黒山羊と花の乙女

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22.どん底の記憶③ ※

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 そのころのユールは、戦っては腹に何か詰め込んで、闇に引き摺り込まれるように眠っていた。
 そして、決まってひどい頭痛で目を覚ました。

 角が伸びる成長痛だった。
 内側から熱した鉄棒が突き破ってくるようだった。実際、根元に血が滲んでいることもあった。
 父も祖父も、兄たちも角は灰褐色だったのに、ユールの角は日に日に色が濃く変わり、ほとんど髪色と変わらない黒になっていた。

 ユールには、確かに戦闘の才能があった。
 場数を踏むごとに、身のこなしが洗練された。
 魔力も使うほどに、明らかに出力が上がった。急激な角の成長も、その結果だった。

 いくら勝っても、強くなっても、嬉しくなかった。
 擦りむけるほど洗っても、蹄から血の匂いが落ちなくなっていた。

山羊角の悪魔バフォメット

 身のうちから腐って、なにより憎んだはずの魔物に、堕ちていくようだった。





 脈打つ頭痛を持て余して寝転がっていると、試合のない日なのにクラインとルミエールがやってきた。

「揚羽、坊主にちっとはまともな格好させとけって言ったろ?」
「ユールってあんまり洒落っけないんですよねえ」
「ったく田舎モンはしょうがねえなあ」

 なにやら勝手に言い合っている。クラインはルミエールに命じて、黒服を一式持ってこさせた。

「靴は要らねえな。客んとこ行くから、これ着な」

 ユールはごろりと寝返りを打ち、怠惰の悪魔を決め込んだ。どうせろくな話ではないのだ。

「いかねえ」
「ふーん、反抗期ってやつだねえ」

 クラインはベッドに腰掛けた。ルミエールは壁に張り付いて空気になっている。

「そういや、おやっさんは息子に手伝いさせはじめたみてえよ? まあ所詮、お前はよそのガキってことだねえ」

 ユールの尖り耳がピクッと動くのを、クラインは面白そうに眺めていた。

「……なんでそんなこと知ってんだよ」
「下の奴らはあの店気に入ったみてえでな。草食のくせにガンつけて啖呵切りやがった根性買ったんだよ。鹿肉差し入れてやったり、店中の生ゴミ捨てといたり、贔屓にしてるみてえよ?」

 ユールは起き上がって、クラインの胸ぐらを掴んだ。

「もう関係ねえって、言ったろうが!」

 クラインの笑わない目が、ユールを至近で覗き込んでいた。シャツの襟をとっている手を、犬を躾けるように鋭く一撃、ステッキで打った。

「それがお願いごとする態度か、坊主」

 ユールの手から、力が抜けた。





「クライン、そりゃ話があこぎだぜ」

 顎が埋もれるほど太った猫族が、ふてぶてしい濁った声で言う。
 耳障りで頭痛が強くなる。ユールはお仕着せの格好でクラインの後ろに立たされて、不機嫌を通り越して表情をなくしていた。
 ろくに話は入ってこないが、要は野良犬の喧嘩と同じ、どっちもどっちの肉の取り合いだ。

「そうだ、紹介してやんよ。こいつうちの興行の新人でね」
「子山羊なんか連れて、手土産かと思ったぜ?」
「坊主、見せてやんな」

 ユールは雑に脚を振るう。
 ごてごてと飾り付けられた部屋中が揺らいで、石造の壁が粉々にひび割れた。

「俺、人蹴んの別に好きじゃねえんだよ。このクソ鼬の言う通りにしてくんねえかな」

 そんなに簡単に言うことを聞いてはくれず、結局、猫族と手下の数人、半殺しにする羽目になった。
 ユールは、言い逃れしようもなく、クラインの子飼いのごろつきになっていた。





 ルミエールだけが、ユールは僕のヒーローだと、ペラペラのお世辞で持ち上げてくれた。

「悪役(ヒール)だよ。あのブーイング聞こえてねえの」

 肉食獣の暴力の祭典で、餌として放り込まれたはずの山羊が暴れているのだ。
 大金を張った選手を蹴り飛ばされた客から、さっさと喰われろと呪いを浴びせられ続けていた。

「客受けがどうだろうが、ユールは最高だよ! でも勝ち続けだから、さすがに倍率オッズ変わってきちゃってさー、前ほどボロ儲けじゃないんだよね」

 ルミエールはベストのポケットから、賭け札をちらりと覗かせた。

「俺に賭けてんの?」
「もちろん! ユールと僕は一心同体、ユールの負けは僕の負け! 毎回、全財産注ぎ込んでるよ!」
「重てえよ!」
「軽いよお、僕こんなペラペラだもん!」

 地下の重苦しい空気をものともしない、身も心も軽薄な蝶だった。ユールに虫人の表情はほとんどわからないが、彼の声はいつでも笑いを含んでいた。
 ルミエールのほうはと言えば、ユールの顔を改めて見つめるようだ。

「今、顔、ふにゃっとした! もしかして笑った? 笑ったよね?」
「……悪いかよ」

 横を向くのを追いかけて回り込み、触角で頬をつついてくる。

「全然いいよ、ときめいちゃったよ! ユールってほっぺ柔らかいねえ、僕、メスだったら抱かれたい!」
「やめろって。オスメスの前に虫と獣だろ」
「えっ、できるよ。興味ある? そういうのいける子呼ぶ?」
「いい、フリじゃねえからな、絶対そういう気い回すなよ!」

 ユールは、人を傷つける力を持たない彼には気負わずに接することができた。
 しかし、せっせと女遊びを勧めてくるのには、閉口していた。

「……ユールって、したことないの?」
「うるせえ」
「えっへっへ、鼻の周り赤くなった! 面白い! 本当に出張頼んであげるよ。初めては同族がいい?」
「よせ。……クソ鼬に言われてんだろ」
「あ、やっぱ気付いてた」

 ルミエールは悪びれもしなかった。
 いかにもクラインのやり口だった。脅して働かせる一方で、従うなら美味しい思いをさせてやると、わかりやすい飴と鞭だ。
 そして、馴染みの女などできようものなら、新たな脅しの材料にされる。

「ナイショにするとは言えないけどさー。女の子って素敵だよ。交尾したあとくっついて寝てると、生きててよかったなーって思える。安らぎ? みたいな」
「……金払ってやることだろ」
「うん。それでもちゃんとそういう気持ちにさせてくれるんだ。優しいよねえ。……僕さあ、お金あったら、ママの借金まとめて返して、好きな子、娼館から引き取って、卵産んでもらって。仕事は服屋かな、薬屋もいいなあ、とかね。考えるよ。いっぺん死ななきゃ叶いそうにない夢だけどね」

 問わず語りに漏らされた夢に、邪険にし続けたのが悪いような気がした。
 ルミエールは知ってか知らずか、懲りないダメ元で誘ってくる。

「ねー、ユール。遊びいこうよー。浮世の憂さを晴らそうよー」

 ユールは、ぼそりと答えた。

「……酒、飲むだけなら」

 ルミエールが「やっほう!」と叫んで舞い上がった。





 すぐ出かけるかと思いきや、ルミエールに着替えを渡された。襟のないシャツと柔らかな薄茶色の上着は、着たことのない形だったが肌触りがよくて、クラインに押し付けられた黒服より余程しっくりきた。ズボンもちゃんと脚の形に合っていた。

「似合うよー! やっぱ僕センスいいや」

 上機嫌のルミエールと地上に出た。
 夕闇の街の空気は涼やかで、料理店から温かい食事の匂いがした。
 風が運んでくる金木犀の香りに、秋になっていることに気がついた。
 久しぶりに、気楽に息ができた。




 ルミエールに案内されるまま入った店は薄暗く、目が慣れるまでしばらくかかった。
 カウンターの中の光るものが、親しげにルミエールに声をかけた。

「あら、ルミちゃんいらっしゃい」

 蛍の虫人だった。

「お連れ様は、はじめてね?」
「この子ねえ、今、僕が世話してる子!」
「ルミちゃん偉くなったのねえ」

 ルミエールは「まあね!」と、得意げに胸をそらしている。
 少し違う気がしたが、ユールは特になにも言わずに頭を下げた。

「山羊の坊や、こんなヒラヒラした人についたら、振り回されて大変でしょう?」
「え、僕らいい相棒だよねえ、ユール?」
「……うん」
「ほらねほらね!」

 カウンターでなくボックスの席に通された。奥から出てきた獣族らしい影に、ユールは顔をしかめる。
 ルミエールはわざとらしく斜め上を向いていた。

 しかし、店の中を舞う蛍たちに照らされて、彼女の横顔を見た瞬間、思わず呼んでいた。

「ラーニャさん……!」

 半神型の黒山羊族の女性は、微笑んで首を傾げてみせる。それだけの仕草が、艶っぽかった。
 通った鼻筋、頬に影が落ちるほど、長い睫毛。
 瞬きを忘れるほど見つめた。
 違うとは、すぐわかった。綺麗というよりは愛嬌があった、笑顔の明るい兄嫁とは、趣の違う顔立ちだ。
 それでも、若い同族の女性というだけなのに、苦しいほど慕わしかった。
 彼女に静かに見つめ返されているのに気がついて、ようやく言った。

「……すみません、ひと違いっす」
「好きなひと?」
「……懐かしい、ひと」
「嫌な思い出のひとじゃないなら、わたし、お隣、いいかしら?」

 ユールが言葉に詰まったところに、ルミエールが「もちろん!」と横から答えた。
 彼女は、アイラと名乗った。

「お飲み物、どうされます?」

 差し出されたメニューを、なんとなくめくる。ルミエールが覗き込んできたので渡した。

「ユールと飲むの初めてだね! どんなのが好き?」
「……果物のやつ」
「いいねえ、甘いの僕も好き! このへんどう?」

 ユールが黙って指さす先を見て、アイラは身に纏うシルクのドレスのように滑らかな声で言った。

「すもも酒、美味しいですよね。わたしも同じの、貰っていい?」
「……うん」

 ユールはこんな場所は初めてで、特に何を話せるわけでもなく、ルミエールともう一人テーブルについた蛍のホステスのお喋りに耳を傾けるばかりだった。
 アイラは初心な彼の様子に心得たのか、時折控えめに話題を振りつつも、静かに横について、甘い酒を注いでくれた。
 懐かしいすももの香りと、すぐそばの温かい気配に、ユールの中で張り詰めていたものが、溶けていった。

「あれ、ユール?」

 ルミエールが呼ぶのに、アイラはふっくらした口元に指を一本立ててみせた。
 黒山羊の少年は、彼女の肩に頭を預けて、すうすう寝息をたてていた。
 ルミエールは声を潜めて頼んだ。

「……この子さ、すっごくがんばってるから、疲れてるんだ。預けちゃっていい?」

 アイラは嫣然と微笑んで答えた。

「いいわよ」




 温めたミルクのような、優しい匂いがする。
 小さかったころ、近所の子供と喧嘩して、勝ちはしたが嫌な気分で、夕飯を作る母親のスカートに顔を埋めたことを、思い出していた。
 ふわふわ柔らかいものに、甘えるように顔を擦り付ける。
 角の根元を、そっと撫でられた。
 痛くなくて、安心した。
 ひどい頭痛で、毎朝、本当にきつかったんだと訴えると、そうなの、と穏やかな相槌が返ってきた。

 角。
 そうだ、角が生えるくらい、自分はもう大きい。

 ユールは、はっと微睡から抜け出した。
 彼を見つめていた同族の女性と、目があった。
 自分が枕にしていたのが、薄い寝巻き一枚の彼女の胸元だと気がついて、飛び退いた。

「え、うわっ」

 自分はといえば上半身裸で、慌てふためいた。
 アイラは朝の光の中で、眩しげに目を細めている。

「おはよう、ユールくん」
「すみません!」
「ふふふ。謝らないで」
「……えっ、ちょっと……まじで?」

 鼻を押さえる少年に、アイラが顔を寄せた。こつんと額に額をぶつける。

「からかってごめんなさい。添い寝しただけよ。あなた、とってもかわいかったんだもの」

 鼻の周りどころか顔じゅう火が出そうに真っ赤になっている彼の角の間を、もう一度、撫でてくれた。

 朝食まで食べさせてもらって、しどろもどろで礼を言って、ユールは彼女の部屋を出た。
 頬をつねって歩いていると、青筋揚羽がどこからか飛んできた。

「いい夢見れた?」
「何置いてってんだよ! 俺飲むだけって言ったじゃん!」
「そうだよ、僕、飲ませただけだよーだ!」
「てめえ、蝶じゃなきゃブン殴ってるよ!」
「えっへっへ、ユール、やっさしい!」

 照れ隠しに怒って、跳ねる早足になるユールの後ろ姿に、ルミエールはしんみりと呟いた。

「ユール、きみってまだ、全然、子供なんだねえ……」

 秋の風の冷たさは、蝶の彼には、もう辛かった。




 その日の対戦相手は、蜥蜴族だった。
 ユールは特に苦戦することもなく下した、つもりだった。傷といえば、最後に足首に噛みつかれて、ぷつりぷつりと並んで二つ、ちいさな穴が開いただけだった。
 リングを降りて、部屋に戻ろうとして、廊下の途中から脚がもつれはじめた。ベッドに転がれば、もう起きられなかった。

「ユール、ユール! くそ、毒持ちだったんだあいつ……!」

 ルミエールの声が遠かった。何か草のようなものを口に押し込まれたが、噛めない。

「ユール、がんばってよ」

 身体中痺れて、不規則に痙攣していた。 
 口から涎が垂れるのすら、止められない。
 切れかけの魔灯のように、視界が明滅した。

 どれくらい時間がたっただろうか。

「ああ、だめかあ……」

 ルミエールの呟きに、妙に素直に、だめなのかもなあ、と思った。

 痺れた舌で呼んだ。視界が暗くて見えなかったが、彼は近くにいた。翅が淀んだ空気をあおぐ、微かな揺れすら皮膚にビリビリした。
 なんとか、口に出した。

――金、全部、やるよ。

 ずいぶん世話になったのに、こんなものしか残せないんだなと、思った。





 しかし、ユールは再び目覚めた。
 数日経っていたが、自力で回復していた。

「よーう、丈夫だねえお前!」

 見たくもない鼬のニヤニヤ顔が間近にあった。後ろに、怯えた様子の小灰(しじみ)蝶の虫人を従えていた。

「ところで新しい付き人だ。お前がねんねしてる間に、揚羽が逃げやがった。金まるまる預けてたらしいな、山羊のくせに馬鹿だねえ」

 寂しい気がしたが、構わなかった。
 ルミエールが、ひらひら自由に飛んで行ったならそれでいい。
 その金で、洒落た服を着て、かわいい女の子を口説いて、楽しく生きてくれるなら。

「金なら、やったんだよ」
「ん? そーいや、揚羽も言ったらしいけどなあ。そんな話通ると思ったか?」

 頭が、冷水を浴びせられたように一気に覚めた。

「自業自得だから金は返してやらねえが、勝手したケジメはつけさせたからな」
「……なに、しやがった」
「うん、お前にやるよ。仲良しみたいだったからな。売りゃそれなりに金になるよ?」

 クラインが顎をしゃくる。
 小灰蝶が、大きいが薄い木の箱を、ヨロヨロと引きずって運んできて、ベッドで半身を起こしていたユールの膝に置いた。

 上蓋がガラスの、標本箱だった。

 濃紫のビロード張りの土台に、青筋揚羽の四枚の翅だけが、ピン留めされていた。





 手が震えた。叫んでいた。

「なんで、こんなことできんだよ!」

 クラインは言い放つ。

「命より大事なのが金。で、金より大事なのが面子」

 ユールの腹の底から、真っ黒なものが湧いてくる。
 なんでこんな単純なことが、これまでできなかったのか。
 本当に蹴っ飛ばさなければいけないのは、リングの上の対戦相手ではない。

 

 しかし、怒気とともに噴き出す魔力にも、クラインは顔色を変えなかった。
 カツンと音をたてて、床をステッキで突いた。

「そーいや、鹿の角ってのも、飾りにゃ人気なんだぜ?」

 さらに、続けた。

「あと、そうだ。ラーニャだっけ?」

 ぞっとした。なぜその名が、この忌まわしい男の口から出るのか、信じられなかった。
 クラインの目は笑わない。ぽっかり空いた落とし穴のような、真っ暗闇の色だ。

「なあ、。知れば知るほど、お前の身の上って泣けちまうよ。親分としちゃ本当、力になってやりてえなあ。義理の姉ちゃんもさあ、赤ん坊抱えて苦労してんだろう。女は若えうちが華だ、稼げる仕事紹介してやってもいい」

 聞きたくない、やめろと叫びたい。
 なのに、なぜか短く息をつくのが精一杯で、言葉が出てこない。

「風呂に沈めりゃ好きにできんぜ? 死んだ兄貴の嫁とか、中々味があんじゃねえか、ん? 傷舐め合って、種違いのガキでも仕込んでやりゃあいい」

 首を絞められるようだった。それでも激しい怒りが勝って、とうとう声を絞り出す。

「あの人たちに、手え出すな……!」
「なあ、口の利き方、そろそろ覚えろよ」

 ステッキの柄が、ゆっくりと喉に押し付けられた。
 クラインの後ろに、蜘蛛の巣が伸びている。ねばねばと広がって、ユールの大切な人たちを、絡めとろうとしている。
 ルミエールが喰われて、その次は。

「お願いするときは、何て言うんだ?」

 ぐっとステッキが押しつけられる。
 折られたのは喉の骨ではなく、ユールを支えていた意地だった。

 頭を踏みつけにされるような屈辱の中で、服従の言葉を、口にした。





 飼い犬の芸を褒めるように、クラインは朗らかに言った。

「よーしよし! かわいい子分のお願いなら、堅気のみなさんはそっとしておいてやろう。俺らは一生、仲良くやろうじゃねえか、なあ」
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