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Chapter3

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 コーヒーか紅茶かと問われれば、迷うことなく紅茶と答えるくらいに紅茶派だ。茶葉からゆっくり淹れた、香り高い一杯の美味しさは、何にも勝る豊かな時間だと思っている。
 でも、職場は圧倒的にコーヒー派が優勢で、休憩時間に飲むもののリクエストをとると、十人中十人がコーヒーを選ぶ。そういう時の紅茶派は肩身が狭い。ひとり寂しくティーバッグで淹れてもいいのだけど、なんだか自分だけ多数派に背を向けているような感じがして、気が引ける。
 それにコーヒー派の、
「へぇ、紅茶が好きなんだぁ」
 という言葉の裏にある、「何を気取ってるのさ?」という謎の反発にさらされてきたこともあって、とりあえず食の好みは多数派に合わせておけというスタンスになった。(律には、「おっ、意外と長いものには巻かれるんですね」と嫌みを言われるのだけど)
 だから、社会人になってからというもの、まるで根っからのコーヒー派ですよといった顔で、食後の一杯、休憩時間の一杯と飲んでいるが、正直言って一度として美味しいと思ったことはない。煤けた、苦い飲み物、という以上の感想を持ったことがない。
 でも、職場でのわたしは「コーヒー好きの佐々さん」と通ってしまっているので、もはや引くに引けない状態になっている。
 参った。
 そんなわたしにとって不本意なコーヒー生活は、コーヒーメーカーによって成り立っている。インスタントコーヒーを入れれば、簡単に美味しい(とされている)コーヒーが飲めるという、技も銘柄も問わないお手軽なやつ。それなら誰が淹れても同じ味になる。
 そういうもののはずなのだけれど、その人が淹れた一杯は、少しだけ誰よりも濃い味がするのだった。
 
「ふぁあああ……ようやく終わったぁ!」
 新井先輩が袖をまくった腕を高く上げて伸びをし、大声で快哉を叫んだ。その声に頷きながらわたしは、今夜の夕飯は遅くなったから軽いものでいいかな、などと考えながら書類を整理していた。
 水曜日夜の九時、わたしはまだ会社にいた。
 この日は、とんでもない一日だった。個人的にも、社内的にも。
 朝食のトーストを焼きすぎて焦がしたりとか、予定より早く月経が来たとか、社長が突如隠居宣言をしたりとか、いろいろとあったけれど、その中でも一番のトピックは、
「取引先の誤発注の流れ弾がこっちにも飛んできた」
 ことだろう。
 その規模はとんでもない額で、部長は「もはや「誤」のレベルじゃねえ!」と叫んだきりぶっ倒れたものである。
 その後、その処理は当然先方の責任で行うことになったのだけれど、契約書類だのなんなのの書き換えはこちらでもやらなければならなくなった。
「別に今日のうちにやらなくてもいいんだぞ。本当ならお前たちがしなくていい仕事なんだからな。他人の尻拭いなんてさせたくないよ。ったく、いい加減に社員教育しろっていうんだ。いつまでも甘やかしてるから、ミスが多いままなんだよな……。いつかはこんなことになる気がしてたけど、まさかこっちにまで火の粉が飛んでくるなんてなぁ……はぁ」
 部長はこう言って、わたしたちを気遣ってくれたけれど、責任感の強い新井先輩は、この事態を放っておくことができなかった。
「いや、今日中になんとかしますよ。お客様にも迷惑をかけるし、先方が悪いのはもちろんですけど、それを放っておいたらこっちの信用問題にもなりますからね」
 最初は、新井先輩ひとりでなんとかしようとしていた。取引先と話をつけてきたのは自分だからと言って。皆の手伝いの申し出を拒んで、自分だけで乗り切ろうとしていた。
 新井先輩という人は、責任感が服を着て歩いているような人だった。いつもの業務なら彼の特徴は頼もしい長所となるけれど、このときばかりは無謀と言えた。
 先輩のパソコンには、大量のクレームのメールが届いていた。それは、とてもひとりでなんとかできる量ではなかった。
「わたしも手伝います」
「要らない。俺ひとりで大丈夫だから」
「いいえ、先輩が要らないって言っても、勝手にやります」
 そう言って新井先輩の机から書類をひったくり、パソコンと睨み合う。
 こうしてわたしの押しに負けた新井先輩と、二人で書類の山と格闘すること四時間、ついに最後の一枚を処理し終えたわたしたちは、コーヒーで祝杯を挙げる。 
「それにしてもよくやったよな、俺たち。あの不条理なミスを二人だけで処理できたなんて、ちょっと驚異的だと思わないか?」
「確かにそれは言えますよね。正直、あれだけの量のデータを処理できるなんて思いもしなかったです」
「もう半年は仕事しなくていいくらい、俺たち仕事したなっ!」
「そうですよね。この勢いで休んじゃいたいですねぇ」
「ああ、だよなぁ。でも、この間有給使っちまったから、しばらくはおとなしく仕事してないとなんないや、ちぇっ」
「あはは、わたしはまだ有給残ってるから、休んじゃおうかな」
 こんな風に軽口を叩きながら、互いを労う。二杯目のコーヒーを淹れようとした先輩から、
「もう一杯飲む?」
 と誘われたけど、断った。新井先輩が淹れるコーヒーは、何が違うのか他の人より苦くて、夜に飲むには少し刺激が強かった。
「でもさ、こうして二人サシで話すって珍しくない?」
「そういえばそうですね。いつもは誰かが間にいる感じですもんね。そう言われると、ちょっと緊張しちゃうなあ」
「ははははは、関口さんじゃないんだから怖がらないでよ」 
「それは関口課長に失礼ですってば」
(ちなみに、関口さんというお方は、「褒めて落とす」のが得意な癖のある人である。その癖を知らない新入社員は、関口課長の「お言葉」の洗礼を浴びて、自信満々な自意識を折られるという通過儀礼がある。わたしもやられた。)
「ま、関口さんはともかくとしてさ、佐々さんって、この会社に入って何年になるっけ?」
「三年になります」
「三年っていや節目とか言われてるけど、辞めたくなったりしない?」
「ん~。辞めたいとは思わないですけど、ちょっとマンネリ気味かも?とは思っちゃってますね。でも、そう思った矢先に今日みたいなことが起きるんで、油断できないんですけど」
 新卒社会人としては、順調にキャリアを重ねてきていると思う。仕事は順調だし、人間関係は良好だしで、パブリックな社会人としては文句のつけようがない日々だと言える。
 ただし、その反面、プライベートの「裏面ビッチ」ぶりが情けない。もちろん、そんなことは律以外には知られてはいないのだけど。
「まあね。仕事してて、もうこれ以上仕事で学ぶことはないのかもなぁなんて余裕ぶっこいてると、今日みたいなことが起きるから、気は引き締めておくに超したことはないよね。あ、カップ寄越して、洗っておくから
「あ、いいです。自分でやりますから」
「いいよ、いいよ。ついでだから。洗いものを残しておくって、俺耐えられないの」
 そう言って、飲み干したカップを二つ持って、新井先輩は給湯室に消えた。その背中を見ながら、わたしは律とは随分違うと感心していた。律なら「すみません」と言いつつも、当然のようにわたしに飲んだ後の猪口を押しつけてくるのに。
 そういえば新井先輩の手、と思い出した。
 ささくれ立って荒れていた。
 それを見た瞬間、ああ、この人はひとりで生活できる人なんだなぁ、と思った。そういえば、いつもお昼は手作り弁当だし、清掃会社の人よりも先に汚れには気がついて掃除するし、細やかな気遣いはできるし。律のずぼらさに慣れていたから、こういう男子がいることに目から鱗が落ちる思いがした。
 時計を見ると、九時半。さて、これから書類の整理だの何なのを済ませて、会社を出るのは十時近くで、家に着くのは……。
 などとつらつら考えてると、スマホが鳴った。
 見てみると、律からのメッセージだった。
『不実な美女か貞淑な醜女と言いますが、それを男で置き換えてみようと思って考えてみても、いいのが思いつきません。万里さんならどう例えますか?』
 まったく無益な疑問である。
 わたしはメッセージを無視して机の上を片付けていると、給湯室から戻ってきた新井先輩が、
「夕飯どうする? よかったら一緒に食べてかない? いいとこ知ってるんだ」
 と言ってきた。
「ああ……行きたいのはやまやまなんですけど、明日に響くので今日は遠慮しておきます」
「そうか、残念。じゃあ、また今度ってことで」
「すみません」
「いいよ、気にしなくて。じゃあ、ちゃっちゃと片付けて、帰ろう」
 そうして各自片付け終えると、わたしたちは部屋を後にした。
 
「帰る方向が同じだったら送ってあげたんだけどね」
 そう言った先輩は少し残念そうだった。
「いいです、大丈夫です。わたしの家、人通りはあるから結構安全なんですよ」
「そっか。じゃあ、気をつけて帰るんだよ」
「はい、ありがとうございます。では、さようなら」
「うん、さようなら。じゃあ、また明日」
 そして、わたしは新井先輩と別れて、バス停に向かおうとした時だった。
 不意に手を掴まれ、引き戻された。
「ふぇっ……!?」
 驚くわたしに向かって、新井先輩は言った。

「好きだ。ずっと君のことが好きだった」
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