黒山羊と花の乙女

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23.どん底の記憶④ ※

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 ユールは、夜の闇に隠れて地上に出た。
 通りを東に向かった。
 門番の交代の隙に、城壁にはめられている柵をよじのぼって、上部の隙間から街の外に出た。

 鈴を振るような虫の声がする。
 晩秋の風に、鼻先が冷たかった。
 薄い箱を小脇に挟んで、草を踏んで丘を登る。

 淡紫のホタルブクロが咲いている、少し開けた場所に出た。登ってきた道を振り返ると、街の全体が見下ろせた。壁にぐるりと囲まれた中に、灯りが詰め込まれている。
 温かいひとの営みが、見える以上に、遠かった。

 ルミエールの身寄りどころか、馴染みの娼婦すら知らなかった。今さら、友達がいのなさが嫌になった。
 彼がこんな目に合ったのも、自分のせいだった。

 せめてと、ここに来た。
 翅のある特権で、女の子と一緒に城壁を越えて、東の丘に夜景を見に行ったと嬉しそうに話していたのを、覚えていた。
 
 箱を開けて、ピンを抜いた。
 身体から毟られても、青い筋の煌めきは消えていなかった。
 薄くても張りのある、彼の自慢の、美しい翅だった。

 埋めるのはやめようと思っていた。
 死んでまで土の下に閉じ込めるのは、嫌だった。
 ポケットから、火の魔力の結晶をふたつ、取り出した。
 打ち合わせれば、ユールの魔力に反応して、闇に青白い火の玉が浮きあがる。

 秋の夜風に揺らめく炎に、一枚一枚、翅をくべた。
 微かな燃え残りが花びらのように、上昇する空気に乗って、高く舞い上がっていった。
 
 彼を見送り終えると、火の玉もちいさくなって、ぽたりと地に落ちた。
 草の露に触れて、完全に消える。
 そして、ユールは来た時より深い闇に包まれた。

 物音に、びくっとした。
 目を凝らすと、リスだった。星灯りの下で、つぶらな目でユールを見つめていた。
 
 ユールは目を逸らして、駆け出した。
 後ろ暗いからこんなちいさな生き物にすら怯えるのだと、情けなかった。

 帰りは門番に見つかって、叱られた。

「子供がこんな遅くに、肝試しでもないだろう!」

 ひとの良さそうな人族だった。家はどこだ、迎えに来てもらうかと、心配してくれるのに、つい、笑ってしまった。

「おっちゃん、ありがと。……大丈夫だよ、俺」

 逃げ場なんてどこにもない。血塗れの蹄で、行けるところは一つだけだった。




 ユールは、新しい付き人は突き放した。
 必要なく話しかけるな、部屋に入るなと、初めに言い渡した。前の付き人の最期を知っている小灰蝶は、むしろほっとしたようだった。
 代金と引き換えに、部屋の前に食べ物と薬だけ置いてもらって、ほとんど顔も合わせなかった。

 かわりに、リスがユールの周りに出没しはじめた。あの夜、なぜかついてきてしまったらしかった。
 ポケットに押し込んで地上に放しても、気がつけば戻ってきて、捨てられている賭け札をくわえて走っていたりした。
 寒いから地下に潜り込んでくるのか、それにしたって巣材なら、もう少しマシなものがあるだろうと呆れた。

「ここ危ねえんだって。お前なんかひょいと喰われるよ」

 そう言ってやっても、キキッと鳴いてユールの首の周りを回るばかりだ。

「わかるわけねえか、リスだもんな」

 それでも、いればなんとなく話しかけて、クルミをやったりしていた。
 無自覚のうちに、そうして精神の均衡をとろうとしていた。




「あれは、ねえよ。なあ。笑っちまったよ」

 ユールはベッドの上で、じっとりした脂汗にまみれて、リスに言った。
 組まれる対戦相手はどんどん大きく強くなって、昨日、とうとう熊族が出てきた。
 完全に目がイッていて、口輪が嵌められていた。
 体重にすれば、ユールの数倍ありそうな巨体だった。毛皮を押し上げて、ごつごつとコブになるほど、異常に筋肉が膨らんでいた。
 劇薬か、禁呪か、なんにせよろくでもないやり方で、狂化させられていた。

「ったく、可哀想になっちまったよ。あんなんなっちゃ、殺してやったほうがいいのかなってさあ……」
 
 クラインは、ユールを見限ったらしかった。
 その場で許したふりをしても、鼬は、一瞬でも本気の殺意を向けてきた黒山羊を、やがて扱いきれなくなる危険物と判断したのだ。
 もともと、どこかで切る気でいたのだろう。
 活きのよすぎる生贄に対する客の憎悪は、充分すぎるほど溜まっていた。
 山羊角の悪魔が屠られるとき、彼らはそのぶん、狂喜するのだ。

「俺山羊だよ、普通、無理だかんな、あんなの」

 それでも勝ったのだから、自分はもう普通ではないのだと思う。
 ただ、代償は払わされていた。
 利き腕の前腕、一振り爪が掠っただけで、骨が見えるほど、もっていかれていた。

 流石に手当てをしようとする小灰蝶を締め出して、軟膏を一瓶ぶちまけて、もう片手で不器用に包帯で縛り上げた。
 凄まじい痛みに唸り続けた。
 みるみる熱が出た。
 鎮痛の薬草を用量を無視して食べて、今は痛みがいくぶん遠ざかったかわり、身体の力が入らなかった。

「……見テランネエゼ!」

 リスが叫んだ。

「モウ、証拠集メナンカシテラレルカ! 起キロ、外ノ医者イクゾ!」
「まじでやべえんだな俺。リスが喋ってるよ」
「オウ、黙ッテテ悪カッタナ! 喋レルゼ!」
「……あ、うん。だりいし無理」
「死ヌゾ!」
「だよなあ。てか、俺ここまで死んでねえのがすげえよね。虎とか狼とか、めぼしい肉食だいたいやったよ? さっくりはじめに殺られてた方が、楽だったかもなあ」

 ユールは、だらだらと喋った。
 この地下で初めに見せられた、兎族の死に様を、思い出していた。

「ああ、でも、喰われたくねえって頑張ったの、ちょっとは意味あったかなあ。俺がいるあいだは、新しい草食が連れてこられること、なかったもんな。山羊一匹やれねえで弱いもんイジメじゃ、さすがにあいつらが大事な面子が立たねえよ」

 リスが枕元で地団駄を踏んだ。

「バカヤロウ! オ前マダ、子供ダロウ! 逃ゲルンダヨ! マトモナ大人ニ、助ケテクレッテ言ウンダ!」

 門番の人族を思い出していた。このリスみたいな茶色の髪と髭をしていた。同じように、心配して怒ってくれた。

「はは、変なリス。……ありがと」

 眠くなってきていた。瞼が重たくて仕方ないのに、リスはまだ騒いでいる。

「名前、ナンテイウ!」
悪魔バフォメットなんて呼ばれてる……だせえだろ……」
「違ウダロ! チャント親御サンガツケタ名前、アルダロ!」
「……ユール……」
「ゆーるダナ! 俺様ハ、ねむダ!」

 リスは後脚で立って、ユールの鼻先をちいさな拳でぺしっと叩いた。

「スグ助ケ呼ンデヤル! ガンバレヨ!」

 ぴょんとベッドから飛び降りて、壁の穴へ消えていった。





 ユールはフラフラと、リングに向かう。熊に掻かれた手は、感覚がなくて指が動かなかった。
 なにか食べる体力すらなかった。
 それでも、次の試合は組まれていた。

 相手を見て、変な気分になった。
 ハイエナの獣人だった。
 対戦カードのコールで、ようやくはっきり思い出した。

「あんたかあ」
「……会いたかったぜ、クソガキ」

 憎悪に目を光らせる相手の後ろに、クラインが見えた。

「てめえを喰わなきゃ、俺は始まらねえ。ボスに認めてもらえねえ」

 ハイエナは低く唸る。
 ユールは怒れなかった。クラインに認めてもらいたいなんて、意味がわからなすぎて、涙ぐましい。
 ユールにとっては、ここは最低の場所だ。でも、目の前のハイエナにとっては、取り返すべき居場所なのだった。

 憐れみのような、申し訳なさのようなものを感じて、突っ立っていた。
 気がつけばゴングが鳴っていた。

 ハイエナが飛びかかってくるのが、妙にゆっくりと見えた。
 肩に鋭い爪の前脚がかかり、押し倒される。
 真上の魔灯に目が眩む。
 肉食の鋭い歯が光る。

 二頭の上に、影がかかった。
 魔灯を遮るのは、長い尾だ。ハイエナを一打ちで跳ね飛ばし、リングに上がってきたのは蛇族だった。
 ユールは起き上がれもせずに、乱入は初めてだなと、ぼんやり思った。再び上がってきた熱で朦朧としていて、戦える状態ではなかった。死ににきただけだったから、相手はなんだってよかったのだ。

 蛇族の頭の上に、ちいさな影が乗っていた。ピンと立った二本の耳、体と同じくらいある、ふさふさの尾。
 リスは拳を振り上げて、高らかに宣言した。

「ゆーる、シッカリシロ! 助ケニキタゾ!」




 その日、東街道中央街の非合法の賭け拳闘は、騎士団、自警団、傭兵団の三団合同の大規模な摘発で、一斉検挙された。
 
 ユールは傭兵団の団長個人の家で目覚めた。自警団が捕縛しようとするのを、リスのネムが怒って止めた結果だった。

「酷イ怪我ダロ! 見テワカンナイカ!」

 起きられるようになってからは、取り調べがあった。ユールは特に隠し立てもせずに、拳闘のことも、クラインの下でやったことも、全て話した。
 クラインも捕まっていた。組織的な犯罪の首謀者として、中央に送られて裁判にかけられる。まず戻ってこられないと、団長から教えられた。

「……俺も、いくんですよね」
「いや。ユール、お前はまあ、どっちかといえば被害者だよ。成年前だし、実刑はないなあ。この街で裁判にはかかるけど、多分、保護観察だ」
「なんだよそれ! 甘いこと言わないでくれよ、裏切ったって思われたら、何されるかわかんねえんだよ!」

 ユールの中では、クラインへの恐怖は、消えていなかった。
 団長はその反応を見て、翌日、医者を連れてきた。彼が持ってきたものに、ユールは反射的に身体を強張らせていた。
 クラインのステッキだった。

「きみ、これで叩かれた?」
「よせ、嫌だ! こっち向けんな!」

 ユールの混乱しきった様子に、医者はステッキを下げた。

「うん、よくわかった。ごめん」

 医者はステッキを両手で持つと、ユールの目の前で、思い切り膝に打ち付けて折った。

「はい、おしまい」

 ユールは、息が楽になっているのに気がついた。解放されて初めて、それまでずっと、何かに締め上げられるように苦しかったことも自覚した。

「これね、鑑定かけたら闇の魔力がかかった呪具だってさ。これだけの力はそこまで強くないけど、クラインみたいなタイプが持つと、相乗効果が最悪でさ。洗脳術ってやつだよ。逆らえない、逃げられない、従うしかないって、刷り込まれる」
「なんだよ、それ……」
「……世の中にはね、魔物でなくても、魔物みたいな中身のやつがいるってこと。そういうやつには、関わっちゃいけない。耳を貸しちゃいけない。……きみ、辛かったね」

 医者はユールの腕も診て、動きにくくてもできるだけ指を動かすように指示した。後遺症が残るかもしれないとも、言われた。
 「またくるよ。お大事に」と、帰っていった。

 


 身元の引受先を団長に確かめられて、ユールは、身寄りはないし、前の勤め先にも迷惑だろうからなにも言わないでくれと口を閉ざした。
 団長が家に置いてくれた。
 子供の多い家で、身体の調子が戻るまで、子守をしたり家事を手伝ったりしていた。
 治ったらちゃんと出て行くと伝えていたが、行く当てはなかった。
 正直なところ、死に損なってしまったと思っていた。




 くすぶっていたユールを、団長は傭兵ギルドへ連れて行った。
 ユールには見覚えのあるリスがちょこちょこと走ってきて、肩に乗った。

「ゆーる、調子ドウダ!」

 ユールは首を振る。

「うん、ダメだ。まだリスが喋ってる」
「ネムは喋れるんだよ、すげえよね」

 白兎族の傭兵が、懐っこく笑いかけて教えてくれた。
 訓練場には、リングに乗り込んできた蛇族がいた。金色の目を細めて、彼はユールに言った。

「治ってんなら、身体動かしてくか?」

 それが、入団審査だった。

 一度裏の世界に関わると、表の世界では居場所がなくて、結局、ズルズルと戻ってしまうものが多い。
 団長がギルドに入れてくれたのは、ユールを守るためでもあった。

 ギルドの傭兵たちは、ユールがしてきたことを知っても、誰も拒絶しなかった。
 毎晩のように飲みに連れて行かれて、色々な遊びも教わった。

 ユールはゆっくりと、自分を取り戻しはじめていた。
 それは、家族といたころ、そしてディアンのもとで働いていたころの自分とは、違ったけれど。
 ユールは、少年から青年に変わっていく時期に、あまりにも重たい経験をしてしまっていた。
 角は結局、黒いままだった。

「なんか気味悪い。父ちゃんとも兄ちゃんとも違えんだ」
「そうか? かっこいいじゃん、魔力持ちって黒角多いらしいぜ」

 仲良くなった白兎族のラパンにあっけらかんと言われて、少し、救われた。
 
 



 どん底の記憶から、浮かび上がる。
 ユールは、リファリールの柔らかな髪を撫でている。
 愛おしい、大切な恋人だ。
 幸せすぎて、怖かった。

「昇格試験、受けさせてくれるって」

 ユールが呟くように言うと、リファリールはころりと仰向けになって、見つめ返してきた。

 昨日、団長室に呼ばれていた。
 スヴェラードも、フィミーも、ディードもいた。
 小隊長三人全員一致で、次の秋の傭兵ランクの昇格審査に、ユールの推薦を出すと言ってくれた。

「トゲネズミと影狼の首級討伐してるし、俺も蹴り飛ばしてくれたしねえ」
「おう、冬の応援もよくやってた。雪かきも頑張ったし、あっちの人たちに、帰らねえで住めって誘われるくらい気に入られてな」
「ユールくんの魔力ほんと面白いからね! まだまだ伸びるよ!」
「……俺、そういうのダメなんじゃなかったっすか」

 ユールが恐る恐る訊くと、団長が答えた。

「マイナスにはなるよ。でも、お前はそれでも受かると思うから、推してる」

 その時の気持ちを、ユールは思い返して言葉にしていた。

「俺みたいなの、認めてくれて、すげえ嬉しいんだけど、なんか都合よすぎて、嘘みてえだよ。迷ってんだ」

 リファリールは、静かに耳を傾けてくれる。

「やっぱりお前なんかダメだって言われんじゃねえかって思ったら、他のやつが受けた方がって……」

 ユールの言葉が途切れたところで、リファリールは身体を起こした。
 美しい裸体のまま膝立ちになって、ユールの頭を胸に抱き寄せた。

「みんな、今のユールさんのことをちゃんと見てるんです。だから、大丈夫です」

 いくらユールが獣の欲望をぶつけて乱そうと、彼女は清楚で綺麗な、花の妖精だった。

 ふと、思った。
 あのひらひらした青筋揚羽、ルミエールは、生きてリファリールに出会っていたら、間違いなく夢中になった。
 臆面もなく纏わりついて口説き倒すのが、目に見えた。
 そうだったら、きっとユールの出る幕なんかなかった。

 ひどく勝手な想像なのは、わかっていた。
 彼を友達と呼んでいいのかすらわからなくて、今の今まで、思い出さないように封じ込めていた。

 けれど、あの暴力の狂気に染まっていったどん底の日々の中で、ユールの身体を治し、精神を救っていたのは、確かに彼だったのだ。

 目を閉じれば、薄闇に青い燐光が煌めくようだった。
 リファリールの花の香りを深く吸って、ユールは応える。

「ありがと。俺、がんばるよ」
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