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嘘のない街 Ⅰ
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四角いテレビ画面と、丸い窓から見える景色。
それが、僕の世界の全てだった。
僕の生まれた場所は、"嘘のない街"と呼ばれていたらしい。
らしい、としか言えないのは、ほとんど外の状況を知らずに育ったからだ。
二階建ての、質素な家。
その家の、狭くて暗い屋根裏部屋が、僕の居場所だった。
家族は母親だけ。父親は知らない。
母さんは昼間、医療薬の研究者として働いていて、夕方に帰ってくるとご飯を作って、僕のいる屋根裏部屋まで持ってきた。
休みの日には読み書きや、いろんなことを教えてくれた。僕が退屈しないよう、定期的に新しい本も持ってきてくれた。
けれど、トイレとお風呂以外、僕がこの部屋から出ることを決して許さなかった。
「もう暗いから、テレビは消しなさい」
夕食の食器を下げる時は、決まってそう言う。
テレビを点けていると、窓から光が漏れて、外から見えてしまうからだ。
僕は遊んでいたテレビゲームをセーブして、電源を落とした。
灯りのない屋根裏部屋は、テレビを消すと真っ暗になる。窓から差し込む月明かりだけが、部屋をほのかに照らした。
それを見上げるように寝転がり、月がゆっくりと動いていくのを眺めている内に、眠ってしまうことが多かった。
僕は、この街に存在しない人間。
母さん以外、誰も僕という人間を知らない。
……いや、もしかすると僕は、人間ですらないのかもしれない。
本やゲームで知ったんだ。
僕みたいに黒い羽が生えた者を、『悪魔』と呼ぶことを。
母さんも、テレビの中の人も、窓の外の子どもたちも、羽なんか生えていない。
僕だけ。僕だけが違う。
『悪魔』は悪い存在。
だから、この部屋から出てはいけないんだ。
そんな風にずっと自分に言い聞かせて、ここから出ることを諦めていた。
――僕が外の世界について知ったのは、八歳の時だった。
たまたま観たテレビ番組の特集で、ここ以外にも様々な街があることを知ったのだ。
だから、九歳の誕生日に「世界のことがわかる本が欲しい」と母さんにお願いした。
母さんは少し迷っていたけれど、全ての街が載った最新のガイドブックをプレゼントしてくれた。
そこに描かれたこの街の地図を見て、僕は感動した。
部屋の窓から見えるものがクレイダーという列車の線路で、自分の家がどこにあって、母さんの職場がどの辺りにあるのかがわかったからだ。
まるで、空の上から街を見下ろしているような気分。
同時に、この時僕は、初めて思ってしまった。
外に出て歩いてみたい。
この目で、実際の街並みを見てみたい、と。
でも、すぐに願望を振り払った。
僕は、黒い羽の生えた悪魔。
みんなとは違う存在。
出ていけばきっと、みんなに迷惑をかけてしまう。
だから……ここにいなければならないんだ。
――それから僕は、毎日飽きもせずにこの街の地図を眺めた。
向かいの家の男の子は、この道を使って学校へ通っているのかな。
母さんは、このお店で買い物をして帰って来るのかな。
僕だったら、この道をこう通って、ここまで行って……
そんな答えのない遊びに、時間が過ぎるのも忘れて夢中になった。
地図の横には、この街の紹介文が載っていた。
『嘘のない街』。
正直に生きたい人・誠実な人におすすめの街。
住む上でのルールはただ一つ。
決して、嘘をつかないこと。
「…………」
その時、家の呼び鈴が鳴ったので、僕は驚いてガイドブックを床に落としてしまった。
一階にいる母さんが「はーい」とドアを開ける音がする。続けて、来客者の声が聞こえてきた。
「こんにちは、先生。休みの日にごめんなさいね」
「あ……大家さん、こんにちは」
「なんか屋根裏の方から音がしたけれど……ねずみでもいるのかしら?」
「あ、いえ……さっき研究資料を整理したので、本が倒れたのかも」
「そう、ならいいんだけど。それより、先日話した転居の件、前向きに考えてくれた?」
「え、ええ、まぁ……」
「ここもだいぶ古いでしょう? 一度取り壊して、ファミリー向けの家を建て直すつもりなの。先生には別の綺麗なアパートを紹介するから。家賃も安くなるし、職場も近くなるし、悪くないでしょ? それに、一人暮らしなのにこんな一軒家、広すぎて寂しいんじゃないかって申し訳なく思っていたのよ?」
「お気遣いいただきありがとうございます」
「いえいえ。まぁ、まだ数ヶ月先の話だから。ゆっくりと準備を進めてちょうだい。それじゃあ、また」
そんなやり取りの後、玄関のドアが閉まる音がして……母さんのため息が聞こえてきた。
ここは、『嘘のない街』。
けれど、母さんは嘘をついている。
僕という子どもを隠し、一人暮らしの女性のふりをして生きている。
僕という悪魔を産んでしまったばっかりに、母さんは嘘をつかなければならなくなった。
……僕のせい。僕が生まれてきたせいだ。
大家さんからこの家を出るよう言われているみたいだけれど……
引っ越しなんてしたら、僕の存在が周囲にバレてしまう。
母さんが嘘をついていることが知られたら、どうなってしまうんだろう?
何か、罰を受けるのか。それとも……
それ以上考えるのが怖くなって、僕はベッドにもぐり込み、無理やり目を閉じた。
* * * *
それから、数ヶ月が経ったある晩。
僕がいつものように、月明かりを頼りにガイドブックを眺めていると、母さんの声が聞こえてきた。
「……それじゃあ、予定通り、この街に着くのですね」
誰かと電話をしているようだ。
僕は地図に目を落としながら、なんとなくそれを聞いていた。
「そうなんです……家を離れなくちゃならなくて……見つかるわけにはいかないんです……」
僕は、母さんと大家さんの会話を思い出す。
この家を、取り壊すという話。
あの後、何回か大家さんが来て、母さんが取り壊しを引き伸ばすよう交渉していたみたいだけれど……いよいよその時が近いみたいだ。
『見つかるわけにはいかない』。
母さんが話しているのは、きっと僕のことだろう。
「では明後日、宜しくお願いします……はい、夜中の内に引き渡しますので」
心臓が、どくんと跳ね上がる。
母さんは、僕の存在をひた隠しにしてきた。
でも、この『嘘のない街』で、僕という"悪魔"を隠し続けることは難しい。
だから、転居を機に『引き渡す』ことにしたのだろう。
僕のことを……知らない誰かに。
「…………っ」
背中を、冷たい汗が伝う。
明後日。それは、僕の十歳の誕生日。
その日、僕は――母さんと、離れることになる。
恐怖に体を震わせながら、僕は母さんにもらったガイドブックを、ぎゅっと胸に抱いた。
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