【R18】さよならシルバー

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010 7月23日 泥水

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 イントネーションが違うから語尾が強めには感じるけれども。紗理奈の言葉を借りるなら関西弁風とはこんな話し方なのかな。ぼんやりゆったり話すけれども確かに滑舌や声は良いし。話しやすいけれど。

 こんなのんきな雰囲気の人だとは思っていなかったので私は開いた口が塞がらない状態だった。もっと怖い感じのしゃべり方と言うか歓楽街を夜な夜な出歩く不良かと思ったのに。

「まぁその話は置いといて」
 先ほどまで「うーん」と口をへの字にしていた七緖くんがぽんと手を叩いた。そして右から左に物を移動するジェスチャーをする。

 うん。話を置いたね。

「巽さんも塾に通いたかったんやろ? つまり勉強で分からん事あると。ほれやったら絶対伯父さんに教わったらええよ」
「お、伯父さん?」
「そう。僕のおかんのアニキやから伯父さん」
「それは伯父さんだよね」
 うん。それは伯父さんと呼ぶ事は馬鹿な私でも分かる。

「伯父さんはひろし言うんやけど、T大出とって前までは塾の講師やってん。結構有名な塾の講師で教えるのメチャクチャ上手いん」
「えっ! そうなんだ」
 T大とは! 伯父さんまで頭が良いなんてどれだけ凄い一家なの。まさかお父さんとかお母さんもT大とか。そんな事を悶々と考えている私をよそに七緖くんは話をゆっくりとそして確実に進めていく。

「この間から博に何度もお願いしとるのに。あかん言うんよ。別にタダで教えてって言うとんちゃうのに」
「そうなんだ」
「塾に払う金があるんやったら、あんな質の悪い教え方する塾やのうてなぁ。ふむ……なぁ巽さん、僕と一緒に伯父さんを説得してくれん? 絶対、伯父さんに教わったら巽さんもいいと思うし」
「えっ! そんな事を急に言われても」
 突然その博さん、伯父さんを説得する話になり私は肩にかけた鞄の紐を握り直す。

 七緖くんはいつもの様に手をポケットに突っ込むと反対の手でバス停の向こうの道を指さした。つられて視線を道の奥に移す。

「この道な、すーっと真っ直ぐ行くやん? ほんで右に曲がったらな喫茶店があってな。その喫茶店を経営しとるんよ、博は」
 いきなり伯父さんが博と呼び捨てになる。
「喫茶店? 何で」
 塾の講師をしていた人が何故喫茶店を経営? どういう事だろう。

「何か喫茶店するんが夢やったんやって。丁度ええわ。今から一緒に行こうや? この勢いでお願いすれば伯父さんも折れるやろうし」
 そう言って七緖くんは私の手を取った。細くて長い指に大きな手。節々がはっきりしている手に私の手を握りしめられて驚いた。
 
「えっ。ちょ、ちょっと待って。そもそも私は七緖くんと一緒に勉強なんて──」
 出来るはずがない。天と地の差もある成績なのに。

 それにどんな急展開なの。七緖くんの関西風? の話し方のせいなのか話も断片的で理解出来ない。上にゆっくり話す割に話を止める事が出来ない。

 そこで後方からバスのライトが光るのが見えた。

 路線バスだ。丁度家に帰る為のバスが到着したのだ。バス停に止まる為、歩道に車体を寄せながら減速したバスが、昼から降った豪雨の証である路肩の大きくて深い水たまりにタイヤを侵入させた。

 瞬間大きな波が起こった。

「あ」
「え」
 七緖くんと私が呟くと同時に、泥水という大波を二人仲良く頭からかぶった。

 バシャッと大きな音を立ててバスが通り過ぎる。バス停で待っていた学生や社会人が私達二人を見て「うわぁ~」と声を上げた。

 私と七緖くんはうつむいたまま自分達の靴を見つめる。

 泥水を思いっきりかぶってしまった。

「最悪……あれ?」
 ゆっくりと顔を上げて自分の腕や頭を触るが思ったほど水をかぶっていなかった。絶対派手にかぶったと思ったのに。
 恐る恐る見上げると目の前の七緖くんが頭から派手にずぶ濡れになっていた。
 背の高い七緖くんは道路側にいた為、私の代わりに全ての水たまりの水をかぶってくれたのだ。

 綺麗にウェーブのかかっていた髪の毛はますますくるくると巻いていて、重たく水を含んでいた。
「……マジで?」
 ジの発音が一番高かった。そして珍しく語尾を下げて私の手を握りしめたまま七緖くんは固まっている。

「ま、マジで、あっ……ぷっ」
 私もつられて七緖くんのイントネーションと同じ返しをしてしまう。おかげで何だかおかしくて吹き出してしまう。つられた自分がおかしくて肩をふるわせて笑う。

「ほんなに笑わんでも。そやけどさすがに」
「ご、ごめん。ふふ。でも何か全部の力が抜けたかも。はいタオル」
 私は笑いながら鞄の中からスポーツタオルを取り出した。いつもの癖でハンカチ代わりにタオルを持ってきてしまった。

 あーなんかガチガチに固まっていた力が抜けた感じかも。どうしようと悩んでばかりいたけれどもそれらが全て洗い流される勢いだった。

 七緖くんは私の握っていた手を離すとタオルを受け取り、重たく水分を含んだ前髪をかき上げておでこをさらす。

「ありがとう」
 関西弁風の独特のイントネーションでお礼を言いながら琥珀色をした瞳を細めた。

 くっきりとした二重に長いまつげ。左の涙袋のあたりに黒いほくろが見えた。髪の色と同じ細い眉。高い鷲鼻にピンク色をした唇だった。七緖くんは髪をかき上げて、彫りが深い顔を見せた。
 髪の毛がウェーブのままオールバックになって顔がようやく見えた。美しい顔だ。これは一部の女子がざわつくのも理解出来る。

 それよりも、初めて七緖くんと視線が合った気がして私は少しうれしくなった。

「ううん。柱……じゃないや、壁になってくれたみたいだし。本当に笑ったりしてごめんね」
 思わず「柱」と呼んでしまった。先ほどの電信柱と言っていた言葉につられてしまったのだ。しかし言い直しても「壁」……全然褒めてない。

「僕が壁かぁ……確かに。巽さんはほとんど濡れとらんし。まぁこういう事たまにあるでしょ。けどなぁ……あーあ背中ずぶ濡れや。でも思ったより泥水ちゃうなぁ」
 私が渡したタオルを首にかけて顔のあたりと耳のあたりの水滴を拭う。そして半回転して私に背中を見せた。制服の白いシャツはうっすら汚れていたけれども洗濯で落ちそうだ。しかし見事に濡れて、下に着ていたTシャツが張り付いていた。

「勢いよくかぶったもんね」
「うん。あっ! アカン」
「どうしたの?」
「バス行ってしもうたよ?」
「あっ……」

 気がつくと私が乗る予定だったバスは、他のお客さんを乗せて走り去って行った後だった

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