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第二十一夜 名を知る者

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 揺り籠の如き月が上る。

「しもべよ、しもべ……」

 後宮の回廊の隅で、黒猫は己の小さな影に呼びかけた。柱の陰が一瞬ぬらりと大きくなったかと思うと、黒猫の影と一つに重なった。

「……ご……じん、様。御主人様。遥かなる砂漠の……」
「前置きは良い。今すぐあの尖塔へ行き、ハティーシャの様子を見て参れ。それから、出入口と見張りの様子……何らかの術の痕跡がないか」
「は、畏まりまして、御座います……」
「疾く行け」

 使い魔の気配が完全に闇に溶けると、黒猫に姿を変えた魔導師は駆けだした。


 ──王家の血を引く者の前にだけ現れるという、魔神の名。

 その名を知っているのは、試練を言い出した王妃か、王家の正当なる血統である国王のどちらか。

(魔神の名は、魔神との契約に必須の一大事。なれば、どちらから聞き出すにせよ、容易には口を割るまい。ただの衛士や侍女、ましてや鳥獣ではならん……)


 魔導師は、王女パリヤールに姿を変えることにした。

 しかし、狼や猫と違って人間に化けるというのは容易ではない。
 せめて王女の衣装の一つなりとも手に入れなければ、完璧とは言い難い。王女に変化して王や王妃を欺く為には、少しも怪しまれてはならぬのだ。

 結局、魔導師は黒猫の小さな足には広大過ぎる後宮の中を、あちらこちら走り回って、ようやく王女パリヤールの部屋を見つけ出した。そこは、あの中庭に面した、星型の透かし彫りの窓がある二階の部屋だった。
 
 魔導師は重い四つ足を引きずって、フラフラになりながら二階の部屋へと続く階段を上った。黒猫の小さな心臓がドクドク跳ねる。辿り着く頃にはすっかり息が上がっている。

 部屋の中に誰もいないことを確かめると、黒猫は瞬く間に王女に姿を変えた。

 大きな姿見に映して見れば、褐色の肌に編み込んだ茶色の髪もぼんやりとした夢見がちな目つきも、寸分の狂いもなく王女パリヤールそのものであった。

 但し、魔導師の漆黒のローブを身に纏ったままだ。服まではどうにもならない。

(ふんッ……仕方ない。何か適当に、衣装を拝借するか……)

「……御主人様……」

衣装箱を漁る魔導師に、窓辺の暗がりから下僕が控え目に声をかける。

「……っ……何だ」
「御命令通り、調べて参りました」
「………申せ」
「は、かの尖塔には入口が一つきり。外では衛士と召使が一人ずつ出入りの無いのを見張っております。中は尖塔の天辺まで螺旋階段が続いており、かの娘は尖塔の天辺の部屋に閉じ込められておりまする。部屋には窓がありますが、人の頭ほどの大きさで、ほんの明り取り程度かと……」
「では、その窓から小鳥の類なら中へも忍び込めるか? 中の様子はどうだった? ハティーシャは、どうしていた?」
「それが……」

 影に潜んだ使い魔は、ザワザワと羽音のような耳障りな音を立て、言葉を濁した。

「何だ! さっさと申せ!」
「は、それが……何らかの、大いなる力による、結界が……」
「…………何?」
「尖塔の部屋の中へは入れません。目晦ましも変化の秘術も、一歩足を踏み入れれば暴かれてしまいます」
「…………」

 魔導師には心当たりがあった。
 かつて、全く同じ結界に苦しめられたことがあったのだ。
 それは、魔導師が子狼として幼いハティーシャの元で共に過ごし、すっかり傷も癒えて数年が経ったころ。ハティーシャら行商の一団はとある隊商宿キャラバンサライに立ち寄ることになった。そこは隊商宿とはいえどもまるで砦のように城壁を連ねた堅牢な街で、しかも秘術を看破する結界が備えてあったのだ。
 不覚にも、魔導師の『変化の秘術』も危うく暴かれるところだった。
 そうして、魔導師はハティーシャの前から姿を消したのだ。

(忌々しいことよ……またもやあの結界に阻まれるとは。……そういえば、このしもべもまた、かの結界の外をうろついていたところを捕らえたのであったか。これでは、我もしもべも塔の中へ入り込むことは難しい)

 魔導師が王女には似つかわしくない厳しい表情で眉間に皺を寄せていた、その時だった。

「御主人様! 人が……」
「……そこにいるのは、だれです?」
「…………!」

 魔導師が振り返れば、そこに本物の王女パリヤールが立っていた。

(しまった……!)

 鏡写しのように、全く同じ顔の二人の女が顔を見合わせる。
 王女は淡い鳶色の瞳を、零れ落ちそうなほどまん丸に見開いた。

 見つけた衣装を手に、咄嗟に逃げようと魔導師が身を翻した弾みに、机の上の銀盆が音を立てて転がり落ちる。

──ガランッカランッ!

 乾いた音が室内に響き渡る。
 魔導師も王女も、その場に縫い付けられたように動けなかった。
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