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15.雨の森① ※
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リファリールは森の中を歩いている。
今日は朝から、夏には珍しく静かな、蚕の糸のような雨が降っていた。
しずくがリファリールの薄緑の肌を潤していく。
たっぷり水気を含んだ空気を浴びて、草木から生まれた身体が、息を吹き返していく。
同じ雨に濡れて、この風花の森がいつも以上に親しく感じられる。
リファリールは自分が生まれ育った霧の森を思い出していた。
けれど、古い大木が多かった霧の森と違い、ここの命は、みな若い。
そう遡らない以前、風花の森は丸ごと魔物に呑まれて一度死んだのだと、ララは言っていた。
森の護人だったエルフの一族も、ララ以外、助からなかったという。
その後、王都の神官と魔術師、そして近辺の騎士団と傭兵団といった人々が力を尽くして、魔物から森を取り戻した。
ララは、傭兵団の小隊長のスヴェラードと結婚して、家族で新たな森番としてこの場所を守っている。
昔、生きていくために知っておくべきだと、ルルーシアが教えてくれた。
魔物は、ただの危険な動物ではない。
このお日様が照らしてくれる世界の裏には、もう一つの世界が鏡合わせに張り付いている。
そこは暗闇の世界だ。光もなく、水もなく、草木もない。なにも育たない。瘴気という穢れた空気に満ちて、闇の凝ったようなものだけが蠢いている。
それはひどく飢えていて、お日様の世界のものが食べたくて仕方がない。
二つの世界の境は不安定で、なにかきっかけがあれば、暗闇の世界のものはお日様の世界に入り込んでくる。
それが魔物だ。
魔物は環境に合わせて擬態する。どこかこの世界の生き物に似て、でも、決定的に歪んでいる。
ひたすらに、殺し、奪い、食い荒らす。
言葉を解するほど知能が高いものもいるが、話し合いは不可能といっていい。
それらは、情動がこの世界のものとは反転している。温かな感情の交歓を厭い、苦痛と恐怖、憎悪を悦ぶ。
花の魔力は通じない。
魔物は、気に入ったものほど引き裂きたくなるからだ。
もし出会ってしまったら、逃げるしかない。
今よりずっとちいさかったリファリールが震え上がると、ルルーシアはさらに教えてくれた。
リファリールの生まれた森の古い大木は、昔は人の形をとって歩いた同族たちだ。
彼らの呼吸は清らかな霧になって、暗闇の世界の瘴気を退け、魔物を寄せ付けない。
だから、ここにいれば安全なのだと。
でも、もうリファリールは知っている。
この世界の人々は、みんなが安全な森に住んでいるわけではないのだ。
壁や結界で住む場所を囲い、寄り集まって、助け合って、時に命がけで魔物と戦って、生きている。
リファリールは森の中心の湖に辿り着いた。
草の岸辺に座る。
雨が音もなく湖面に吸い込まれていく。丸い波紋が現れては消える。
森の中では、リファリールの感覚はどこまでも冴え、広がっていく。
いくらか離れた木の上にひとつ、気配があった。
けれど、リファリールは警戒しなかった。彼は、リファリールが真白い夢の中にいた十数日の間も、時折様子を見にきてくれていた。害意がないのは、わかっていた。
彼はこの森の護人の一人なのだ。
今度は、足音。
跳ねる急ぎ足に、リファリールは彼の姿を認める前から嬉しくなる。
振り向けば、黒山羊の角の頭が木々の間から覗いていた。
「よかった、いた。ランが、湖に散歩に行ったって言うから。迷子になってないかと思って」
「ふふ。わたし、森の中なら大丈夫です」
「そういやそっか。でもさ、雨だよ、寒くない?」
「雨に濡れるの好きなの。とっても気持ちいい。ユールさんは?」
「俺も平気。下半分、毛皮だし、濡れて風邪引いたりとかもないけどさ」
それならと、リファリールが自分の横を軽く叩いて示すと、ユールは腰を下ろした。
草に投げ出された足先の蹄は二つに割れていて、なんだかかわいらしい形に見えた。
触れると、彼はくすぐったそうにして、悪戯をした指を蹄で軽く挟んできた。意外と器用に動くと感心した。
肩に寄りかかると、彼の腕が回ってきた。
そうして静かに身体を寄せ合うだけで、沁み入るように幸福だった。
大きな身体から伝わる鼓動、髪を梳いてくれる手つきから、彼も同じ思いなのが、伝わってくる。
彼が死んでしまわなくてよかったと、思った。
一目見て、息があるのがむごいと思ってしまったほど、無惨な姿だったのだ。
咄嗟に花を摘み取って口に押し込もうとしたが、とても食べられる状態ではなかった。
白い花は血に塗れて、床に落ちた。
前頭部は陥没して、血とは別の、濁ったものが垂れていた。手を当てれば、腹腔内はほとんど潰れて、しかも魔物の瘴気に毒されていた。逆流してきた殺戮の記憶に、意識が飛びかけた。
一方的に、精神の負荷も顧みず無理矢理ねじこまれた「共有」の残滓だった。彼はこれを見せられたのかと、愕然とした。
血はほとんど流れ出してしまって、魔力だけが途切れ途切れに巡っていた。魔力がある彼だからこそ、その状態でも命の火が消えていなかった。
巡りを補佐するように、魔力を流し込んだ。
途端、意識のないまま、彼の背が反った。食いしばった歯から、苦悶の呻きが漏れた。
医者がリファリールの手を外させると、糸の切れた操り人形のように、力が抜け落ちた。
彼の身体は、治癒の術式で回復可能な地点をとうに過ぎていた。それ以上は、苦痛を増し、死期を早めるだけだった。
「手を握ってあげて。こんなになっても、帰ってきたんだ。せめて君が最期を看てあげて」
リファリールはひざまづいて、彼の手を両手で包んだ。
「いいえ。ユールさん、絶対に死なせません」
それは、魔術書で覚えた術式ではなかった。
リファリールの思念にあったのは、蔓草だった。
太く強く、細く繊細に。どこまでも伸びる、絡まる、繋がる。潰れた組織を膨らませ、ちぎれた糸を撚り合わせる。
元の姿形なら、知っていた。
ほんの数夜前、深く触れ合って、繋がって、愛を交わした相手だったから。
緑に輝く蔓草が、リファリールから数えきれないほど伸びて、ユールを浮き上がらせていた。額と腹の傷から内部に入り込み、瘴気を吸い出し、光と水を与えながら、身体を丁寧に繕っていった。
そして、最後は全ての蔓草が彼の中に入って、内側から傷を閉じた。緑の輝きはゆっくりと消えて、彼の身体に馴染んでいった。
「先生、診て」
リファリールは棒立ちになっていた医者を促した。彼は我に返って、ユールの呼吸と脈を確かめた。
「……信じられない、リファリール、君」
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫! 治ってる!」
医者の答えと、なにより、流した血に汚れたままでも、穏やかな呼吸で眠っているユールに安心したところで、リファリールの記憶は途切れている。
――あなた、ほんとうに無茶したわ!
夢の中で、ルルーシアに言われた。
――せっかくもらった種、全部使っちゃって、身体まで割いちゃって。百年は命、縮んだわよ。
たった百年で済んだなら、軽いものだった。喪われてしまったら最後、永遠に彼は帰ってこないのだから。
ルルーシアは楽しげに笑った。
――ふふふ、ほんとに好きになっちゃったんだ。なら、仕方ないわ。ひとりぼっちの千年より、誰かを愛した一年の方が長いもの。
ユールの声が、聞こえていた。
答えたかったのだけど、すごく、眠かったのだ。
もうちょっと待ってねと、やわらかくて温かい、なんだか懐かしい、お日様の匂いの白いふかふかに沈んでいた。
(よくがんばったねえ、リファリール)
誰かわからなかったけれど、褒めてもらえて、嬉しかった。
――ちょっとだけよ、わたしのなんだから。
ルルーシアの声は、拗ねていた。
「ちゃんと聞いてました。毎日、来てくれて嬉しかったです。今度、『おやっさん』のお店、連れていってね」
目覚めたあとに言うと、ユールは涙目になってしまった。
彼はずいぶん心配性になっていた。
「仕事辞めてくれない?」
とまで言い出した。
「感謝してるよ、でも、死にかけのやつが来るたびにこんなことしてたら、リファちゃん持たねえよ」
生活に必要なお金は渡すし、もしユールが死んでも、ギルドから出る補償金の受け取りをラーニャとリファリールの半分ずつにしているなんて言うのだ。
リファリールは少しばかり、怒った。
「お金は大事ですけど、それだけのためにお仕事してるわけじゃないです」
ユールの耳がしゅんと垂れた。
「それに、わたし、あれは他のひとにはできないの。ユールさんにしか種をもらってないし、身体も知らないから」
「そういう条件なの!?」
「たぶん。もし他の誰かにやってほしいって言われても、かわいそうですけど無理だと思います。ユールさんが特別なの」
「そっか……」
ユールは手放しで喜べないのか、複雑そうな顔をしていた。
「ユールさんこそ、お仕事辞めませんか。わたし、これからも今度みたいなことがあったら同じようにします」
「いや、やめて本当に! もう見捨てていいよ!」
「絶対嫌です。でも、できるだけがんばるけど、あと十回くらいやったらわたしでも命が尽きます」
「やっぱり寿命削れてんだ……リファちゃん、ごめん、本当にごめん……」
謝らせたいわけではなかった。
ユールは申し訳なさそうにしても、傭兵を辞めるとは言わなかった。
「でも、狼もネズミも、一匹じゃねえんだよ。いっくらでも湧いてきやがる。誰かがやんなきゃ、やられるんだよ」
冬至祭(ユール)の夜に生まれた彼は、家族の中で一人だけ、魔力を持っていた。
まるで、大いなるものが、お日様が一年で一番弱い時に生まれた彼を案じて、加護を与えてくれたように。
彼は、それは特別な力だから、正しいことに使いなさいと言い聞かされて育ったそうだ。
彼は、家族が魔物に襲われた時、そこにいられなかったことを悔いている。
傭兵として訓練を受ける前の少年だった。
それでも、家族の誰より魔物の気配に敏感で、脚が早かった。
勝てなくても、だれか一人くらい、逃がせたかもしれなかった。
その上、彼は家族の言葉に背いて、過ちを犯した。
絶望の中で、力をひとを傷つけることに使った。
傭兵になってようやく、彼は再び居場所を得て、本当に戦うべき相手と向き合ったのだ。
だから、辛くても痛くても、逃げてくれない。
そういうひとを好きになったのだと、リファリールは覚悟を決めた。
ならば、やることは一つだ。
「ユールさん。辞めないなら、がんばって生きて帰ってくるって約束してね。わたし、魔物を倒す力はないけど、救護室で待ってます。全部の力を使ったって、ユールさんを治します。そうやって、わたしも一緒に戦います」
ユールは驚いたように、リファリールを見つめ返していた。
「これからは、自分一人の命って思わないでください」
「言葉通りじゃん。殺し文句すぎねえ?」
「わかりましたか?」
「……わかった。リファちゃんは、俺より全然強えなあ」
何を言っているのだろうと首を傾げた。
「弱いですよ。直接は戦えないし、殺されれば死んじゃうから、ちゃんと守ってくださいね」
「うん。……俺、もっと強くなるよ。できるだけ怪我しねえようにする」
そう言ってくれるなら、充分だった。
雨はしとしと、降り続いている。
まるで空が、生きとし生きるものを慈しんで、数えきれないほどの口付けを贈っているような、優しい雨だ。
リファリールも一番愛しいひとに口付けをした。
「元気になったから、そろそろお仕事にも戻ります」
ユールは先ほどから、リファリールの右の耳を撫でつけている。くすぐったくてそわそわするけれど、やめてほしくはなかった。
「ゆっくりでいいよ。医者も無理すんなって言ってたし、あれから花も咲いてないだろ」
まだ心配症が治っていない。少しは認めてくれたのかと思ったのに。
リファリールは、ふと思いついて耳元に囁いた。
「花なら、たぶんね……」
彼の鼻のまわりの皮膚の薄い部分が、ふわりと赤くなっていく。
「……そんな俺に都合いい話ある?」
照れた様子もかわいくて、リファリールは笑いながら、彼の大きな手のひらに頬を擦り付けた。
今日は朝から、夏には珍しく静かな、蚕の糸のような雨が降っていた。
しずくがリファリールの薄緑の肌を潤していく。
たっぷり水気を含んだ空気を浴びて、草木から生まれた身体が、息を吹き返していく。
同じ雨に濡れて、この風花の森がいつも以上に親しく感じられる。
リファリールは自分が生まれ育った霧の森を思い出していた。
けれど、古い大木が多かった霧の森と違い、ここの命は、みな若い。
そう遡らない以前、風花の森は丸ごと魔物に呑まれて一度死んだのだと、ララは言っていた。
森の護人だったエルフの一族も、ララ以外、助からなかったという。
その後、王都の神官と魔術師、そして近辺の騎士団と傭兵団といった人々が力を尽くして、魔物から森を取り戻した。
ララは、傭兵団の小隊長のスヴェラードと結婚して、家族で新たな森番としてこの場所を守っている。
昔、生きていくために知っておくべきだと、ルルーシアが教えてくれた。
魔物は、ただの危険な動物ではない。
このお日様が照らしてくれる世界の裏には、もう一つの世界が鏡合わせに張り付いている。
そこは暗闇の世界だ。光もなく、水もなく、草木もない。なにも育たない。瘴気という穢れた空気に満ちて、闇の凝ったようなものだけが蠢いている。
それはひどく飢えていて、お日様の世界のものが食べたくて仕方がない。
二つの世界の境は不安定で、なにかきっかけがあれば、暗闇の世界のものはお日様の世界に入り込んでくる。
それが魔物だ。
魔物は環境に合わせて擬態する。どこかこの世界の生き物に似て、でも、決定的に歪んでいる。
ひたすらに、殺し、奪い、食い荒らす。
言葉を解するほど知能が高いものもいるが、話し合いは不可能といっていい。
それらは、情動がこの世界のものとは反転している。温かな感情の交歓を厭い、苦痛と恐怖、憎悪を悦ぶ。
花の魔力は通じない。
魔物は、気に入ったものほど引き裂きたくなるからだ。
もし出会ってしまったら、逃げるしかない。
今よりずっとちいさかったリファリールが震え上がると、ルルーシアはさらに教えてくれた。
リファリールの生まれた森の古い大木は、昔は人の形をとって歩いた同族たちだ。
彼らの呼吸は清らかな霧になって、暗闇の世界の瘴気を退け、魔物を寄せ付けない。
だから、ここにいれば安全なのだと。
でも、もうリファリールは知っている。
この世界の人々は、みんなが安全な森に住んでいるわけではないのだ。
壁や結界で住む場所を囲い、寄り集まって、助け合って、時に命がけで魔物と戦って、生きている。
リファリールは森の中心の湖に辿り着いた。
草の岸辺に座る。
雨が音もなく湖面に吸い込まれていく。丸い波紋が現れては消える。
森の中では、リファリールの感覚はどこまでも冴え、広がっていく。
いくらか離れた木の上にひとつ、気配があった。
けれど、リファリールは警戒しなかった。彼は、リファリールが真白い夢の中にいた十数日の間も、時折様子を見にきてくれていた。害意がないのは、わかっていた。
彼はこの森の護人の一人なのだ。
今度は、足音。
跳ねる急ぎ足に、リファリールは彼の姿を認める前から嬉しくなる。
振り向けば、黒山羊の角の頭が木々の間から覗いていた。
「よかった、いた。ランが、湖に散歩に行ったって言うから。迷子になってないかと思って」
「ふふ。わたし、森の中なら大丈夫です」
「そういやそっか。でもさ、雨だよ、寒くない?」
「雨に濡れるの好きなの。とっても気持ちいい。ユールさんは?」
「俺も平気。下半分、毛皮だし、濡れて風邪引いたりとかもないけどさ」
それならと、リファリールが自分の横を軽く叩いて示すと、ユールは腰を下ろした。
草に投げ出された足先の蹄は二つに割れていて、なんだかかわいらしい形に見えた。
触れると、彼はくすぐったそうにして、悪戯をした指を蹄で軽く挟んできた。意外と器用に動くと感心した。
肩に寄りかかると、彼の腕が回ってきた。
そうして静かに身体を寄せ合うだけで、沁み入るように幸福だった。
大きな身体から伝わる鼓動、髪を梳いてくれる手つきから、彼も同じ思いなのが、伝わってくる。
彼が死んでしまわなくてよかったと、思った。
一目見て、息があるのがむごいと思ってしまったほど、無惨な姿だったのだ。
咄嗟に花を摘み取って口に押し込もうとしたが、とても食べられる状態ではなかった。
白い花は血に塗れて、床に落ちた。
前頭部は陥没して、血とは別の、濁ったものが垂れていた。手を当てれば、腹腔内はほとんど潰れて、しかも魔物の瘴気に毒されていた。逆流してきた殺戮の記憶に、意識が飛びかけた。
一方的に、精神の負荷も顧みず無理矢理ねじこまれた「共有」の残滓だった。彼はこれを見せられたのかと、愕然とした。
血はほとんど流れ出してしまって、魔力だけが途切れ途切れに巡っていた。魔力がある彼だからこそ、その状態でも命の火が消えていなかった。
巡りを補佐するように、魔力を流し込んだ。
途端、意識のないまま、彼の背が反った。食いしばった歯から、苦悶の呻きが漏れた。
医者がリファリールの手を外させると、糸の切れた操り人形のように、力が抜け落ちた。
彼の身体は、治癒の術式で回復可能な地点をとうに過ぎていた。それ以上は、苦痛を増し、死期を早めるだけだった。
「手を握ってあげて。こんなになっても、帰ってきたんだ。せめて君が最期を看てあげて」
リファリールはひざまづいて、彼の手を両手で包んだ。
「いいえ。ユールさん、絶対に死なせません」
それは、魔術書で覚えた術式ではなかった。
リファリールの思念にあったのは、蔓草だった。
太く強く、細く繊細に。どこまでも伸びる、絡まる、繋がる。潰れた組織を膨らませ、ちぎれた糸を撚り合わせる。
元の姿形なら、知っていた。
ほんの数夜前、深く触れ合って、繋がって、愛を交わした相手だったから。
緑に輝く蔓草が、リファリールから数えきれないほど伸びて、ユールを浮き上がらせていた。額と腹の傷から内部に入り込み、瘴気を吸い出し、光と水を与えながら、身体を丁寧に繕っていった。
そして、最後は全ての蔓草が彼の中に入って、内側から傷を閉じた。緑の輝きはゆっくりと消えて、彼の身体に馴染んでいった。
「先生、診て」
リファリールは棒立ちになっていた医者を促した。彼は我に返って、ユールの呼吸と脈を確かめた。
「……信じられない、リファリール、君」
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫! 治ってる!」
医者の答えと、なにより、流した血に汚れたままでも、穏やかな呼吸で眠っているユールに安心したところで、リファリールの記憶は途切れている。
――あなた、ほんとうに無茶したわ!
夢の中で、ルルーシアに言われた。
――せっかくもらった種、全部使っちゃって、身体まで割いちゃって。百年は命、縮んだわよ。
たった百年で済んだなら、軽いものだった。喪われてしまったら最後、永遠に彼は帰ってこないのだから。
ルルーシアは楽しげに笑った。
――ふふふ、ほんとに好きになっちゃったんだ。なら、仕方ないわ。ひとりぼっちの千年より、誰かを愛した一年の方が長いもの。
ユールの声が、聞こえていた。
答えたかったのだけど、すごく、眠かったのだ。
もうちょっと待ってねと、やわらかくて温かい、なんだか懐かしい、お日様の匂いの白いふかふかに沈んでいた。
(よくがんばったねえ、リファリール)
誰かわからなかったけれど、褒めてもらえて、嬉しかった。
――ちょっとだけよ、わたしのなんだから。
ルルーシアの声は、拗ねていた。
「ちゃんと聞いてました。毎日、来てくれて嬉しかったです。今度、『おやっさん』のお店、連れていってね」
目覚めたあとに言うと、ユールは涙目になってしまった。
彼はずいぶん心配性になっていた。
「仕事辞めてくれない?」
とまで言い出した。
「感謝してるよ、でも、死にかけのやつが来るたびにこんなことしてたら、リファちゃん持たねえよ」
生活に必要なお金は渡すし、もしユールが死んでも、ギルドから出る補償金の受け取りをラーニャとリファリールの半分ずつにしているなんて言うのだ。
リファリールは少しばかり、怒った。
「お金は大事ですけど、それだけのためにお仕事してるわけじゃないです」
ユールの耳がしゅんと垂れた。
「それに、わたし、あれは他のひとにはできないの。ユールさんにしか種をもらってないし、身体も知らないから」
「そういう条件なの!?」
「たぶん。もし他の誰かにやってほしいって言われても、かわいそうですけど無理だと思います。ユールさんが特別なの」
「そっか……」
ユールは手放しで喜べないのか、複雑そうな顔をしていた。
「ユールさんこそ、お仕事辞めませんか。わたし、これからも今度みたいなことがあったら同じようにします」
「いや、やめて本当に! もう見捨てていいよ!」
「絶対嫌です。でも、できるだけがんばるけど、あと十回くらいやったらわたしでも命が尽きます」
「やっぱり寿命削れてんだ……リファちゃん、ごめん、本当にごめん……」
謝らせたいわけではなかった。
ユールは申し訳なさそうにしても、傭兵を辞めるとは言わなかった。
「でも、狼もネズミも、一匹じゃねえんだよ。いっくらでも湧いてきやがる。誰かがやんなきゃ、やられるんだよ」
冬至祭(ユール)の夜に生まれた彼は、家族の中で一人だけ、魔力を持っていた。
まるで、大いなるものが、お日様が一年で一番弱い時に生まれた彼を案じて、加護を与えてくれたように。
彼は、それは特別な力だから、正しいことに使いなさいと言い聞かされて育ったそうだ。
彼は、家族が魔物に襲われた時、そこにいられなかったことを悔いている。
傭兵として訓練を受ける前の少年だった。
それでも、家族の誰より魔物の気配に敏感で、脚が早かった。
勝てなくても、だれか一人くらい、逃がせたかもしれなかった。
その上、彼は家族の言葉に背いて、過ちを犯した。
絶望の中で、力をひとを傷つけることに使った。
傭兵になってようやく、彼は再び居場所を得て、本当に戦うべき相手と向き合ったのだ。
だから、辛くても痛くても、逃げてくれない。
そういうひとを好きになったのだと、リファリールは覚悟を決めた。
ならば、やることは一つだ。
「ユールさん。辞めないなら、がんばって生きて帰ってくるって約束してね。わたし、魔物を倒す力はないけど、救護室で待ってます。全部の力を使ったって、ユールさんを治します。そうやって、わたしも一緒に戦います」
ユールは驚いたように、リファリールを見つめ返していた。
「これからは、自分一人の命って思わないでください」
「言葉通りじゃん。殺し文句すぎねえ?」
「わかりましたか?」
「……わかった。リファちゃんは、俺より全然強えなあ」
何を言っているのだろうと首を傾げた。
「弱いですよ。直接は戦えないし、殺されれば死んじゃうから、ちゃんと守ってくださいね」
「うん。……俺、もっと強くなるよ。できるだけ怪我しねえようにする」
そう言ってくれるなら、充分だった。
雨はしとしと、降り続いている。
まるで空が、生きとし生きるものを慈しんで、数えきれないほどの口付けを贈っているような、優しい雨だ。
リファリールも一番愛しいひとに口付けをした。
「元気になったから、そろそろお仕事にも戻ります」
ユールは先ほどから、リファリールの右の耳を撫でつけている。くすぐったくてそわそわするけれど、やめてほしくはなかった。
「ゆっくりでいいよ。医者も無理すんなって言ってたし、あれから花も咲いてないだろ」
まだ心配症が治っていない。少しは認めてくれたのかと思ったのに。
リファリールは、ふと思いついて耳元に囁いた。
「花なら、たぶんね……」
彼の鼻のまわりの皮膚の薄い部分が、ふわりと赤くなっていく。
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名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
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