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第十七夜 魔導師の苦悩
しおりを挟む「……しもべよ、しもべ。そこにいるか」
「……ごしゅ……様。御主人様。ジャハーンダール様。壮麗なる砂嵐の宮殿の主にして、変幻自在の魔導師、ジャハーンダール様。しもべは此処にございます」
庭園の柱の陰がぬるりと歪み、使い魔が姿を現す。
ハティーシャがぐっすりと眠ってしまった真夜中。魔導師はその腕の中から抜け出し、離れのテラスから続く庭園へ降り立った。
「例の件、調べはついたか」
「……はい……あの娘を襲った鷹の足環に、細工がなされていた様子。捕らえられた鷹匠は、知らぬ存ぜぬとしらを切っておるようですが、一人でこのようなはかりごとに及ぶとも考えられぬこと。何者かの命を受けたに違いないかと。御主人様、どうなさいます? 鷹匠を始末なさいますか?」
「よい、捨て置け。どうせあの妃の差し金であろう」
ハティーシャが命が狙われる心当たりなど、他にない。運よく命までは奪えぬにしても、二度と人前に姿を現さぬようハティーシャの顔や体に醜い傷がつけば良いと考えたのだろう。
あの宴の夜、魅了の歌声で大広間に居並ぶ者達の心を掴んだハティーシャを、妃一人は射殺しそうな目で睨みつけていた。
(……そうまでして、姫と認めるのが腹に据えかねるか。浅ましい悋気の亡者め)
魔導師は憎々し気に眉間の皺を深くする。その怒気にピリピリと大気が震え、フルフルと下僕は怯えた。今夜の主は常より一層ご機嫌斜めだ。
「……あの王子についてはどうだ」
「………シャムザ神聖王国の第二王子ルスラン。軽薄ながらも分け隔てなく気さくな性格ゆえ、臣民からの敬愛深く『愛すべき王子殿下』と呼ばれているとか、で……」
「王子の部屋に忍び込んだのであろう。あの娘についてはどうだ。何か言っておったか? 幾ら取り繕うとも、人目のない場所では馬脚を現すものだ。例えば、鼻の形が気に入らんとか所作に品がないとか、あの娘に付け込んでやろうなどと、何か口さがない悪言を……」
「いえ、それが……」
「なに?」
「……悪口雑言などは一向に……寧ろ、見目麗しく立ち姿も振る舞いも、淑やかそうでいて物怖じしない芯の強いお心も、何もかも王子の理想通りだと…………お付きの侍従たちにも呆れられるほど首ったけの様子でして……」
魔導師は沈黙した。下僕がいまだかつて見たこともない程眉間の皺が深まった。
下僕は怯えた。今夜は砂漠に雷鳴と嵐が吹き荒れるかもしれない。その前に哀れな下僕は八つ裂きにされるかもしれない。
「そう、か……下がってよい」
「は…………」
だが発せられたのは、あまりに呆気ない言葉だった。下僕は戸惑った。わざわざ王子の部屋へ忍び込ませたからには、王子の弱みを握る算段であったに違いない、とその心中を推し量っていた。なのに、主の満足いく報告ではなかった筈だ。
だが、触らぬ魔導師に呪いなし。下僕はそれならそれで黙って影に消えるだけの聡明さを持ち合わせていた。
影に潜んだ下僕の気配が完全に消えてしまうと、魔導師はひっそりと溜息を零した。
ハティーシャから、一緒に付いてきて欲しいと言われた時は、確かに胸が熱くなるほど心躍った。
だが、王宮を出て一体どこへいくというのか?
なぜならハティーシャには行くところがない。母も肉親も既に他界し、あの頼りにならぬ国王以外には天涯孤独の身なのだ。また以前のように旅暮らしに戻ったとして、苦労するのは目に見えている。
勿論魔導師は己がそばにいる以上、ハティーシャをどんな危険からも守ってやるつもりでいた。しかし狼の姿のまま術も使えない以上、ハティーシャの為にしてやれることはたかが知れている。
(なぜ……急に、ハティーシャはあんなことを言い出したのか……やはり、あの王子にシャムザへ共に来ないかと誘われたのが原因か?)
もしも、ルスラン王子と共に行きたいと言われても、止める理由はどこにもなかった。
大国シャムザの第二王子。多少軽薄なところはあるものの、今日の様子を見れば、それだけの男ではないと認めざるを得ない。本気でハティーシャに惚れているというならば、ハティーシャにとって申し分ない良縁であるのは間違いない。シャムザの王子に嫁げば、少なくとも飢えることも乾くことも寝る場所に困ることもないだろう。
もとより、魔導師は愛するハティーシャの為に城も使用人も金銀財宝も欲しいものは何でも用意して、何不自由ない暮らしをさせてやるつもりだった。だが、変化の術が解けなくては、どう足掻いたとてハティーシャにとって自分はただの狼なのだ。
この手で触れて、愛でて、愛を囁くことはおろか、想いを伝えることさえ出来ない。
このままではならぬと分かっているが、さりとて何の手だてもない
己には『愛するもの』など後にも先にも存在しないだろう。
ずっとそう、思い込んでいた。
ハティーシャと出逢うまでは。
(魔神の制約は魔神にしか解けぬ……今更、後悔しても遅いのだ……)
己では、ハティーシャを幸せにしてやることは出来ない。
魔導師はまた、深い溜息をついた。
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