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嘘のない街 Ⅱ
しおりを挟む――その二日後。
僕の、十歳の誕生日。
僕が、知らない誰かに引き渡される予定の日。
前の晩からほとんど眠れなかった僕は、窓の縁にもたれかかり、夜明けと共に街へやってきたクレイダーの車両を、ぼんやり眺めていた。
母さんはいつも通り仕事へ出かけて行った。
母さんが不在の間、何度も家を出てみようかと考えたけれど、結局怖くなって、何もできなかった。
そうして夜になり、母さんが夕食を持って来る時間になった。
「誕生日おめでとう、クロル」
母さんが言う。
僕の大好きな、ハンバーグを差し出しながら。
「もう十歳か……今日まであっという間だった。大きくなったね」
そう言って、僕の頭を撫でる母さん。
幼い僕を思い出しているのか、戻らない日々を悲しんでいるのか、優しくて、切ない目をしていた。
「たくさん食べてね。クロルのために、心を込めて作ったから」
その視線と言葉に、胸が苦しくなる。
母さんは、あの電話のことを何も話してくれなかった。
僕にも嘘をついたまま、誰かに引き渡すつもりなのだろう。
一緒に暮らすのがむずかしいことはわかっている。
全部、僕のせいだってわかっている。
でも……
これが母さんの作る最後のご飯になるかと思うと、胸が張り裂けそうに痛くて、食べることができなかった。
「……どうしたの? 食べないの?」
母さんが、心配そうに尋ねる。
返事をした途端に涙がこぼれてしまいそうで、僕は何も言えないままうつむいた。
すると、その時。
一階で、電話が鳴った。
母さんは心当たりがあるようで、すぐに階段を下りて行った。
閉められたドアの向こうから、電話に応じる母さんの声が聞こえてくる。
恐らく相手は、僕を引き渡す予定の人だろう。
僕は、暴れる心臓を押さえて……
ドアの外へそっと足を踏み出し、母さんの会話を聞いた。
「……はい、眠っている間に……ええ。睡眠薬を入れたので、口にしたらしばらくは起きないかと……」
それを聞いた瞬間、心臓がひときわ強く脈打った。
『口にしたらしばらくは起きない』
つまり、あのハンバーグには……
僕を眠らせるための薬が入っているの……?
「…………ッ」
その時。僕の中で、何かが弾けた。
このままじゃ嫌だ。そんな気持ちが、僕の背中を押した。
僕は階段を一気に駆け下り、玄関にかけてあった母さんのコートを羽織った。そして、そのままドアを開けて外へ飛び出した。
母さんの慌てた声が後ろから聞こえる。けれど、構わずに走り出した。
自分の靴なんてもちろんないから、裸足だった。
走ることも初めてで、何度も足がもつれたけれど、それでも無我夢中で足を動かし続けた。
賑やかな昼間と違い、通りに人はいない。
代わりに、周りの家から美味しそうなにおいと、楽しそうに食事をする声が聞こえてきた。
それを別の世界のことのように感じながら、僕はひたすらに走って、走って――
「――ハァ……ハァ……」
気づけば僕は、木々に囲まれた広場まで来ていた。
静かで暗くて、誰もいなかった。
見回すと、街灯の横に看板を見つけた。『公園』と書かれている。そうか、ここが公園……この街の地図で何度も眺めた場所だ。
テレビでしか見たことのない遊具がいくつもあって、僕はドキドキしながら近づいた。けれど、遊び方のわからないものばかりだった。
ただ、ブランコだけは使い方を知っていた。僕は腰かけて、何度か揺れてみる。でも、揺れはすぐに止まってしまった。
「………………」
……どうしよう。家を飛び出して来てしまった。
母さん、今ごろ僕を探しているかな。いや、探しているところを誰かに見られたら、僕の存在を隠していたことがばれてしまう。きっとどうすることもできず、途方に暮れているに違いない。
母さんに迷惑をかけないようにするには、おとなしく帰るしかない。
けど……帰ったら僕は、無理やり眠らされて、知らない誰かに引き渡されてしまう。
そう思うと、怖くて……動き出せなかった。
肩に羽織ったコートを、ぎゅっと握る。
少しだけ、母さんの匂いがした。
こうして背中を隠せば、他の人と同じなのに……
悪魔の羽があるだけで、普通のようには生きられない。
僕はただ、母さんといたいだけ。
他の子と同じように、昼間の公園で遊びたいだけなんだ。
それなのに……
どうして、こんな羽を持って生まれてしまったのだろう?
「……う……うっ……」
こらえていた涙が、ぽろぽろとこぼれて。
僕は声を殺しながら、少しだけ泣いた。
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