空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

文字の大きさ
74 / 102
第7章

第74話 見えざる運び屋

しおりを挟む
翌朝、港町はまだ静かだった。薄い朝霧が海面に漂い、遠くの山々がぼんやりと霞んでいる。昨夜の宴で疲れ果てた住民たちは、遅めの朝を迎えている。普段なら漁師たちが早朝から活動する時間だが、今日は勝利の余韻に浸る特別な朝として、ゆっくりと目覚めようとしていた。

 しかし――診療所に改装された空き倉庫では、静かどころではなかった。昨夜の平穏は嘘のように、緊迫した空気が漂っている。

「咳き込みが強くなってる。酸素吸入を!」

 リィナの声が鋭く響く。普段の落ち着いた声色とは打って変わって、緊急事態を告げる医療従事者の声だった。数時間前まで軽症だった中年の漁師が、呼吸困難を訴えて倒れたのだ。

 その漁師は港でも評判の頑健な男で、嵐の日でも船を出すほどの体力自慢だった。そんな彼が、顔は蒼白、唇は紫色になって苦しんでいる。呼吸音はゼーゼーと濁り、まるで肺の中に水が溜まっているかのような音を立てていた。

 俺はすぐに翼で軽く胸を叩き、気道の通りを確保する。鳥としての軽やかな動きが、このような医療行為では意外にも有効だった。同時に触診を行うと、肺内部の炎症は昨夜の数倍に悪化していることが分かった。まるで体内で何かが急速に増殖しているかのような勢いだ。

 炎症の広がり方が尋常ではない。通常の細菌感染やウイルス感染とは明らかに異なるパターンを示している。何らかの人工的に設計された病原体である可能性が高い。

「……これはただの化学的刺激じゃないな」

「ええ。病原体の活動が加速してる。下手すると数時間で致命的になる」

 リィナの診断も俺と同じ結論に達していた。彼女の顔には、医者として最悪の事態を想定せざるを得ない苦悩が浮かんでいる。空気が重くなる。港町の復興ムードは、この瞬間に終わりを告げた。

 他の患者たちも不安そうに様子を窺っている。軽症だった彼らも、同じ運命を辿る可能性があるのだ。倉庫の中に漂う緊張感は、患者たちの心理状態をさらに悪化させていた。

「大丈夫だ。必ず治療法を見つける」

 俺は患者たちに向けて声をかけたが、自分自身にも言い聞かせているような部分があった。未知の病原体に対する恐怖は、医者であっても完全に払拭できるものではない。



 午前中のうちに、患者はさらに六人増えた。症状は皆同じで、軽度の呼吸器症状から始まって、急速に悪化していく。リィナは新たな患者の診察に追われ、俺も触診による状態把握に忙殺されていた。

 共通点を洗い出すため、俺たちは詳細な聞き取り調査を実施した。すると、全員が昨日の夕方、海辺で荷物運びを手伝っていたことが分かった。戦闘後の復旧作業の一環として、住民たちが協力して作業に当たっていたのだ。

 荷物の中には、戦闘後に海から引き上げた"漂着物"が含まれていた。戦闘の混乱で海に散らばった様々な物品を回収し、分類していた作業だった。

「樽の破片や網……それに、金属製の箱」

 若い防衛隊員が報告する。彼の顔には、自分たちが何か重要な手がかりを見落としていたのではないかという不安が浮かんでいた。

「その金属製の箱、今は?」

「……港の倉庫に」

 その答えを聞いた瞬間、リィナと俺は顔を見合わせた。互いの考えが一致したことを確認すると、そのまま倉庫へ走った。足音が石畳に響き、緊急事態であることを周囲に知らせている。

 朝の清々しい空気が、急に重苦しく感じられた。港町の平和な朝の風景の中に、死の匂いが潜んでいるという現実を受け入れるのは辛いことだった。



 倉庫は港の中心部にある大きな建物で、普段は漁具や保存食品を保管している場所だった。木の扉を開けると、海の塩の匂いと古い木材の匂いが鼻を突く。

 倉庫の奥、麻袋の山の陰に、それはあった。膝ほどの高さの金属箱。表面は黒い塗料で塗られており、まるで夜闇に溶け込むように作られているかのようだった。角には奇妙な刻印が彫られている。文字ではなく、幾何学的な模様のような図形だった。

 近づくと、わずかに例の異臭が漂ってきた。昨夜海辺で嗅いだ、あの化学的で不快な匂いだ。しかし、ここではより濃厚で、直接的に感じられる。

「触るな。揮発性がある」

 リィナが制止する。彼女の医学的知識が、この物質の危険性を正確に把握していた。箱の隙間から漏れ出した液体が床板を染み込ませ、その部分の木材が変色していた。まるで酸によって腐食されたかのような状態だ。

 俺は細心の注意を払いながら、箱の外側に翼先を軽く触れた――瞬時に内部の状態が感覚として流れ込む。この特殊能力が、今ほど重要に感じられたことはなかった。

 液体は三層に分かれており、上層は透明、中層は緑がかった色、最下層には黒い沈殿物が溜まっている。そして、その沈殿物の中に封じ込められた微細な粒子。それらは呼吸器系で活性化するよう精密に設計されていた。

 この設計の巧妙さに背筋が寒くなる。自然界には存在しない、明らかに人工的に作られた生物兵器だった。

「……やられたな。これは港に流すためじゃなく、直接持ち込むための容器だ」

「じゃあ、誰かが意図的に……」

 そこまで言って、俺たちは同時に気づく。昨日の戦闘後、この箱を拾い上げたのは――外部から来た荷運び人だ。港の住民ではない、よそから来た商人らしき男だった。

 その男は「別の町への輸送の手伝いがある」と言って、夜明け前に港を発っていた。親切に復旧作業を手伝ってくれた好人物だと思っていたが、実際には敵の工作員だったのだ。

「完全に計算されてた……」

 リィナの声には、悔しさと怒りが混じっていた。敵の巧妙な作戦に、俺たちは見事に騙されていたのだ。



「追うぞ」

 俺の言葉に、リィナは即座に頷く。しかし、現実的な問題があった。

「待て、港を離れたら誰が患者を守る」

 防衛隊長の指摘は的確だった。患者の容態は悪化の一途を辿っており、常時監視が必要な状態だ。

「患者は私が残って看る。ワシは行って」

 リィナは迷いなくそう言った。その瞳には、昨夜以上の緊張と覚悟が宿っている。彼女は医者として、患者を見捨てることはできない。同時に、感染源を断つことの重要性も理解していた。

「一人で大丈夫か?」

「大丈夫よ。それに、防衛隊の衛生兵も手伝ってくれるから」

 彼女の強い意志を感じ取り、俺は短く頷いた。今は役割分担が重要だ。リィナは港の患者を守り、俺は感染源を断つ。

 俺は翼を広げ、飛行の準備を整えた。海からの風が、まだ冷たい。朝の風は普段なら爽やかに感じられるものだが、今は不吉な前兆のように思えた。だがその先には、必ずこの病の答えがあるはずだ。

 港の屋根を越え、北方へと飛び立つ。眼下に広がる港町の風景が、いつもより小さく、か細く見えた。あの美しい町を守るために、俺は必ず敵を捕らえなければならない。

 黒羽同盟が送り込んだ"運び屋"を捕らえなければ、この病はさらに広がる。そして――運び屋を通じて、敵の中枢に迫る手がかりを掴むのだ。

(今度は、踊らされてたまるか)

 上空から海を見下ろすと、海原の向こうに小さな帆船の影が見えた。朝日を浴びて白い帆が輝いている。普段なら美しい光景だが、今は逃走する敵の姿にしか見えない。

 俺は速度を上げ、獲物を狩る鷹のように一直線にその影へ向かった。翼を大きく羽ばたかせ、最大速度で追跡を開始する。風を切って飛ぶ爽快感よりも、使命感の方が勝っていた。

 あの船の上にいるのは、港町を危険にさらした張本人だ。そして、黒羽同盟の真の目的を知る重要な手がかりでもある。絶対に取り逃がすわけにはいかない。

 海風が頬を叩き、塩の匂いが鼻を刺激する。しかし今は、その自然の恵みすらも汚染の恐怖で色褪せて感じられた。一刻も早く敵を捕らえ、この悪夢を終わらせなければならない。

 船影は徐々に大きくなってきている。俺の飛行速度の方が速い。あと少しで追いつけるはずだ。そして今度こそ、敵の正体を暴いてやる。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

薬漬けレーサーの異世界学園生活〜無能被験体として捨てられたが、神族に拾われたことで、ダークヒーローとしてナンバーワン走者に君臨します〜

仁徳
ファンタジー
少年はとある研究室で実験動物にされていた。毎日薬漬けの日々を送っていたある日、薬を投与し続けても、魔法もユニークスキルも発動できない落ちこぼれの烙印を押され、魔の森に捨てられる。 森の中で魔物が現れ、少年は死を覚悟したその時、1人の女性に助けられた。 その後、女性により隠された力を引き出された少年は、シャカールと名付けられ、魔走学園の唯一の人間魔競走者として生活をすることになる。 これは、薬漬けだった主人公が、走者として成り上がり、ざまぁやスローライフをしながら有名になって、世界最強になって行く物語 今ここに、新しい異世界レースものが開幕する!スピード感のあるレースに刮目せよ! 競馬やレース、ウマ娘などが好きな方は、絶対に楽しめる内容になっているかと思います。レース系に興味がない方でも、異世界なので、ファンタジー要素のあるレースになっていますので、楽しめる内容になっています。 まずは1話だけでも良いので試し読みをしていただけると幸いです。

異世界に移住することになったので、異世界のルールについて学ぶことになりました!

心太黒蜜きな粉味
ファンタジー
※完結しました。感想をいただけると、今後の励みになります。よろしくお願いします。 これは、今まで暮らしていた世界とはかなり異なる世界に移住することになった僕の話である。 ようやく再就職できた会社をクビになった僕は、不気味な影に取り憑かれ、異世界へと運ばれる。 気がつくと、空を飛んで、口から火を吐いていた! これは?ドラゴン? 僕はドラゴンだったのか?! 自分がドラゴンの先祖返りであると知った僕は、超絶美少女の王様に「もうヒトではないからな!異世界に移住するしかない!」と告げられる。 しかも、この世界では衣食住が保障されていて、お金や結婚、戦争も無いというのだ。なんて良い世界なんだ!と思ったのに、大いなる呪いがあるって? この世界のちょっと特殊なルールを学びながら、僕は呪いを解くため7つの国を巡ることになる。 ※派手なバトルやグロい表現はありません。 ※25話から1話2000文字程度で基本毎日更新しています。 ※なろうでも公開しています。

[完結]異世界転生したら幼女になったが 速攻で村を追い出された件について ~そしていずれ最強になる幼女~

k33
ファンタジー
初めての小説です..! ある日 主人公 マサヤがトラックに引かれ幼女で異世界転生するのだが その先には 転生者は嫌われていると知る そして別の転生者と出会い この世界はゲームの世界と知る そして、そこから 魔法専門学校に入り Aまで目指すが 果たして上がれるのか!? そして 魔王城には立ち寄った者は一人もいないと別の転生者は言うが 果たして マサヤは 魔王城に入り 魔王を倒し無事に日本に帰れるのか!?

【幸せスキル】は蜜の味 ハイハイしてたらレベルアップ

カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
僕の名前はアーリー 不慮な事故で死んでしまった僕は転生することになりました 今度は幸せになってほしいという事でチートな能力を神様から授った まさかの転生という事でチートを駆使して暮らしていきたいと思います ーーーー 間違い召喚3巻発売記念として投稿いたします アーリーは間違い召喚と同じ時期に生まれた作品です 読んでいただけると嬉しいです 23話で一時終了となります

オバちゃんだからこそ ~45歳の異世界珍道中~

鉄 主水
ファンタジー
子育ても一段落した40過ぎの訳あり主婦、里子。 そんなオバちゃん主人公が、突然……異世界へ――。 そこで里子を待ち構えていたのは……今まで見たことのない奇抜な珍獣であった。  「何がどうして、なぜこうなった! でも……せっかくの異世界だ! 思いっ切り楽しんじゃうぞ!」 オバちゃんパワーとオタクパワーを武器に、オバちゃんは我が道を行く! ラブはないけど……笑いあり、涙ありの異世界ドタバタ珍道中。 いざ……はじまり、はじまり……。 ※この作品は、エブリスタ様、小説家になろう様でも投稿しています。

異世界遺跡巡り ~ロマンを求めて異世界冒険~

小狸日
ファンタジー
交通事故に巻き込まれて、異世界に転移した拓(タク)と浩司(コウジ) そこは、剣と魔法の世界だった。 2千年以上昔の勇者の物語、そこに出てくる勇者の遺産。 新しい世界で遺跡探検と異世界料理を楽しもうと思っていたのだが・・・ 気に入らない異世界の常識に小さな喧嘩を売ることにした。

知識スキルで異世界らいふ

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
他の異世界の神様のやらかしで死んだ俺は、その神様の紹介で別の異世界に転生する事になった。地球の神様からもらった知識スキルを駆使して、異世界ライフ

【完結】転生したら最強の魔法使いでした~元ブラック企業OLの異世界無双~

きゅちゃん
ファンタジー
過労死寸前のブラック企業OL・田中美咲(28歳)が、残業中に倒れて異世界に転生。転生先では「セリア・アルクライト」という名前で、なんと世界最強クラスの魔法使いとして生まれ変わる。 前世で我慢し続けた鬱憤を晴らすかのように、理不尽な権力者たちを魔法でバッサバッサと成敗し、困っている人々を助けていく。持ち前の社会人経験と常識、そして圧倒的な魔法力で、この世界の様々な問題を解決していく痛快ストーリー。

処理中です...