ロレンツ夫妻の夜の秘密

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【番外編】受け継がれるもの

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 窓から差し込む鮮やかな橙の光線に、日が暮れ始めたのを知った。
 ディアナは横向きになってシーツを握りしめ、大きくなった腹部を庇うように背を丸めて、痛みの波に耐えている。
 月のもののそれを極大にした鈍痛だ。しかも、繰り返すたびに目盛りを振り切っていく。

「うぅ……!」

 助産師のソーニャが、腰をさすってくれるが、気休めにもならない。
 ディアナはとうとう、枕元のスツールに座るステファンに訴えた。

「無理……無理ですわっ! 貴方! こんなに痛いなんておかしいですわ!」

 医師の夫は平然と答えた。

「いえ、診るかぎり異常はありませんのでご安心ください」
「ふっ、うぅ……そう、ですの……?」

 ステファンは、ディアナの額と目元を布で拭う。痛みの合間に小型のポットのような吸い飲み器を口元に差し出し、水分を取らせた。小皿にパンと果物まで持ってきた。

「体力勝負です。食べられそうなら少し」
「無理……! っうう!」

 ガンと腰にくる痛みが襲ってくる。短く浅く息をつき、夫に縋った。

「貴方、もうすぐ、ですわよね?」

 こんなに痛いのだ。もう限界だ。
 しかし、彼は首を傾げ、言う。

「うーん、そうですねぇ……初産の方は時間がかかりますし……夜明けまでに生まれるか、わかりませんね」

 ディアナはふっと気が遠くなるようだった。北国は夜が長いのだ。




 避妊をしなくなって、二ヶ月後には、月のものが来なくなった。しばらく嗅覚が敏感になって食欲が落ちた。度々嘔吐し、体重が一時、減った。しかし、どれも妊娠による症状だと教えられれば、喜びの方が優った。
 腹部が膨らみ始めるころには、それらも落ち着いて、ディアナは常に多幸感に包まれるようになった。
 秘書をさせてもらっている外交官のリヴィエラに報告して、休みの相談をした。勤め始めたばかりの我儘だったが、快く認めてくれた。所帯染みた雰囲気のない女史だが、実は一児の母だった。
 ステファンは、産み月の計算も、栄養と運動の指導も完璧だった。助産師と、小間使いの少年も雇ってくれた。
 産み月を来月に控えたころ、腹部を触診した彼は妙な体操を指導した。

「……なんですの、これ?」

 伸びをする猫のような姿勢だ。うつ伏せで胸を床につけ、お尻を上げる。恥ずかしいし、苦しい。

「安産のためです。お腹が硬くなるようなら無理はしないでいいですけど、できれば続けてください」

 産み月に入って、体操はもういいそうだ。彼の狙った効果が得られたかはわからない。産気づいたら、勤務時間だろうが絶対に呼び出すように強く念を押された。




 その日は昼過ぎから軽い腹痛があったが、確信は持てなくて、夫の職場に使いをやるのを迷った。かわりに、小間使いの少年に頼んで、助産師のソーニャを呼んでもらった。
 夕食の支度にキッチンに立っていると、足に何かが伝って、はっとした。透明でサラサラしたものが、とめどなく流れ出る。

「印のお水ですね。旦那様をお呼びしましょう」

 ソーニャに促されて、タオルを幾重にも敷いた寝台に横になった。破水を皮切りに、痛みの輪郭がはっきりしてきた。
 いよいよだと思うと、心臓が警鐘のように激しく打ち始めた。
 しかし、ステファンが戻ったときには、まだ強がる余裕があった。

「大丈夫ですわ。いた、くないですっ!」
「こんなときに嘘はつかなくていいです。ずっといますから、何でも言ってください」

 急いでくれたのだろう、いつもは平服に着替えて帰ってくる彼が、軍服に白衣を羽織ったままだった。彼さえいれば何も案じることはないと、ディアナは一旦、落ち着きを取り戻した。




 だが、数時間後、彼女は理性を捨てて叫んでいる。

「痛い痛い痛いぃい!」
「そうですね、でも、順調ですからね。合間は力を抜いて休んでください」

 ステファンは懐中時計を取り出して痛みの間隔を計っている。
 夜明け、夜明けとディアナは念じる。しかし、時の流れは淀んだ川のように遅々としている。時刻を尋ねれば先程から十分しかたっていなかった。

「うぅう、また来たぁ……もう嫌ぁ!」
「うん、三分間隔になってきた。案外進みが早いですね。落ち着いて息をしてください」

 陣痛の間は、喉からとどめようもなく呻きが漏れた。ディアナは彼が恨めしくなってきた。任せていれば大丈夫と思っていたのに、この肝心の場、彼は涼しい顔をして横にいるだけだ。
 考え違いだった。産むのは結局、自分だ。八ヶ月あまり、身体の内に抱いてきた、愛しい子供。ディアナが歌うとよく動いた。軽く叩けば、同じ場所を叩き返すようにもなっていた。
 彼女はようやく腹を括る。
 何があったって、無事にこの世に迎えてやりたい。熱に、光に、色に、音に満ちた世界。喜びも悲しみも苦しみも痛みもある、生々しく鮮やかなこの場に。

「くっ、ううう」
「ディアナ、いきむのはまだ我慢して。呼吸で逃してください」

 当を得ているのかもしれないが、好き勝手に言ってくれると感じた。泣き言を封じれば、代わりに噴き出したのは怒りだった。

「……もう貴方はどこかへ行って!ソーニャがいてくれればいいですわ!」
「そうは言っても」
「行って!」

 突然矛先を向けられてステファンはたじろいだようだったが、額に汗と青筋の浮いた妻を見つめると、答えた。

「……それで、お気持ちが落ち着くなら……少し、次の間に居ますけど……ソーニャさん、すみません、変化があったら呼んでくださいね」

 追い払ってみても苛立ちは収まらず、ディアナはすぐに彼を呼び戻した。

「本当に行ってしまうなんて薄情ですわ!手!」
 理不尽なのは承知で、彼に当たった。
「……手?」
「握っていて!ずっと!生まれるまで!」
「処置に必要なときは離しますけど、ご理解くださいね」

 ディアナは、差し出された手を力の限り握りしめ、歯を食いしばった。

「っうううう!」

 これで普通、順調だというのか。母の姿が思い浮かんだ。あのいかにもか弱い人が、兄弟四人、つまり四回、この苦しみに耐え抜いたのか。信じられない。ベルタは六人だ。




 どれほど時間が過ぎたのか、ディアナはわからない。瞬きのたびに一枚一枚絵をめくるように、暴風雨に耐える彼女と対照的に、凪いだように静かな夫の顔を見た。
 このまま生が終わるのではないかとまで思う苦痛の中で、それでも、彼が一切取り乱さないのだから、大丈夫なのだと信じられた。
 ソーニャの声がする。隣の部屋の話し声のようにぼやけている。

「先生……赤ちゃん……見え……やっぱり」
「ディアナ、すみません、診ますから手を離して」
「嫌! あああぁああ!」

 ディアナは、波間の板切れにしがみつく遭難者よろしく拒否したが、ステファンは言った。

「聞き分けてください。はい、これ」

 ステファンに、思い切り引き抜くように手を取りあげられたかわりに、茶色いクマのぬいぐるみを渡された。子供の初めての友達になるようにと用意していたものだ。
 ステファンは状態を確かめて、決然と言い切った。

「大丈夫です。本当に、あと少しですから」

 導かれるタイミングで怒責をかけた。とたん、身体を押し分けて、それはくぐり抜けていった。




 肩で息をして放心しているディアナの顔に、ステファンは布に包んだその子を近づけた。
 小さな顔をくちゃくちゃにして、必死で喉を絞っているが、その声はまだ子猫のように儚く、耳に優しい。布から出た片腕が叫びとともに振れる。何か白いべたっとした汚れだらけだ。それでも、真っ先に可愛いと感じて、ディアナは手を差し伸べる。ステファンは彼女の胸の上に子供を乗せた。

「おめでとうございます。男の子ですよ」

 彼の落ち着いた声音に、思わず「先生、ありがとうございます」と答えてしまいそうになった。すんでところでとどめて、かわりに申し立てた。

「……貴方っ、なんでそんなに他人事みたいな言い方ですの? 貴方と私の子供ですわ!」
「……うん。そうですね」

 彼の表情が、ようやく動いた。笑っているというより、泣き出す直前のような顔だった。右腕をディアナの頭に、左腕を子供の身体に添えて、彼は家族を抱きしめた。

「……ディアナ、ありがとう。よくがんばってくれました」

 ディアナは、誇らしさで膨らむ胸を張って応えた。

「ええ!」




 ステファンは、ソーニャに休憩を勧められたが、断った。逆に同じく夜通しの仕事になった彼女を労い、別室で休ませた。自分は、疲れきって眠った妻と、産湯を使ってさっぱりとした子供を見守った。
 後産も済んで、脈も呼吸も安定している。出血も多くはない。
 子供が臨月でも頭が上だったのは不安材料だったが、なんとか取り上げられた。
 ディアナは怒り狂いながら、乗り越えてくれた。
 子供と一緒に寝ているクマのぬいぐるみは、ディアナに最後に握り潰されて胴がひしゃげている。あとで開腹して中綿を詰め直してやろうと思う。ディアナにずっと掴まれていた右手に疼痛がある。でも、そんなもの彼女が耐えてくれた痛みに比べるべくもない。

 普段以上に、努めて冷静に、夫ではなく担当医として振る舞った。そのせいでディアナには叱られたが、動揺して必要な処置を誤りなどしたら、一生、後悔する。
 ステファンはノートを開く。ディアナの妊娠の経過を記録したものだ。
 痛む右手の代わりに、左手で万年筆を持って、出産の状況を書き残す。
 まだ急変もありうる時期だから、油断してはいけないのだ。
 しかし、妻子の顔を見ていれば、頬が緩むのを抑えられない。
 カーテンの隙間から差す光が、ちょうど窓際のバスケットに収まる子供の顔をよぎる。柔らかな声で泣きはじめるのを、ステファンは抱き上げた。カーテンを半分開いた。
 白々と降り注ぐ夜明けの光の中で確かめた、子供に少し生えている髪は、焦茶色だ。ちらと瞼が上がって覗いた瞳は深緑。母親譲りだ。

「初めての朝ですね。眩しいけど、とても気持ちがいいですよ。今日は、きっとよく晴れます」

 ステファンは語りかける。この子はこれから、数えきれない「初めて」を重ねていく。彼は子供をゆっくりと揺らす。
 ステファンは、そうするうちに、胸に抱いた温かい存在が、彼に長年凝ったものを溶かしていくのに気付いた。
 物心つけばそこにあったから、それが当たり前だと思っていた。
 でも、本当はずっと苦しかったのだ。寂しくてたまらなかった。
 雪解けの水が小川になって、野を流れる。草が芽吹いて花をつける。
 心象の草原の中で、彼は呟いた。

「……ああ、幸せだなぁ……」




 そして、時は流れる。

 人が四方八方に流れるように歩く、巨大な駅のホールだ。
 雑踏に慣れない少年は壁際に避難して、トランクを傍に置き、上着のポケットから懐中時計を取り出す。
 あと三分半で正午だ。
 真正面にそびえる、帝王鷲が球を掴んだ意匠の大時計と、寸分違わず同じ時を指しているのを確かめた。

「持っていきなさい。どこにいたって、同じ時間を生きていますから」

 父は別れ際、旅立つ彼にそれを預けた。
 アンティークシルバーの蓋つき懐中時計だ。文字盤の中にもう一つちいさな文字盤が入れ子になっており、側面のボタンのクリックによって経過時間を秒単位で計る機能もついている。
 蓋の表には蛇と杖の紋章、内側には父の名と三十五年前の日付が刻まれている。

 その精巧な道具の、生き物でもないのに規則正しく動き続けられる秘密が、少年を惹きつけた。父の書斎の机に置きっぱなしになっているのを見つけ、好奇心を抑えられずに、針金を使って中を暴いたのは八つのときだ。
 吹けば飛びそうな歯車ひとつ、バネひとつまで丁寧に外され並べられているのを見て、烈火のごとく怒ったのは母の方だった。それは、父が医科学校を卒業した際、成績優秀をもって授与された品だった。
 自分では組み直せないことに気づいて、べそをかきながら謝る彼を前に、当の父はむしろ感心したふうに言った。

「ここまで綺麗に分解できるなんて、すごいですよ」

 慎重に全ての部品を布に包んで、父は少年を連れて機械技師の工房を訪ねた。

「いやあ、とんでもねえ坊主だな」

 禿頭の技師は、拡大鏡を嵌めたゴーグルをかけていたせいで、人間離れして巨大なギョロ目に見えた。一週間後に再び訪ねると、技師の手には元通りの時計があった。

「先生、摩耗していた部品はいくつか替えましたけどね、足りないもんはなかったよ。オーバーホールのいい機会になったね」

 少年は以来、本格的に機械の虜になった。放課後、鞄を家に放り込んでは、工房に通った。




 彼は北方共和国に生まれ育ったが、両親は中央帝国の出身だ。
 十三で幼年学校を卒業した今、大陸で最も高い技術力を誇る帝国で学ぶために、彼は母の実家に寄宿して中等学校に通う道を選んだ。
 見送りには父母と妹、友人たち、それに四年間世話になった機械技師が来てくれた。
 もみくちゃにされて激励されて、最後に、父と母に挟まれるように抱きしめられた。お兄ちゃんずるい、と潜り込んできた妹も一緒だ。照れ臭かったが大人しくされるがままになった。
 彼は、優しい、仲のいい両親から降らされるキスの雨の中で伸びやかに育った。……時折、悪さをすると母からは雷も落ちたけれど。

 国境までは乗合馬車で行き、帝国に入国後は蒸気機関車に乗った。威風堂々たるそれは、二年前に開通した。
 王都の駅に降り立っても、身体を芯から揺さぶる地響きは少年の中に残っている。
 興奮と緊張で鼓動が早い。
 少年は父に教えられたとおり、深呼吸をする。

「……ねえ、君」
「はっ、はい!」

 目の前に、中央帝国の軍服を着た、背の高い男が立っていた。彼はかがんで、目を合わせてくる。淡緑の瞳に、髪は焦茶だ。

「エミールかい?」
「……はい、そうです! 僕、エミール・ロレンツです」
「ああ、やっぱりそうか。迎えに来たよ、僕はギルベルト・リヒターだ。君のお母さんの弟だよ」
「はじめまして、お世話になります」

 ギルベルトはエミールの表情に、古い記憶を呼び覚まされる。
 一見して上の姉に似ていると思ったが、切れ長の目がきゅっと細くなると、昔リヒター家に出入りしていた医師の独特の糸目と同じになる。眉もいくぶん下がり気味で、基本的な顔立ちが整っているわりに、親しみやすい印象だ。まだ背の伸び切らない様子の彼は、柔らかそうな髪質で、つい頭を撫でたくなる。

 エミールは時計をポケットにしまい、トランクを持ち上げて、叔父の背中を追う。
 そして、薄暗い駅舎から、陽の降り注ぐ外へ一歩、踏み出した。
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