空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第7章

第87話 最終防衛線と薬剤完成への競争

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 港町の空は、灰色の煙と海霧に覆われていた。戦火が各地で燃え上がり、平和だった港町はまるで別世界のような様相を呈している。南橋と港口での激戦が続く中、俺たちは辛うじて巨大散布装置を破壊し、命がけで採集した薬草を診療所へ届けた。

 その薬草こそが、港町の運命を左右する最後の希望だった。患者たちの命を救い、敵の生物兵器に対抗するための、かけがえのない材料である。

 診療所の奥では、リィナがすぐさま調合作業を再開していた。疲労で顔は青白いが、その眼差しには確固とした意志が宿っている。長机の上には採集してきた薬草が整然と並び、粉砕器と加熱器が途切れることなく動いている。

 薬草の芳香と薬液の刺激臭が混ざり、部屋全体が薬の匂いで満たされていた。この匂いこそが、希望の象徴だった。リィナの手際は驚くほど正確で、長年の経験と知識が一つ一つの動作に表れている。

「あと一時間……これが完成すれば、救えるはずよ」

 リィナの声は掠れていたが、その手は一瞬も止まらない。周囲では医療班が重症患者の看護にあたり、時折、苦しげなうめき声が響いた。患者たちの容態は刻一刻と悪化しており、薬の完成が遅れれば取り返しのつかない事態になる。

 診療所内の緊張感は極限に達していたが、それでも医療スタッフは諦めることなく治療を続けている。彼らの献身的な姿勢が、リィナの作業を支えていた。

 俺は彼女の肩に手を置く。その肩は疲労で震えているが、意志の強さは微塵も揺らいでいない。

「時間は稼ぐ。必ずだ」

 そう言い残し、再び外へ飛び出す。リィナの努力を無駄にしないためにも、敵の攻撃を阻止しなければならない。



 外の港は、新たな脅威に晒されていた。水平線上に現れた敵船団は三隻。その帆には黒羽同盟の意匠がうっすらと描かれている。船体の大きさから、相当数の兵員を載せていることが予想された。

 前方には武装船、後方には積荷を満載した補給船――そして中央には、異様に低く幅広い船が見えた。その船の構造は明らかに特殊用途で設計されており、通常の軍船とは一線を画している。

 甲板の上には、またも見慣れぬ大型装置が据え付けられている。先ほど破壊した装置よりもさらに巨大で、海上での運用に特化した設計になっていた。

(まさか……海上から直接汚染液を撒く気か)

 その予想が正しければ、事態は最悪の局面に突入することになる。もし港の水源が汚染されれば、町全体が数日のうちに壊滅する。飲料水、農業用水、さらには海産物まで、生活の基盤が全て破壊されてしまう。

 俺は急降下して港口の防衛隊に合図を送った。空からの視点で得た情報を、即座に地上の仲間たちに伝える必要がある。

「敵は船から化学攻撃を仕掛ける! 距離を詰めさせるな!」

 防衛隊の指揮官が俺の警告を理解し、即座に対応を開始した。彼らは投石機の照準を敵船に向け、可能な限り接近を阻止する構えを取った。



 港口の戦いと並行して、診療所の中でも極限の戦いが続いていた。リィナは助手に指示を飛ばしながら、薬草の抽出液を慎重に混合する。少しでも温度や濃度を誤れば、効果は激減する。

 薬剤の調合は、まさに化学の芸術だった。各成分の分子レベルでの相互作用を理解し、最適な反応条件を維持する必要がある。リィナの知識と経験が、この複雑な作業を可能にしていた。

「次、解毒剤のベースを準備して!」

 助手が薬草を粉にして渡すと、彼女は即座に加熱器にかけ、香りと色を確認する。温度計の針を見つめ、秒単位で反応を制御している。

 患者の呼吸が荒くなれば、別室から看護班が呼び、応急処置を行う。その合間にも手は止めない。多重タスクを同時進行で処理する彼女の集中力は、まさに職人の域に達していた。

「先生……」

 片腕を包帯で吊った漁師が、弱々しく声を上げた。その表情には、家族への心配と、自分の無力感が混じっている。

「まだ……家族を迎えに行けますか……」

 リィナは手を止めずに答えた。薬剤の調合を続けながらも、患者への思いやりを忘れない。

「薬ができれば、必ず間に合うわ。だから、ここで休んでて」

 その言葉には、医師としての責任感と、人としての温かさが込められていた。患者の命と町の未来、その両方がこの一室に懸かっていた。



 港口防衛戦はさらに激化していた。敵船の前方からは弓兵が矢の雨を降らせ、木製の防壁に無数の矢が突き刺さっている。後方では装置の周囲に護衛兵が密集し、重要施設の防御を固めていた。

 海面は矢の落下で波紋だらけになり、戦闘の激しさを物語っている。防衛隊も必死に応戦しているが、敵の装備と練度は予想を上回っていた。

 俺は空からその護衛兵の隊形を観察し、バルグに叫んだ。敵の弱点を見つけ出し、効果的な攻撃ポイントを指示する。

「中央の装置を狙え! 俺が上から穴を開ける!」

 俺が急降下して翼で強烈な風を起こすと、敵の盾列が一瞬だけ崩れた。計算された風圧により、敵の陣形に隙間が生まれる。

 その隙にバルグが船首へ突進し、投げ斧を全力で放つ。彼の豪腕から放たれた斧は、空気を切り裂いて敵船に向かった。斧は装置の外装に食い込み、金属音と共に火花が散った。

 しかし、完全破壊には至らない。装置はなお稼働を続け、甲板の技師が慌ただしく再調整を行っている。敵も重要施設の防御には万全を期しており、一撃での破壊は困難だった。

(時間がない……あの装置を止めなければ、港の水が死ぬ)

 海上の敵船と診療所の薬剤完成、二つの時計が同時に刻々と時を刻んでいる。どちらが先に完了するかで、港町の運命が決まる。

 そして同時に、診療所の奥では薬液の色が変わり始めていた。透明だった液体が徐々に金色に変化し、薬効成分の活性化が進んでいる証拠だった。

 リィナが息を呑み、加熱器から薬瓶を取り上げる。その手は緊張で震えているが、眼差しは希望に満ちていた。

「……あと少し。あと少しで……!」

 港の防衛と薬の完成、二つのタイムリミットが同時に迫っていた。俺たちはその両方を守るため、最後の力を振り絞ることになる。

 この戦いの結果が、港町の未来を決定する。敵の化学兵器による全滅か、治療薬による救済か。運命の分岐点が、今まさに訪れようとしていた。

 俺は翼を大きく広げ、最後の決戦に向けて飛び立った。仲間たちと住民たちの努力を無駄にしないため、この戦いに全てを賭ける覚悟だった。
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