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Chapter2

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 川端律。二十五歳。K大学七回生。季節を問わずいつも同じヨレヨレの着流し姿だが、別に風流ぶっているわけでなく、単に洋服を買うより金がかからないからという理由なだけ。実務能力皆無で、生活全般に無能力者。そのわりに金に困ったところを見たことがない。
 単位は万年不足気味で、春だというのに来年もきっと大学にいるだろうとのもっぱらの評判。そのくせ大学内部に異常に詳しいせいか、影で大学を仕切っているのはこの男だという噂もあり。バイト先は、闇鍋屋(って何だ?)。不動明王の生まれ変わり(自称)。
 つまりは、変人であり、社会不適合者にして、ーーわたしの片思いの相手である。
 出会ったのは、大学に入りたての頃だった。テニスサークルのしつこい勧誘に困っていたわたしを、律が助けてくれたのがきっかけだった。
 この話だけならば、さも律は気持ちがイケメンの爽やか好青年に聞こえるだろうけれど、現実は、もじゃもじゃ頭でよれた着流し姿のぬぼ~っとした見た目のせいで、なんとも奇っ怪な人間に見えた。もちろん、その第一印象は薄まるどころか、より一層強化されていくのだけれど。
 それが縁となって、それ以降もなんやかやと顔を合わせるようになり、一緒に過ごす時間が増えていくうちに、なんだか腐れ縁のようになったというわけだ。
 最初はやっかいな奴と知り合ってしまったなあ、と思っていた。なにしろ、その時代錯誤な風貌と入学式での学長挨拶への盛大なツッコミという騒動から、入学当初から律は学内の有名人だった。
 それに対して、わたしはといえば真面目だけが取り柄の、「副会長体質」(友人談)といういたって平凡な人間である。なるべく目立たず、注目を浴びず、平穏に暮らしていきたいと思っていたのだけれど、律といることで、わたしまで同類と思われた。それがわたしは嫌だった。
「ああ、恥ずかしい。あんたといると、みんなこっちを見るんだよねぇ。ああ、やだやだ」
 人の注目を感じて、さっと律の後ろにある木の陰に隠れるわたしを見て、律はなんとも不思議そうに眺めてこう言った。
「何が恥ずかしいのです? みんなが見ているのは、ワシであって万里さんではありませんよ」
 そして、わたしが隠れた木の根元に座り込んで煙草を吸い始めたりする。
「どうですか、万里さんも一服」
 暢気に言うが、もちろん敷地内は禁煙である。上からは「こらぁ! 構内で煙草を吸うなぁ!」という声が降ってくるが、どこ吹く風のお構いなしである。
 こんな律に鍛えられたせいで、こちらの神経も随分図太くなった気がする。
 そんな風に、何事にも動じない、飄々とものごとをいなしている律といると、不思議と開放感を感じたものだった。それまで籠もっていた殻にひびが入っていくような感じが心地よくて、授業やバイトがない日は大抵律とつるんで遊んでいた。
 
 だけど、距離が近くなればなるほど困ったことが起きた。
 律のことを考えると、どうにもおかしな感情が湧き上がるのだ。
 苦しいような、甘いような、蕩けるような、もやもやとした、妙な感じ。
 はじめのうちは、「女の子の血祭り」が近いせいかなどと考えていたけれど、血祭りが終わってもそのモヤモヤは続く。周囲からは、ホルモンバランスの乱れだ、知恵熱だ、挙げ句の果てには性的フラストレーションだなどと言われまくった。  
 しかし、ある日、気づいた。
 そんな感覚に襲われるのは、律といたり、律のことを考えている間だけだと。

 もしかして、恋?

 ……恋って、わたしが、律に?
 ははは、それはないわ。何だってわたしがあいつに……。

 意識の上では笑って否定しようと躍起になったが、心と体は正直だった。
 視線は律を追いかけ、はっと気がつくと律の顔や仕草や声を思い描いている。つまり、わたしは律に夢中だった。
 この事実は、わたしを静かに打ちのめした。
 だって、いくら喚いても縋っても、わたしに勝ち目はなかったから。
 律にとって、わたしは良き友人で、数少ない理解者で、家政婦さんでしかない。異性として見てもらえるとは、到底思えない間柄で、色恋を持ち込むのは至難の業だった。 
 これが、わたしの苦難の道の始まりだった。

 何度も何度も自問した。
 よりによって、何だって律みたいな男を好きになるんだよ、わたし!
 男前でもない、エリート街道一直線な将来性有望な学生でもない、コミュニケーション能力抜群の世渡り上手なわけでもない、どちらかと言えば、人生の貧乏くじを引いているような男だ。
 それなのに、それなのにさ、教授以上に切れる知性とか、あいつがたまに見せる子どもっぽい照れ笑いとか、着物から覗く首筋の色っぽさとか、声の穏やかさとか、とか、とか、とか、律にまつわるいろんなものが気になる。はっきり言って律の全部が好きなのだ。その駄目さ加減もひっくるめて。
「だったら、素直に好きって言えばいいんじゃない?」
 そう友人に言われた。
 それができたらこんなに悩みませんわよ、と思う。
 何せ、わたしの友人カップルに向かって、
「あなたたちはいつも一緒にいるが、飽きるということはないのですか?」
 とのたまった男である。
 そういう色恋などは理解の範疇を超えているような、妙ちくりんな生き物の律に、
「好きだ」
 と言ったところで、
「ほうほう、それは煙草を一服」
 などと明後日の方向にしか受け取ってくれないのは明白だ。
 そんな負け戦に進んで乗り込むほど、わたしはお人好しじゃない。
 かといって、この恋心はちょっとやそっとで消えるようなものではもちろんなく。
 また、子どもの時の恋と違って、大人の恋にはやっかいなものもくっついている。
 端的に言うと、性欲問題である。
 そう、わたしは律とセックスがしたかった。
 だって、夏になると律は、わたしの前で何の躊躇もなく、
「暑いですなあ」
 なんて言いながら、着物をはだける。その細身なくせにしっかりした体つきといい、汗ばんでいるだけでない滑らかな質感の肌といい、わたしときたら見ているだけで発情してしまっていた。
 わたしは盛りのついた猫か何かか? まったく……。
 だけど、そんなムラムラを律が察するわけもなく、わたしたちの間は清く正しい友人関係だけが成立していた。
 こうなると、行き場を失った恋心は、淀んで歪んだ末にはけ口を探す。 そう、つまり代わりの男で悶々とした思いを解消してしまおうとした。 そして、わたしは純情ヤリマンになりました、というわけだ。
 はっきり言って、こんな自分、反吐が出る。
 男の部屋から出るたびに、もうこんなことは止そうと思う。いつまでも自分の気持ちから逃げているから、こんなことをしているんだ。自分に正直になって、律に好きと言おう。
 そう考えるのだけど、いざ律と会うと、この気の置けない、心地いい関係を壊してまで自分に正直になれるかと思うと、気が引けてしまった。
 律は、わたしがこんな風に誰彼構わず男と寝ることを知っている。
「万里さんはお盛んですなぁ」
 そんな風に、感心したように言ってくる。そうしてまったくの邪気のない顔でこちらを見つめる律の澄んだ目には、きっと汚れた自分が映っているに違いなかった。
「気づかなかったけど、わたし意外にモテるらしいのよ。ガハハハ」
 そう笑って自分の気持ちをごまかすけれど、本当は律に嫉妬して欲しかった。「もうそんなこと止めろ」って言って欲しかった。
 でも、律は絶対そんなことは言わなかった。
 それがわたしには悲しかった。
 
 わたしに恋は似合わない。
 いつからか、こんな思いがわたしに棲みついた。
 もう汚れたわたしには、恋する資格なんかない。きっと本当は、律だってわたしのことを軽蔑してるに決まってる。
 この思いは、わたしを苦しませた。それが、ますます男に逃げるという悪循環になる。
 また、最近律に起きた変化がわたしを動揺させた。 
 社会人になって律の身の回りの世話ができなくなったわたしの代わりに、大学の後輩女子がその係を買って出てくれたのだ。
「まぁったく、川端先輩って無能にもほどがありますよっ!」
 ある休日、律の下宿に行ったわたしが見たのは、ぷりぷり怒りながら律の部屋を片付けている後輩の渋谷さんと、彼女に怒られながらニコニコと笑っている律の姿だった。
「あ、佐々さんですね。はじめまして、渋谷と申します」
 折り目正しく挨拶をした彼女は、可憐な見た目とは正反対のものをはっきり
言う女の子だった。そんな彼女だから、律に対しても遠慮がない。
「物は元の場所に戻す! 食べたらすぐに水に浸ける! それだけすらできないんですから……」
 まるでお母さんね、と笑うわたしに、渋谷さんは、
「母親なんてまっぴらです! こんなデカい子どもは嫌」
 と叫んだ。
 律は、「はははは、そりゃそうだな」と嬉しそうに笑っていた。そんな律の
様子に、わたしは違和感を感じていた。
 こんな徹頭徹尾心から楽しそうな律は、見たことがなかった。何の変化が彼に起きたのかといえば、それは渋谷さんしかなかった。
 そして、直後、渋谷さんが小声で言ったことが、わたしを動揺させた。
  
「なるんなら恋人がいいです」
 
 律はこの言葉に気づいていないようだった。渋谷さんも、聞かれたとは思っていない。でも、わたしは聞いてしまった。
 わたしひとりが、違う世界にいた。
 
 それからどうやって律の部屋で過ごしたのか、もう覚えていない。
 ただ覚えているのは、
「もう律の人生から、わたしがフェイドアウトしてしまおう」
 と思ったことだった。
 もう律はわたしなんか必要ない。渋谷さんがいれば、万事は大丈夫。そう思った。
 
 そしてこの後、わたしにもある出来事が起きることになる。
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