兵器の出所まではまだ掴めていない。

 真の平和にはまだ遠い道のりがあるというのに、今から危機感を煽るべきなのか。それとも、せめて今夜だけは人々に安らぎを与えるべきなのか。医者としての判断に迷いが生じる。

「……そういえば、宴会に果物は出るのか?」

「お、そっちに食いついたな! ああ、港の名産のオレンジがたくさん用意してあるぞ」

 その言葉で、俺の気持ちが少し軽くなった。美味しい果物があるなら、少しくらい宴会に顔を出してもいいかもしれない。人々の笑顔を見ることで、守るべきものの価値を再確認することもできるだろう。



 その夜、港町の中央広場は灯火と笑い声で満たされていた。松明やランタンが暖かい光を放ち、戦いの傷跡を優しく隠している。焼き魚やスープの香りが漂い、子供たちが駆け回っている。久しぶりに見る平和な光景に、心がほころんだ。

 リィナも珍しく酒杯を手に、周囲と談笑していた。普段の真面目な薬師の顔とは違い、リラックスした表情を見せている。戦いを乗り越えた安堵感と、仲間たちとの絆が彼女の心を癒しているようだった。

 俺も約束通り用意されたオレンジを味わっていた。港の特産だけあって、甘みと酸味のバランスが絶妙だ。果汁が口の中に広がるたびに、生きている実感が湧いてくる。戦いの疲れも、美味しい果物で少しずつ癒されていく。

 だが――宴の隅で、咳をしている少年がいた。戦闘での怪我ではない。年齢は十歳前後で、家族と一緒に食事をしているが、時折苦しそうに咳き込んでいる。

 医者としての本能が働き、俺はさりげなく少年に近づいた。翼で軽く触れた瞬間、胸部の内部に異常な炎症反応が広がっているのが分かった。気管支と肺胞に軽度の損傷があり、何らかの刺激性物質を吸入した症状だ。

(まさか……)

 嫌な予感が頭をよぎる。目を細め、会場を見回すと、さらに二、三人の大人にも同じ症状があることを確認した。年配の漁師、中年の女性、若い防衛隊員。共通するのは、喉の炎症、微熱、そして呼吸の浅さだ。

 症状は軽微だが、明らかに通常の風邪や疲労とは異なる。化学物質による急性中毒の初期症状に酷似している。もしこれが汚染液由来の病原なら――港の戦いは、世界規模の感染症との戦いの始まりになる。

 祭り囃子の音が、急に遠く聞こえた。人々の笑い声も、どこか虚ろに響く。勝利の喜びに沸く群衆の中で、俺だけが次なる脅威の存在を感じ取っていた。

 俺は杯を置き、リィナの方へ歩き出した。彼女に状況を伝え、対策を考える必要がある。この症状が広がれば、港町全体が危険にさらされる可能性がある。

(……宴は終わりだ。次はもっと厄介な敵が来る)

 美しい夜空の下で繰り広げられる祝祭の影で、新たな戦いの火種がくすぶり始めていた。今度の敵は剣や槍ではなく、目に見えない毒と病気だ。医者として、そして港町の守護者として、俺は再び行動を起こさなければならない。

 オレンジの甘い余韻が口の中に残っているが、それすらも今は苦く感じられた。平和な時間は、思っていたよりもずっと短かったようだ。
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