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072 オベントウ大作戦 幕間
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「ふぁ~」
いけないいけない。私は思わず出たあくびを慌てて引っ込める。
捲り上げたシャツの袖部分に目を当てて、涙を拭き取る。眠くて眠くて仕方がない。昨日はザックと抱き合って眠れたのは朝方だし、更におかしな夢を見るから変に眠気が襲ってくる。体を動かしていたら眠気もましになると思って、店の入り口の掃除を自らやると言ったのに。外はカンカン照りの暑さで、遠くでセミが鳴いている。カラカラに乾いた通り石畳も熱を帯びていて歩くだけでも体内の水分がとられそう。
頭にモスグリーンのバンダナを巻き汗を拭いながら仕事をするけれども、これは外に出るのを皆が嫌がるはずだ。水をまいても直ぐに干上がる。
まずい。この暑さなのに眠いとは。このままでは居眠りをしてしまう。そんな事になったら、外で干からびてしまう。
『ジルの店』の前の通りはいつも多くの人が行き交っているが、今日は暑い事もあり比較的少ない。
14時を回ったところだから、行き交う軍人達は、皆『ファルの宿屋通り』の門をくぐるべく足を向けていた。中には店の踊り子と仲良さそうに歩いている男性もいる。
ザックは特にお昼戻らなかった。何でも会議があるからとかできっと遅くなるだろうから難しいと思うとは言っていた。
ノアもシンも戻ってこなかったので忙しいのだろう。
お昼ちゃんと食べる事が出来たかなぁ。昨日の晩も帰って来るなり私のおにぎりを奪っていったぐらいだから。心配だよ。
しかし、昨日のザックは凄かったなぁ。
何か、その、ほら、あれだよ。
レクチャーと言うか。舐めるのも気持ちよくなるのも教えてくれるって言うか。
その後私を抱くのも激しいと言うより、そうだなぁ、体を作り替えるみたいな?
体を作り替えるって……私ったらどれだけ恥ずかしい事を考えているの。
眠いのもあって、考えがおかしいのかしら。
竹箒を持った私は、赤い顔をなかった事に出来ないかとブルブルと左右に振った。
近くを通り過ぎるカップルが変な生き物を見た顔をしていた。
が、私の黒髪を見た途端に驚いた顔をして早歩きで外に出る門に向かって行った。
何だろう? 何だか凄く慌てていたみたいだけれど。
そこで、私のお腹も小さく『ぐぅ』となった。あら、私も遅い昼食をご所望の様子だ。
「入り口も綺麗になったね」
誰が聞いている訳でもないのに私は呟くと、店のドアに抱えている木の札をひっくり返す。文字は読めないが閉店という意味らしい。
それから『ジルの店』の隣にある細い路地に入る。掃除用具を置く場所は、横の路地に入った店の扉から入る方が近い。建物の間に挟まれているので路地は細い。影になっていて、表より涼しい。
路地に入ると体感温度が変わる。それに坂の上にあるので海が見える。風が通り抜けて汗をかいた肌を撫でる。
「お。いた」
そう短く答えると、海が見える路地の先に立っていた黒い影がゆらりと動いた。
逆光で顔が見えないが、この声は……
「ソル?」
ソルが近づいてきて私の目の前で片手を上げる。モスグリーンのバンダナに白いシャツ。黒いズボンをはいて足元はウエスタン風のブーツだった。
石畳をコツコツと音を立てて歩いてきた。腰のベルトには短剣が差されている。
「良かった。会えた」
彫りの深い顔で目を細めて笑う。確かに背も高く筋肉質だがまだ全体的に細かった。
浅黒い肌に白い歯を見せて無邪気に笑った。
「どうしたの、昨日の今日で。もしかしてニコに渡す服の追加?」
色々な事が一気にありすぎて、昨日と言う日は忘れる事が出来ない。
先ずは黒タイトワンピースの女性、トニの事でしょ。
おにぎりを食べられる事件でしょ。
それからザックのアレを舐め……コホン、ではなくて。
私が竹箒を握りしめながら色々考え事をしていたら、腰をかがめてソルが近づいてきた。顔を近づけられて、私の首の辺りを犬の様に嗅ぐ。
「な、何」
私は縮こまって仰け反る様にしてソルから距離をとる。
ソルはバンダナ下に隠れていた眉を垂れ苦笑いをする。
「いやぁ、凄くザックさんの匂いがする。移り香って言うの?」
「ああ」
ベルガモットの香りか。
ザックのつけている香水だ。と言うか、ファルの町の男性はそんなに匂いを気にするのかと言うぐらい香水を振りかける。
お陰で私まで匂いが移る。まぁ、ベッドを共にしているからでもあるけれど。
「そんなに体臭を気にしなくても良いのにね?」
「は?」
「だって、匂いが気になるから香水をつけるんでしょ? 毎日シャワーも浴びているし気にしなくても良いのにね」
「分かってねぇなぁ」
私の言葉に暗い路地でソルが肩を揺らして笑う。
「分かってない?」
何を? 私は竹箒を握りしめたまま首を傾げた。
「同じ様な香りをつけていても体臭と混じって香りが変わるだろ? その香りをつけているのは一人しかいないんだ」
「ああ、確かに」
ジルさんはムスクの香りだし、ミラもレモンの香りがする。後、マリンはローズの香りだった。それぞれ自分の決めた男性の移り香なのだろう。
「特にザックさんの香りは柑橘っぽいのに最後には色香が混ざるって言うか。特徴があるだろ」
「色香かぁ、確かにね。と言う事は、私もザックと同じ匂いがする? 色っぽい?」
「色っぽくはないが、ザックさんと同じ香りがする」
「色っぽくないのか……」
ザックのクラクラするぐらいの色香。匂いが移ったからと言って私にもその色っぽさが移るはずもなく。がっくりと肩を落とす。
「ザックさんは昨日だけでもナツミに、これだけの匂いを擦り付けているって事だから、他に男が寄る事もない。まぁ、他の男が匂いが移るぐらい接近したら浮気もバレるしな」
ハハっと軽く笑いながら首を傾げる仕草をする。幼さが残るのに少し色っぽく見える。ソルが首を傾げて瞳を細めるだけでドキッとした。
トニも言っていたけれど、いい男なのだろう。きっと裏町でもモテるのだろうな。
「そんな犬のマーキングみたいな。それに浮気なんてしないよ」
私もソルに対して笑って見せた。
浮気ね。
今日丁度夢に見た秋とお姉ちゃんの顔がちらつく。
昨日は文句が言えそうだったのにな。
しかし、あの夢の内容ならお姉ちゃんは分かっていて秋を誘惑していたという事だ。
お姉ちゃんってそんな人だったかなぁ……
優しくて誰にでも好かれるお姉ちゃんだったのに。
夢は所詮夢だ。だけれど今までに見た事のない夢なので何だか引っかかる。
「止めてくれよ。ナツミと浮気なんてしようものならザックさんに殺される。現に昨日だって……」
何故かソルが慌てる。私から少し距離を置いて両腕で自分を抱きしめてブルブルと震えていた。
「殺されるなんてそんな──」
尋常ではないソルの怯え方に笑ってしまう。そんな物騒な。
そこで、私の後ろからよく通る声が聞こえた。
「ありえるかもよ。現に昨日の夕方、裏町でザックに締め上げられそうになって、逃げ回っていたって聞いたけど?」
振り向くと、昨日ここで話をしたトニが両手を腰に添え立っていた。
今日のトニは黒い肩紐のワンピースを聞いていたが、やはり体にピタッとフィットしているタイトなものだった。金色のピンヒールを履いている。この石畳を引っかかる事なく上手く歩けるものだ。
肩下の赤髪は細かいウェーブが濡れた様に艶めいていて揺れていた。
金色の大ぶりなリングピアスが耳元で揺れて、黒く太めに引いたアイラインが綺麗だった。
「トニ!」
「ハァイ、ナツミ。やっぱりここにいたのね。あんた今度は竹箒なんか持って。仕事しすぎよ」
「そうかなぁ?」
トニは軽く手を挙げて私の側までカツカツと歩いてきた。昨日の怒り顔から全くの逆で、私の事を名前で呼んで優しく微笑んでくれた。
ソルもトニも同じぐらいの身長だ。私は二人に挟まれながら見比べる。
「へぇ。トニって言ったか? 昨日はあんなに食ってかかってたのに、えらい変わり様だなぁ。まさか、昨日の今日でナツミと仲良くなりたいとか?」
ソルはズボンのポケットに手を突っ込んで急に仏頂面になる。そういえばトニに奴隷と罵倒された時、真っ先に怒ってくれたのはソルだった。その事が尾を引いているのかもしれない。
ん? 待って。凄く嬉しい事をソルが言った様な。
「ねぇ、トニ。仲良くなりたいって、ほんと?!」
私はソルの言葉を受けてトニの方に振り向いた。あんなに食ってかかってきたけれど私に興味を持ってもらえるなんてそんな嬉しい事はない。
私が目を輝かせてトニの顔を覗き込むとトニは顔を赤くして早口でまくし立てる。
「わ、私は。そんな仲良くなりたいとかって、そんなの。だ、大体、男を門の外に送り出したついでに、通りかかっただけよ!」
「そうなんだ……」
私はがっかりして肩を落とす。すると、その様子を見たトニは慌てた。
「ち、違うわよ! だから、ちょっとナツミの様子が気になって丁度この路地にいたから今日もいるかなって覗いただけで」
言いながらトニはキューッと顔を赤くして両手頬をおさえた。何で赤くなるの?
「もう、何なのよ!」
最後には私とソルを怒鳴り散らして肩で息をしていた。その様子に私はおかしくて生温かい目で見てしまう。
「ツンデレかな」
「つ、んでれ?」
呟いた私の声を拾ったのはソルだったが意味が分からない様だ。
「ううん。何でもない」
私は笑ってソルの肩をポンと叩いた。ソルは首を傾げたままだったが、肩で息をしていたトニが落ち着いてフフンと笑いながら改めて腕を組んだ。
「ソルよねぇ。あんたこそ、ここで何を? 確か昨日もいたわね。そういえば、ナツミの事を裏町中に言いふらしていたらしいじゃない」
顎を少し上げて、同じぐらいの目線のソルを精一杯見下ろす。ソルはトニの発言に慌てて仰け反った。
「ゲッ。何でそれを」
ソルは彫りの深い瞳が精一杯見開いていた。
「私のいる『ゴッツの店』の情報網を舐めないでよね。それに、ナツミに懸想している事がバレてザックに締め上げられたとか」
「ケソウ」
と、口にしてみたものの、ケソウって何だろう?
私はソルを見上げる。
ソルは私の顔を見ると更に慌てて声を荒らげる。
「何でそれを! 違う、違うんだナツミ。そうじゃないから。あんたこそ、懸想なんて誤解がある言い方をするなよ。そうじゃなくても誤解したザックさんの怒り方は尋常じゃなかったのに」
ソルは私には身振り手振りで言い訳をしてから、指差してトニに食い下がる。
「それに、ナツミが私達踊り子を締め上げたとか言う話で、ナツミが大分恐れられているってどういう事なの? 私が聞いたのは、『恐ろしく腕っ節が強い女でザックとも拳で話し合える』っていう事だったわよ」
今度はトニがソルに向かって指差した。二人は私より一つ頭背が高いので、私を挟んで睨み合う。
ええぇ。私がっ? ザックと拳で話し合えるってそんな訳ないでしょー!?
間に挟まれた私は、叫び声をおさえて石の様に固まってしまう。
「そんな話、俺はしていない。そもそも、あんたがナツミにしてやられたのは本当じゃないか!」
「話はしていない、ですって? あんたが正しく話をしないからこんな変な噂が流れる事になるんでしょ?!」
路地は建物の間なので声は更に響く人が集まりはじめてしまう事になる。それなのにお構いなしに二人は言い合いを続ける。
そこへ、裏口のドアを開けたニコが目をぱちくりさせて私達を見ていた。異様な雰囲気に開けたドアをゆっくりと閉めて顔を半分だけ覗かせる。
「ソルに昨日のトニさん。ここで、何しているの?」
本当にここで何をしているのだろう。私は苦笑いで竹箒を握りしめた。
「こいつがムカつくんだよっ!」
「こいつがムカつくのよっ!」
眉間に皺を寄せたソルとトニが同じ捨て台詞を吐いてフンと明後日の方向を向いた。
ニコがドアの隙間から私を手招きする。
「ねぇ、ねぇ。ナツミ。ソルとトニさんが、どうしてここに? それに何で喧嘩してるの?」
ひそひそと私に話しかける。
「……何でだろう」
突然現れて言い合いになった。としか言いようがなく、私も全く分からない。
「えぇ~何でだろうって」
ポカンとするニコだった。
怒りが冷めやらないソルとトニはゆっくり深呼吸をした。先に落ち着きを取り戻したのはトニだった。
トニは私の肩をポンと叩くとゆっくりと話しはじめた。
「いい? ナツミ。『ファルの宿屋通り』と裏町ではね、こいつが流した噂のせいであんたの事を皆恐れているから気をつけなさいな。その、えっと、つまり私は、それを言いに来たの。じゃぁまた明日ね!」
トニはそう言い捨てると、ギロリとソルを睨んで怒り肩で路地を出て行った。
「ありがとう」
私は去って行くトニの後ろ姿に声をかける。トニは振り向く事なく私に手を挙げて答えてくれた。
トニ、明日も来るのか……何でだ。
今度はソルに肩をポンと叩かれる。
「ナツミ、気をつけろよ。昨日の今日でお前と仲良くしたいなんて虫が良すぎだ! 俺は、つまり、その。えっと、そういう奴らもいるから気をつけろって言いに来たんだ! じゃぁ、また明日なっ!」
勢いよくソルも言い放つと、手を挙げて去って行く。
「ありがとう」
私はトニとは逆の方向に去って行くソルの後ろ姿にも声をかけた。
ソルも、明日来るのか……何でだ。
去って行った二人の姿が見えなくなってから私は溜め息をついた。
「何だか嵐が去った後だね。二人共明日来てまた喧嘩になるのかな」
ニコがポツリと呟いた。
その度に妙な噂が流れるかもしれないと言うのに。何だか大騒ぎの二人だった。
心地よい風が吹き抜けた時、思い出した様にニコが話し出した。
「そうだ。ナツミ、こうしてはいられない。早く来てよ~ダンさんが例の『ひよこ』を。困っているんだよ!」
ニコが私の腕まくりしたシャツの袖を引っ張った。
「え? 『ひよこ』って、おにぎりの事?」
「とにかく早く来てよ。僕達のお昼ご飯がさぁ、昨日のナツミに感化されてちょっと変なんだよ」
私はニコに引っ張られて厨房へと向かった。
その頃。去って行ったソルとトニがズンズンと歩きながら考え事をしていた。
クソッ。ザックさんに誤解されたから聞く事も出来ない。仕方ないからナツミに直接同じ国出身の女がいないか紹介してもらうつもりだったのに。何であんな事に──
ザックに昨日締め上げられてもなお己の欲望に負けないソルがいた。
もうっ。どうして素直に仲良くなりたいって言えないの? 昨日言ってくれた一言がとても嬉しかったって、言えばいいだけではないの。それから、いつでもうちの店に来てねって。それを、言いたかったのに。何であんな事に──
昨日の喧嘩でナツミに感動した事を伝えられないひねくれ者のトニがいた。
「「明日こそは──」」
そう心に誓う二人だった。
いけないいけない。私は思わず出たあくびを慌てて引っ込める。
捲り上げたシャツの袖部分に目を当てて、涙を拭き取る。眠くて眠くて仕方がない。昨日はザックと抱き合って眠れたのは朝方だし、更におかしな夢を見るから変に眠気が襲ってくる。体を動かしていたら眠気もましになると思って、店の入り口の掃除を自らやると言ったのに。外はカンカン照りの暑さで、遠くでセミが鳴いている。カラカラに乾いた通り石畳も熱を帯びていて歩くだけでも体内の水分がとられそう。
頭にモスグリーンのバンダナを巻き汗を拭いながら仕事をするけれども、これは外に出るのを皆が嫌がるはずだ。水をまいても直ぐに干上がる。
まずい。この暑さなのに眠いとは。このままでは居眠りをしてしまう。そんな事になったら、外で干からびてしまう。
『ジルの店』の前の通りはいつも多くの人が行き交っているが、今日は暑い事もあり比較的少ない。
14時を回ったところだから、行き交う軍人達は、皆『ファルの宿屋通り』の門をくぐるべく足を向けていた。中には店の踊り子と仲良さそうに歩いている男性もいる。
ザックは特にお昼戻らなかった。何でも会議があるからとかできっと遅くなるだろうから難しいと思うとは言っていた。
ノアもシンも戻ってこなかったので忙しいのだろう。
お昼ちゃんと食べる事が出来たかなぁ。昨日の晩も帰って来るなり私のおにぎりを奪っていったぐらいだから。心配だよ。
しかし、昨日のザックは凄かったなぁ。
何か、その、ほら、あれだよ。
レクチャーと言うか。舐めるのも気持ちよくなるのも教えてくれるって言うか。
その後私を抱くのも激しいと言うより、そうだなぁ、体を作り替えるみたいな?
体を作り替えるって……私ったらどれだけ恥ずかしい事を考えているの。
眠いのもあって、考えがおかしいのかしら。
竹箒を持った私は、赤い顔をなかった事に出来ないかとブルブルと左右に振った。
近くを通り過ぎるカップルが変な生き物を見た顔をしていた。
が、私の黒髪を見た途端に驚いた顔をして早歩きで外に出る門に向かって行った。
何だろう? 何だか凄く慌てていたみたいだけれど。
そこで、私のお腹も小さく『ぐぅ』となった。あら、私も遅い昼食をご所望の様子だ。
「入り口も綺麗になったね」
誰が聞いている訳でもないのに私は呟くと、店のドアに抱えている木の札をひっくり返す。文字は読めないが閉店という意味らしい。
それから『ジルの店』の隣にある細い路地に入る。掃除用具を置く場所は、横の路地に入った店の扉から入る方が近い。建物の間に挟まれているので路地は細い。影になっていて、表より涼しい。
路地に入ると体感温度が変わる。それに坂の上にあるので海が見える。風が通り抜けて汗をかいた肌を撫でる。
「お。いた」
そう短く答えると、海が見える路地の先に立っていた黒い影がゆらりと動いた。
逆光で顔が見えないが、この声は……
「ソル?」
ソルが近づいてきて私の目の前で片手を上げる。モスグリーンのバンダナに白いシャツ。黒いズボンをはいて足元はウエスタン風のブーツだった。
石畳をコツコツと音を立てて歩いてきた。腰のベルトには短剣が差されている。
「良かった。会えた」
彫りの深い顔で目を細めて笑う。確かに背も高く筋肉質だがまだ全体的に細かった。
浅黒い肌に白い歯を見せて無邪気に笑った。
「どうしたの、昨日の今日で。もしかしてニコに渡す服の追加?」
色々な事が一気にありすぎて、昨日と言う日は忘れる事が出来ない。
先ずは黒タイトワンピースの女性、トニの事でしょ。
おにぎりを食べられる事件でしょ。
それからザックのアレを舐め……コホン、ではなくて。
私が竹箒を握りしめながら色々考え事をしていたら、腰をかがめてソルが近づいてきた。顔を近づけられて、私の首の辺りを犬の様に嗅ぐ。
「な、何」
私は縮こまって仰け反る様にしてソルから距離をとる。
ソルはバンダナ下に隠れていた眉を垂れ苦笑いをする。
「いやぁ、凄くザックさんの匂いがする。移り香って言うの?」
「ああ」
ベルガモットの香りか。
ザックのつけている香水だ。と言うか、ファルの町の男性はそんなに匂いを気にするのかと言うぐらい香水を振りかける。
お陰で私まで匂いが移る。まぁ、ベッドを共にしているからでもあるけれど。
「そんなに体臭を気にしなくても良いのにね?」
「は?」
「だって、匂いが気になるから香水をつけるんでしょ? 毎日シャワーも浴びているし気にしなくても良いのにね」
「分かってねぇなぁ」
私の言葉に暗い路地でソルが肩を揺らして笑う。
「分かってない?」
何を? 私は竹箒を握りしめたまま首を傾げた。
「同じ様な香りをつけていても体臭と混じって香りが変わるだろ? その香りをつけているのは一人しかいないんだ」
「ああ、確かに」
ジルさんはムスクの香りだし、ミラもレモンの香りがする。後、マリンはローズの香りだった。それぞれ自分の決めた男性の移り香なのだろう。
「特にザックさんの香りは柑橘っぽいのに最後には色香が混ざるって言うか。特徴があるだろ」
「色香かぁ、確かにね。と言う事は、私もザックと同じ匂いがする? 色っぽい?」
「色っぽくはないが、ザックさんと同じ香りがする」
「色っぽくないのか……」
ザックのクラクラするぐらいの色香。匂いが移ったからと言って私にもその色っぽさが移るはずもなく。がっくりと肩を落とす。
「ザックさんは昨日だけでもナツミに、これだけの匂いを擦り付けているって事だから、他に男が寄る事もない。まぁ、他の男が匂いが移るぐらい接近したら浮気もバレるしな」
ハハっと軽く笑いながら首を傾げる仕草をする。幼さが残るのに少し色っぽく見える。ソルが首を傾げて瞳を細めるだけでドキッとした。
トニも言っていたけれど、いい男なのだろう。きっと裏町でもモテるのだろうな。
「そんな犬のマーキングみたいな。それに浮気なんてしないよ」
私もソルに対して笑って見せた。
浮気ね。
今日丁度夢に見た秋とお姉ちゃんの顔がちらつく。
昨日は文句が言えそうだったのにな。
しかし、あの夢の内容ならお姉ちゃんは分かっていて秋を誘惑していたという事だ。
お姉ちゃんってそんな人だったかなぁ……
優しくて誰にでも好かれるお姉ちゃんだったのに。
夢は所詮夢だ。だけれど今までに見た事のない夢なので何だか引っかかる。
「止めてくれよ。ナツミと浮気なんてしようものならザックさんに殺される。現に昨日だって……」
何故かソルが慌てる。私から少し距離を置いて両腕で自分を抱きしめてブルブルと震えていた。
「殺されるなんてそんな──」
尋常ではないソルの怯え方に笑ってしまう。そんな物騒な。
そこで、私の後ろからよく通る声が聞こえた。
「ありえるかもよ。現に昨日の夕方、裏町でザックに締め上げられそうになって、逃げ回っていたって聞いたけど?」
振り向くと、昨日ここで話をしたトニが両手を腰に添え立っていた。
今日のトニは黒い肩紐のワンピースを聞いていたが、やはり体にピタッとフィットしているタイトなものだった。金色のピンヒールを履いている。この石畳を引っかかる事なく上手く歩けるものだ。
肩下の赤髪は細かいウェーブが濡れた様に艶めいていて揺れていた。
金色の大ぶりなリングピアスが耳元で揺れて、黒く太めに引いたアイラインが綺麗だった。
「トニ!」
「ハァイ、ナツミ。やっぱりここにいたのね。あんた今度は竹箒なんか持って。仕事しすぎよ」
「そうかなぁ?」
トニは軽く手を挙げて私の側までカツカツと歩いてきた。昨日の怒り顔から全くの逆で、私の事を名前で呼んで優しく微笑んでくれた。
ソルもトニも同じぐらいの身長だ。私は二人に挟まれながら見比べる。
「へぇ。トニって言ったか? 昨日はあんなに食ってかかってたのに、えらい変わり様だなぁ。まさか、昨日の今日でナツミと仲良くなりたいとか?」
ソルはズボンのポケットに手を突っ込んで急に仏頂面になる。そういえばトニに奴隷と罵倒された時、真っ先に怒ってくれたのはソルだった。その事が尾を引いているのかもしれない。
ん? 待って。凄く嬉しい事をソルが言った様な。
「ねぇ、トニ。仲良くなりたいって、ほんと?!」
私はソルの言葉を受けてトニの方に振り向いた。あんなに食ってかかってきたけれど私に興味を持ってもらえるなんてそんな嬉しい事はない。
私が目を輝かせてトニの顔を覗き込むとトニは顔を赤くして早口でまくし立てる。
「わ、私は。そんな仲良くなりたいとかって、そんなの。だ、大体、男を門の外に送り出したついでに、通りかかっただけよ!」
「そうなんだ……」
私はがっかりして肩を落とす。すると、その様子を見たトニは慌てた。
「ち、違うわよ! だから、ちょっとナツミの様子が気になって丁度この路地にいたから今日もいるかなって覗いただけで」
言いながらトニはキューッと顔を赤くして両手頬をおさえた。何で赤くなるの?
「もう、何なのよ!」
最後には私とソルを怒鳴り散らして肩で息をしていた。その様子に私はおかしくて生温かい目で見てしまう。
「ツンデレかな」
「つ、んでれ?」
呟いた私の声を拾ったのはソルだったが意味が分からない様だ。
「ううん。何でもない」
私は笑ってソルの肩をポンと叩いた。ソルは首を傾げたままだったが、肩で息をしていたトニが落ち着いてフフンと笑いながら改めて腕を組んだ。
「ソルよねぇ。あんたこそ、ここで何を? 確か昨日もいたわね。そういえば、ナツミの事を裏町中に言いふらしていたらしいじゃない」
顎を少し上げて、同じぐらいの目線のソルを精一杯見下ろす。ソルはトニの発言に慌てて仰け反った。
「ゲッ。何でそれを」
ソルは彫りの深い瞳が精一杯見開いていた。
「私のいる『ゴッツの店』の情報網を舐めないでよね。それに、ナツミに懸想している事がバレてザックに締め上げられたとか」
「ケソウ」
と、口にしてみたものの、ケソウって何だろう?
私はソルを見上げる。
ソルは私の顔を見ると更に慌てて声を荒らげる。
「何でそれを! 違う、違うんだナツミ。そうじゃないから。あんたこそ、懸想なんて誤解がある言い方をするなよ。そうじゃなくても誤解したザックさんの怒り方は尋常じゃなかったのに」
ソルは私には身振り手振りで言い訳をしてから、指差してトニに食い下がる。
「それに、ナツミが私達踊り子を締め上げたとか言う話で、ナツミが大分恐れられているってどういう事なの? 私が聞いたのは、『恐ろしく腕っ節が強い女でザックとも拳で話し合える』っていう事だったわよ」
今度はトニがソルに向かって指差した。二人は私より一つ頭背が高いので、私を挟んで睨み合う。
ええぇ。私がっ? ザックと拳で話し合えるってそんな訳ないでしょー!?
間に挟まれた私は、叫び声をおさえて石の様に固まってしまう。
「そんな話、俺はしていない。そもそも、あんたがナツミにしてやられたのは本当じゃないか!」
「話はしていない、ですって? あんたが正しく話をしないからこんな変な噂が流れる事になるんでしょ?!」
路地は建物の間なので声は更に響く人が集まりはじめてしまう事になる。それなのにお構いなしに二人は言い合いを続ける。
そこへ、裏口のドアを開けたニコが目をぱちくりさせて私達を見ていた。異様な雰囲気に開けたドアをゆっくりと閉めて顔を半分だけ覗かせる。
「ソルに昨日のトニさん。ここで、何しているの?」
本当にここで何をしているのだろう。私は苦笑いで竹箒を握りしめた。
「こいつがムカつくんだよっ!」
「こいつがムカつくのよっ!」
眉間に皺を寄せたソルとトニが同じ捨て台詞を吐いてフンと明後日の方向を向いた。
ニコがドアの隙間から私を手招きする。
「ねぇ、ねぇ。ナツミ。ソルとトニさんが、どうしてここに? それに何で喧嘩してるの?」
ひそひそと私に話しかける。
「……何でだろう」
突然現れて言い合いになった。としか言いようがなく、私も全く分からない。
「えぇ~何でだろうって」
ポカンとするニコだった。
怒りが冷めやらないソルとトニはゆっくり深呼吸をした。先に落ち着きを取り戻したのはトニだった。
トニは私の肩をポンと叩くとゆっくりと話しはじめた。
「いい? ナツミ。『ファルの宿屋通り』と裏町ではね、こいつが流した噂のせいであんたの事を皆恐れているから気をつけなさいな。その、えっと、つまり私は、それを言いに来たの。じゃぁまた明日ね!」
トニはそう言い捨てると、ギロリとソルを睨んで怒り肩で路地を出て行った。
「ありがとう」
私は去って行くトニの後ろ姿に声をかける。トニは振り向く事なく私に手を挙げて答えてくれた。
トニ、明日も来るのか……何でだ。
今度はソルに肩をポンと叩かれる。
「ナツミ、気をつけろよ。昨日の今日でお前と仲良くしたいなんて虫が良すぎだ! 俺は、つまり、その。えっと、そういう奴らもいるから気をつけろって言いに来たんだ! じゃぁ、また明日なっ!」
勢いよくソルも言い放つと、手を挙げて去って行く。
「ありがとう」
私はトニとは逆の方向に去って行くソルの後ろ姿にも声をかけた。
ソルも、明日来るのか……何でだ。
去って行った二人の姿が見えなくなってから私は溜め息をついた。
「何だか嵐が去った後だね。二人共明日来てまた喧嘩になるのかな」
ニコがポツリと呟いた。
その度に妙な噂が流れるかもしれないと言うのに。何だか大騒ぎの二人だった。
心地よい風が吹き抜けた時、思い出した様にニコが話し出した。
「そうだ。ナツミ、こうしてはいられない。早く来てよ~ダンさんが例の『ひよこ』を。困っているんだよ!」
ニコが私の腕まくりしたシャツの袖を引っ張った。
「え? 『ひよこ』って、おにぎりの事?」
「とにかく早く来てよ。僕達のお昼ご飯がさぁ、昨日のナツミに感化されてちょっと変なんだよ」
私はニコに引っ張られて厨房へと向かった。
その頃。去って行ったソルとトニがズンズンと歩きながら考え事をしていた。
クソッ。ザックさんに誤解されたから聞く事も出来ない。仕方ないからナツミに直接同じ国出身の女がいないか紹介してもらうつもりだったのに。何であんな事に──
ザックに昨日締め上げられてもなお己の欲望に負けないソルがいた。
もうっ。どうして素直に仲良くなりたいって言えないの? 昨日言ってくれた一言がとても嬉しかったって、言えばいいだけではないの。それから、いつでもうちの店に来てねって。それを、言いたかったのに。何であんな事に──
昨日の喧嘩でナツミに感動した事を伝えられないひねくれ者のトニがいた。
「「明日こそは──」」
そう心に誓う二人だった。
応援ありがとうございます!
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