黒山羊と花の乙女

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15.雨の森① ※

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 リファリールは森の中を歩いている。

 今日は朝から、夏には珍しく静かな、蚕の糸のような雨が降っていた。
 しずくがリファリールの薄緑の肌を潤していく。
 たっぷり水気を含んだ空気を浴びて、草木から生まれた身体が、息を吹き返していく。

 同じ雨に濡れて、この風花の森がいつも以上に親しく感じられる。
 リファリールは自分が生まれ育った霧の森を思い出していた。

 けれど、古い大木が多かった霧の森と違い、ここの命は、みな若い。
 そう遡らない以前、風花の森は丸ごと魔物に呑まれて一度死んだのだと、ララは言っていた。
 森の護人だったエルフの一族も、ララ以外、助からなかったという。
 その後、王都の神官と魔術師、そして近辺の騎士団と傭兵団といった人々が力を尽くして、魔物から森を取り戻した。
 ララは、傭兵団の小隊長のスヴェラードと結婚して、家族で新たな森番としてこの場所を守っている。





 昔、生きていくために知っておくべきだと、ルルーシアが教えてくれた。
 魔物は、ただの危険な動物ではない。

 このお日様が照らしてくれる世界の裏には、もう一つの世界が鏡合わせに張り付いている。
 そこは暗闇の世界だ。光もなく、水もなく、草木もない。なにも育たない。瘴気という穢れた空気に満ちて、闇の凝ったようなものだけが蠢いている。
 それはひどく飢えていて、お日様の世界のものが食べたくて仕方がない。
 二つの世界の境は不安定で、なにかきっかけがあれば、暗闇の世界のものはお日様の世界に入り込んでくる。
 それが魔物だ。

 魔物は環境に合わせて擬態する。どこかこの世界の生き物に似て、でも、決定的に歪んでいる。
 ひたすらに、殺し、奪い、食い荒らす。
 言葉を解するほど知能が高いものもいるが、話し合いは不可能といっていい。
 それらは、情動がこの世界のものとは反転している。温かな感情の交歓を厭い、苦痛と恐怖、憎悪を悦ぶ。
 花の魔力は通じない。
 魔物は、気に入ったものほど引き裂きたくなるからだ。
 もし出会ってしまったら、逃げるしかない。

 今よりずっとちいさかったリファリールが震え上がると、ルルーシアはさらに教えてくれた。
 リファリールの生まれた森の古い大木は、昔は人の形をとって歩いた同族たちだ。
 彼らの呼吸は清らかな霧になって、暗闇の世界の瘴気を退け、魔物を寄せ付けない。
 だから、ここにいれば安全なのだと。

 でも、もうリファリールは知っている。
 この世界の人々は、みんなが安全な森に住んでいるわけではないのだ。
 壁や結界で住む場所を囲い、寄り集まって、助け合って、時に命がけで魔物と戦って、生きている。




 リファリールは森の中心の湖に辿り着いた。
 草の岸辺に座る。
 雨が音もなく湖面に吸い込まれていく。丸い波紋が現れては消える。
 森の中では、リファリールの感覚はどこまでも冴え、広がっていく。

 いくらか離れた木の上にひとつ、気配があった。
 けれど、リファリールは警戒しなかった。彼は、リファリールが真白い夢の中にいた十数日の間も、時折様子を見にきてくれていた。害意がないのは、わかっていた。
 彼はこの森の護人の一人なのだ。

 今度は、足音。
 跳ねる急ぎ足に、リファリールは彼の姿を認める前から嬉しくなる。
 振り向けば、黒山羊の角の頭が木々の間から覗いていた。

「よかった、いた。ランが、湖に散歩に行ったって言うから。迷子になってないかと思って」
「ふふ。わたし、森の中なら大丈夫です」
「そういやそっか。でもさ、雨だよ、寒くない?」
「雨に濡れるの好きなの。とっても気持ちいい。ユールさんは?」
「俺も平気。下半分、毛皮だし、濡れて風邪引いたりとかもないけどさ」

 それならと、リファリールが自分の横を軽く叩いて示すと、ユールは腰を下ろした。
 草に投げ出された足先の蹄は二つに割れていて、なんだかかわいらしい形に見えた。
 触れると、彼はくすぐったそうにして、悪戯をした指を蹄で軽く挟んできた。意外と器用に動くと感心した。

 肩に寄りかかると、彼の腕が回ってきた。
 そうして静かに身体を寄せ合うだけで、沁み入るように幸福だった。
 大きな身体から伝わる鼓動、髪を梳いてくれる手つきから、彼も同じ思いなのが、伝わってくる。

 彼が死んでしまわなくてよかったと、思った。





 一目見て、息があるのがむごいと思ってしまったほど、無惨な姿だったのだ。
 咄嗟に花を摘み取って口に押し込もうとしたが、とても食べられる状態ではなかった。
 白い花は血に塗れて、床に落ちた。
 前頭部は陥没して、血とは別の、濁ったものが垂れていた。手を当てれば、腹腔内はほとんど潰れて、しかも魔物の瘴気に毒されていた。逆流してきた殺戮の記憶に、意識が飛びかけた。
 一方的に、精神の負荷も顧みず無理矢理ねじこまれた「共有」の残滓だった。彼はこれを見せられたのかと、愕然とした。

 血はほとんど流れ出してしまって、魔力だけが途切れ途切れに巡っていた。魔力がある彼だからこそ、その状態でも命の火が消えていなかった。
 巡りを補佐するように、魔力を流し込んだ。
 途端、意識のないまま、彼の背が反った。食いしばった歯から、苦悶の呻きが漏れた。
 医者がリファリールの手を外させると、糸の切れた操り人形のように、力が抜け落ちた。

 彼の身体は、治癒の術式で回復可能な地点をとうに過ぎていた。それ以上は、苦痛を増し、死期を早めるだけだった。

「手を握ってあげて。こんなになっても、帰ってきたんだ。せめて君が最期を看てあげて」

 リファリールはひざまづいて、彼の手を両手で包んだ。

「いいえ。ユールさん、絶対に死なせません」

 それは、魔術書で覚えた術式ではなかった。
 リファリールの思念にあったのは、蔓草だった。
 太く強く、細く繊細に。どこまでも伸びる、絡まる、繋がる。潰れた組織を膨らませ、ちぎれた糸を撚り合わせる。
 元の姿形なら、知っていた。
 ほんの数夜前、深く触れ合って、繋がって、愛を交わした相手だったから。

 緑に輝く蔓草が、リファリールから数えきれないほど伸びて、ユールを浮き上がらせていた。額と腹の傷から内部に入り込み、瘴気を吸い出し、魔力を与えながら、身体を丁寧に繕っていった。

 そして、最後は全ての蔓草が彼の中に入って、内側から傷を閉じた。緑の輝きはゆっくりと消えて、彼の身体に馴染んでいった。

「先生、診て」

 リファリールは棒立ちになっていた医者を促した。彼は我に返って、ユールの呼吸と脈を確かめた。

「……信じられない、リファリール、君」
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫! 治ってる!」

 医者の答えと、なにより、流した血に汚れたままでも、穏やかな呼吸で眠っているユールに安心したところで、リファリールの記憶は途切れている。





――あなた、ほんとうに無茶したわ!

 夢の中で、ルルーシアに言われた。

――せっかくもらった種、全部使っちゃって、身体まで割いちゃって。百年は命、縮んだわよ。

 たった百年で済んだなら、軽いものだった。喪われてしまったら最後、永遠に彼は帰ってこないのだから。

 ルルーシアは楽しげに笑った。

――ふふふ、ほんとに好きになっちゃったんだ。なら、仕方ないわ。ひとりぼっちの千年より、誰かを愛した一年の方が長いもの。





 ユールの声が、聞こえていた。
 答えたかったのだけど、すごく、眠かったのだ。
 もうちょっと待ってねと、やわらかくて温かい、なんだか懐かしい、お日様の匂いの白いふかふかに沈んでいた。

(よくがんばったねえ、リファリール)

 誰かわからなかったけれど、褒めてもらえて、嬉しかった。

――ちょっとだけよ、わたしのなんだから。

 ルルーシアの声は、拗ねていた。





「ちゃんと聞いてました。毎日、来てくれて嬉しかったです。今度、『おやっさん』のお店、連れていってね」

 目覚めたあとに言うと、ユールは涙目になってしまった。
 彼はずいぶん心配性になっていた。

「仕事辞めてくれない?」

 とまで言い出した。

「感謝してるよ、でも、死にかけのやつが来るたびにこんなことしてたら、リファちゃん持たねえよ」

 生活に必要なお金は渡すし、もしユールが死んでも、ギルドから出る補償金の受け取りをラーニャとリファリールの半分ずつにしているなんて言うのだ。
 リファリールは少しばかり、怒った。

「お金は大事ですけど、それだけのためにお仕事してるわけじゃないです」

 ユールの耳がしゅんと垂れた。

「それに、わたし、あれは他のひとにはできないの。ユールさんにしか種をもらってないし、身体も知らないから」
「そういう条件なの!?」
「たぶん。もし他の誰かにやってほしいって言われても、かわいそうですけど無理だと思います。ユールさんが特別なの」
「そっか……」

 ユールは手放しで喜べないのか、複雑そうな顔をしていた。

「ユールさんこそ、お仕事辞めませんか。わたし、これからも今度みたいなことがあったら同じようにします」
「いや、やめて本当に! もう見捨てていいよ!」
「絶対嫌です。でも、できるだけがんばるけど、あと十回くらいやったらわたしでも命が尽きます」
「やっぱり寿命削れてんだ……リファちゃん、ごめん、本当にごめん……」

 謝らせたいわけではなかった。
 ユールは申し訳なさそうにしても、傭兵を辞めるとは言わなかった。

「でも、狼もネズミも、一匹じゃねえんだよ。いっくらでも湧いてきやがる。誰かがやんなきゃ、やられるんだよ」

 冬至祭(ユール)の夜に生まれた彼は、家族の中で一人だけ、魔力を持っていた。
 まるで、大いなるものが、お日様が一年で一番弱い時に生まれた彼を案じて、加護を与えてくれたように。
 彼は、それは特別な力だから、正しいことに使いなさいと言い聞かされて育ったそうだ。

 彼は、家族が魔物に襲われた時、そこにいられなかったことを悔いている。
 傭兵として訓練を受ける前の少年だった。
 それでも、家族の誰より魔物の気配に敏感で、脚が早かった。
 勝てなくても、だれか一人くらい、逃がせたかもしれなかった。

 その上、彼は家族の言葉に背いて、過ちを犯した。
 絶望の中で、力をひとを傷つけることに使った。

 傭兵になってようやく、彼は再び居場所を得て、本当に戦うべき相手と向き合ったのだ。
 だから、辛くても痛くても、逃げてくれない。

 そういうひとを好きになったのだと、リファリールは覚悟を決めた。
 ならば、やることは一つだ。

「ユールさん。辞めないなら、がんばって生きて帰ってくるって約束してね。わたし、魔物を倒す力はないけど、救護室で待ってます。全部の力を使ったって、ユールさんを治します。そうやって、わたしも一緒に戦います」

 ユールは驚いたように、リファリールを見つめ返していた。

「これからは、自分一人の命って思わないでください」
「言葉通りじゃん。殺し文句すぎねえ?」
「わかりましたか?」
「……わかった。リファちゃんは、俺より全然強えなあ」

 何を言っているのだろうと首を傾げた。

「弱いですよ。直接は戦えないし、殺されれば死んじゃうから、ちゃんと守ってくださいね」
「うん。……俺、もっと強くなるよ。できるだけ怪我しねえようにする」

 そう言ってくれるなら、充分だった。




 雨はしとしと、降り続いている。
 まるで空が、生きとし生きるものを慈しんで、数えきれないほどの口付けを贈っているような、優しい雨だ。
 リファリールも一番愛しいひとに口付けをした。

「元気になったから、そろそろお仕事にも戻ります」

 ユールは先ほどから、リファリールの右の耳を撫でつけている。くすぐったくてそわそわするけれど、やめてほしくはなかった。

「ゆっくりでいいよ。医者も無理すんなって言ってたし、あれから花も咲いてないだろ」

 まだ心配症が治っていない。少しは認めてくれたのかと思ったのに。
 リファリールは、ふと思いついて耳元に囁いた。

「花なら、たぶんね……」

 彼の鼻のまわりの皮膚の薄い部分が、ふわりと赤くなっていく。

「……そんな俺に都合いい話ある?」

 照れた様子もかわいくて、リファリールは笑いながら、彼の大きな手のひらに頬を擦り付けた。
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