空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第7章

第76話 刻まれた座標

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 港町の輪郭が、朝霧の向こうに浮かび上がってきた。白い霧が海面から立ち昇り、街全体を幻想的なヴェールで包んでいる。瓦屋根の家々、白い灯台、そして広場の松明の跡。昨夜の宴会の余韻を残す風景が、朝の静寂の中に佇んでいた。

 しかし、遠くからでも、俺は倉庫の方角に漂う緊張感を感じ取れた。普段なら朝市の準備で賑わっているはずの港が、どこか重苦しい空気に包まれている。鷲としての鋭敏な感覚が、異常事態の続いていることを告げていた。

 着地と同時に、防衛隊員の一人が慌てたように駆け寄ってくる。普段は冷静沈着で知られる彼の顔色は悪く、額には冷や汗がにじんでいた。ただ事ではない様子に、俺の心に不安が広がる。

「ワシ殿! リィナさんが……すぐに診療所へ来てくれと!」

 その切迫した口調に、胸騒ぎが走る。追跡中の数時間で、患者の容態がさらに悪化したのだろうか。俺は返事もそこそこに翼を広げ、倉庫へ向けて急行した。

 倉庫の入り口に到着し、俺は室内の光景に息を呑んだ。昨夜よりも明らかに深刻化している状況が、一目で理解できた。

 毛布に包まれた患者たちが横たわり、その半数以上が昨日よりも明らかに容態を悪化させていた。呼吸音は荒く、規則正しいリズムを失っている。咳の合間に血の混じった痰を吐く者までおり、その光景は医者としての俺でさえ胸が痛くなるものだった。

 空気中には薬草の匂いと、ほのかな鉄臭さが混ざっていた。薬草はリィナが調合した薬の匂いだが、鉄臭さは患者から出血している証拠だ。病原体の活動がさらに活発化し、内臓にまで影響を及ぼし始めているのかもしれない。

 リィナは患者のベッドの間を忙しく動き回り、一人一人の状態を確認していた。その表情は疲労と緊張で強張り、普段の落ち着いた薬師の顔とは程遠い。彼女一人でこれだけの患者を看るのは、明らかに限界を超えている。

「戻ったのね!」

 リィナが振り向き、俺の手元の金属板にすぐ目を留めた。その鋭い観察眼は、医者としての職業的な習慣なのだろう。重要な手がかりを持ち帰ったことを、一瞬で察知したようだ。

「……それが、敵の手がかり?」

「ああ。運び屋が持っていた。港で見た箱と同じ刻印がある。それと、座標らしき数字も」

 俺は金属板を差し出しながら、船上での出来事を簡潔に報告した。運び屋の正体、自害による情報隠滅、そして最後に残されたこの金属板について。

 リィナはすぐさま作業台の地図を広げ、座標を照合し始めた。彼女の動作は迅速で正確だ。数値を読み上げながら、地図上の該当位置を探していく。俺も隣で覗き込み、針先で示される位置を確認する。

 しかし、指し示された場所に陸地はなかった。地図上では、そこは沖合いの危険海域――暗礁が多く、古くから「船喰らいの海」と呼ばれている一帯だった。海図には「航行注意」の文字が赤で記されており、商船の航路からは意図的に外されている海域だ。

「……普通の商船は近づかない場所だわ。潮流が複雑で、羅針盤も狂う」

「隠れ家にはうってつけってわけか」

 リィナの表情は険しく変わった。医者の顔ではなく、もう完全に戦場の仲間としての顔になっていた。患者を守る薬師から、敵と戦う戦士への変貌だった。

「黒羽同盟の古い記録に、この辺りで"影の港"を築いたって噂があるの。公式には存在しない港よ」

 リィナの博識さに改めて感心する。彼女の知識は薬学にとどまらず、この地域の歴史や政治情勢にまで及んでいる。

「じゃあ、そこが……」

「おそらく汚染液の製造拠点。そして病原体の培養場」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の血が冷たくなった。もしそこが敵の主要拠点だとすれば、今回の攻撃は氷山の一角にすぎない。より大規模で致命的な攻撃が準備されている可能性がある。

 重い沈黙が室内に降りる。そこを叩けば、この病の根を絶てるかもしれない――だが、危険度は計り知れない。敵の本拠地に乗り込むということは、これまでとは比較にならない規模の戦いを意味する。

 患者たちの荒い呼吸音だけが、静寂を破っている。時間が経つにつれて、その音は弱々しくなっていくように感じられた。



 思考を巡らせていると、診療所の奥から特に荒い息が聞こえた。昨日最初に容態が悪化した漁師の男が、苦しげに胸を押さえ、身をよじっている。その様子は見ているだけで痛々しく、家族らしき女性が心配そうに付き添っていた。

 俺はすぐに彼のもとへ向かい、翼で軽く触診を行った。肺の炎症が急速に広がっており、昨夜よりもさらに悪化している。炎症の範囲は肺全体に及び、酸素の取り込み効率が著しく低下していた。

「進行が早すぎる……」

 リィナが唇を噛む。彼女の医学的知識でも、この急激な悪化は予想を超えていたようだ。

「これじゃ、あと数日で港全体が……」

 その言葉を最後まで聞くまでもなく、俺には状況の深刻さが理解できた。このペースで感染が拡大し、症状が悪化すれば、港町全体が壊滅的な被害を受ける。住民の多くが命を落とす可能性すらある。

 猶予はない。金属板が示す場所へ向かう準備を、今日から始める必要がある。敵の拠点を突き止め、汚染源を根絶しなければ、この悪夢は終わらない。

 俺は改めて金属板を握りしめた。冷たい金属の感触が、まるで「迷うな」と背中を押してくるようだった。この小さな板に刻まれた座標が、港町の運命を左右する鍵となる。

(時間との勝負だ……)

 窓の外では、朝日が完全に海面を照らし始めていた。普段なら希望に満ちた美しい朝の光景だが、今日ばかりはその光がやけに薄く感じられた。港町を覆う病気という影は、まだ濃く、そして長い。

 リィナが俺の方を向き、決意を込めた表情で口を開いた。

「私も一緒に行くわ」

「え? でも患者たちは……」

「防衛隊の衛生兵に引き継げる。それに、向こうで汚染液や病原体を分析するには、私の知識が必要でしょう」

 確かに、敵の拠点で発見するであろう物質の分析には、リィナの専門知識が不可欠だ。しかし、危険な任務に彼女を巻き込むのは心苦しい。

「危険すぎるぞ。俺一人で……」

「一人じゃ無理よ。あなたは戦闘が専門じゃないでしょう? それに、バルグも一緒に来ると言ってるわ」

 その時、倉庫の入り口からバルグの豪快な声が響いた。

「おーい! 面白そうな話してるじゃねぇか!」

 彼の存在感が、重い空気を少し和らげてくれた。こんな状況でも明るさを失わない彼の性格に、改めて感謝する。

「敵の巣窟に乗り込むって話だろ? 俺も混ぜろよ。一人じゃ心配だからな」

 仲間たちの強い意志を感じ取り、俺は覚悟を決めた。確かに一人では限界がある。それぞれの得意分野を活かした連携こそが、この困難な任務を成功に導く鍵となるだろう。

 港町の平和と住民の命を守るため、俺たちは再び戦いの準備を始める。今度の敵は、これまで以上に手強く、危険だ。しかし、仲間がいれば乗り越えられるはずだ。

 金属板に刻まれた座標が、俺たちの次の戦場を指し示している。
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