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37.メビウスの悪夢② ※
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澱んだ闇の中、魔灯のスポットライトによって、リングがしらじらと浮かび上がる。
二度と戻らないと思っていた場所に、ユールは立っていた。
摘発と調査ののち、封鎖されたはずの地下空間。地上に通じる出入り口は複数あり、構造も蟻の巣のように入り組んでいて、ここに住み着いていたときすら、全てを把握はできていなかった。
だから、潰しきれなかったのか。これでは、治ったと思った病が、再びひどくなってようやくその根深さに気がつくようなものだ。
今晩は、観客はいない。コールもない。
ひどく静かだ。どこかで、水が滴るような音がするばかりだった。
「待ってたぜ」
闇から現れるのは、虎族のタレスだ。そして、ひとり、またひとり。ユールは目と耳で確認する。この空間にいる相手は、全部で八人。
「感心感心、ひとりで来たな」
天井から下がるのは蝙蝠族だった。
「まあ、誰か連れてくるようなら開けてやらなかったけど」
ユールは鼻で笑った。
「てめえら、ガキの頃の俺にすら負けただろうがよ。ひとりで充分すぎらあ」
肉食獣たちが唸る。獣として生態系の上位にある彼らに威嚇されても、恐怖は感じなかった。
腹の中は煮えたっている。一方で、頭はひどく冷えていて、嘲りの言葉がするすると口から出てきた。
久しぶりの感覚だった。最近は、魔物に対してすら、ここまでの怒りは感じなくなっていた。
だが、城壁の中にも、魔物に等しく醜悪な敵がいる。
今にも牙を剥きそうな獣たちを、ユールの記憶にはない、新参らしい蝙蝠が片翼を広げて制した。
「黒山羊ユール。ボスからの伝言だ。『樹花族の女、手土産ってことでいいなら歓迎するよ』だとさ」
「ざけんじゃねえ! あの子、どこにやった!」
ユールが吠えると、ハイエナのシェイドが片目をすがめた。
「ほらな、ミュート。そんな交渉、聞くやつじゃねえわけよ。俺らだって草食野郎なんざ勘弁だ」
「すっかり正義の味方ぶってよ。ああ、違えか、もっと簡単だな。女取り上げられてキレてるだけだ」
「頭にお花の咲いた女の子、草食からすりゃ、食ってもヤっても美味えってわけだ。お似合いじゃねえか」
お互い様の挑発だ、わかっている。だが。
「あの女なら、今頃、ボスが味見してるところだ。気色悪い色してたが、ボスは希少種抱くのが趣味だからな」
抑えきれず、ユールの蹄がリングを踏み鳴らした。砕けそうなほど奥歯を噛み締める。角に魔力の稲妻が巻く。しかし、次の瞬間、バツッと破裂音がした。
片耳の付け根が深く裂けて、血が滴った。
「ああ、そうだ! せっかくの技だが、ここは魔力禁止でなあ! 大体拳闘ってなあ、てめえの拳で戦うもんだ!」
真っ先にリングに上がってきたシェイドがせせら笑った。
「兄貴、約束どおり、俺にやらせてもらうぜ。こいつにゃ二度、デビュー戦の邪魔されて……」
だが、彼が言い終わることはない。
その目には、片耳のちぎれかけた黒山羊が、消えたように見えた。
一呼吸のうちに距離を詰めた山羊の蹄が、下顎を蹴り上げる。がちんと強制的に閉じられた口に、舌が挟まった。
浮いた身体を、二撃目が襲う。
リングから蹴り落とされたシェイドの目は、黒目が上に回っていた。
「……三度目。お前、向いてねえんだよ」
ユールは吐き捨てて、準備運動は済んだとばかりに、首を鳴らす。
魔力を乗せる土台は、肉体そのものと、攻撃の動作だ。魔力を使えなくても、傭兵としての訓練と、魔物相手の実戦で鍛えたものが、そうそう遅れをとるものか。
リングには赤黒い色の陣が浮き出している。抑え込まれて内に向かった魔力が切り裂いたユールの腿を伝い落ちる血を吸って、禍々しく明滅する。
趣味の悪い舞台だった。
だが、丁度いいハンデだ。今の感情のままの魔力が叩き込まれていれば、シェイドの顔面はなかっただろう。
気持ちとしては殺してやりたいが、それでも、ひと殺しになるのは勘弁だ。リファリールは乱暴が嫌いなのだ。
「山羊に負けるなんざ肉食の恥、だっけ? これじゃあさあ、てめえら、魔力のせいにすらできねえわけだ」
ユールは挑発をやめない。もっと怒って、なんなら、全員まとめて上がって来ればいい。力の限り暴れ回って、このどん底に潜む悪意を全て、この場に引き摺り出してやる。
ぎらぎらと敵意に満ちた目を睨み返して、啖呵を切った。
「一生笑われる覚悟で来いよ、クズどもが!」
頭が、痛い。
内側から金属の櫛でひっかかれる、不快な軋みが思考を乱す。
息苦しい。なにかが、喉に巻きついている。手をやれば、硬い帯状のものと金具が触れた。
リファリールは焦っていた。悪いことが起きている。こんなところで寝ていては、いけない。
『リファちゃん』
記憶の奥底から呼び出される声。一筋垂らされた糸を手繰り、暗闇を振り切って浮上する。
目を開ければ、彼の姿があった。
「ユールさん……!」
ここは、今朝、ユールを探して虚しくシーツを探った、いつものベッドだ。
『リファちゃん、ただいま。遅くなってごめん』
混乱から抜け出せないまま、助けを求めた。
「ユールさん、大変なの……! オフィーリアさんが」
『ん……なんか、怖い夢でも見た?』
リファリールの訴えを、彼はなんでもないようにかわす。ベッドに上がってきて、リファリールの顔の両側に手をつく。
『俺、帰ってきたからさ。もう大丈夫』
彼はリファリールの首に触れる。そこにあるのは、黒革の首輪だ。
「なに、これ……」
『プレゼント。リファちゃんの花とおんなじだよ。俺のこと、もっと好きになる呪いだ』
彼は、蜂蜜色の目を、欠けた月のように弧にして笑った。
リファリールの背を、悪寒が這い上る。
――ユールさんじゃ、ない。
そう確信すれば、幻惑は綻びはじめた。
ユールの皮をかぶったナニカの、釣り上がった口の端から、彼にはあるはずのない牙が覗いた。
「嫌っ!」
身を捩り、ベッドから転げ落ちて逃げる。
その首を背後から捉えたのは、鉤型の黒いステッキの持ち手だった。
「くっくっく! ばれちまったか。他愛ねえ、惚れた男と見りゃメスの顔して媚びやがって、かわいいもんだったのになあ?」
シャツの襟を緩めたメビウスは、ずっと目をつけていた獲物を手の内にして上機嫌だった。
「せっかくのベッドより床がいいたあ、結構な趣味だ」
リファリールの首からステッキを外すと、命じた。
『這え。舐めろ』
「……っ!?」
リファリールは、見えない手に張り倒されたように、床に這った。突き出された革靴の先に、口が開いて舌が出そうになるのに、なんとか抗って唇を結んだ。
「ちょいと効きが悪いね」
背を押さえる力はそのままだったが、口だけは自由にされた。
「あなた、お祭りの、ときの」
「そう、黒貂のメビウスだ。覚えてくれていたとは光栄だね」
「オフィーリアさんは、どこ!」
「この状況でひとの心配たあ、ちょうちょのマダムも泣いて喜ぶだろうよ」
「答えて」
「まだそういう口のききかたするわけだ。だいぶこねくりまわしたんだが、割に精神強度が高い」
靴先に顎を上げさせられる。
屈辱だった。衣服こそ乱れていなかったが、身体を内から触られたような不快な感触が残っている。意識を失っていた間に、精神と記憶を探られていた。
「なあ、樹花族のお嬢さん。あんた中々、上手くやってる。俺も道具頼りだが似たような技使うんでね。感心するよ」
メビウスは葉巻をくわえると、マッチを擦った。リファリールの顔に怯えを見て、くつくつと喉をならす。樹花族がなにより火を怖がるのをわかっていての行動だった。
「虫人どもにぺこぺこさせて、祭りじゃ王族と並んでお姫様扱い。お気に入りの黒山羊の兄ちゃん、甘ったるい蜜でたらしこんで、身の回り守らせて、精気吸って……魅了で他種族操って食い荒らす、あんたのやってることは、まるっきり淫魔だぜ?」
「違う……!」
「うん?」
「花だけの、せいじゃない……!」
リファリールは折れそうな心を必死で支える。ここで引いたら、支配される。
「……花だけじゃないって、わたしのことちゃんと見て、好きになったんだって……ユールさんは、言ってくれたもの……!」
そして、ユールだけではない。リファリールがこの街で出会って、心を通わせたひとたち。たとえ花の魅了がきっかけであったとしても、全てが操られた結果だなんて、思わない。彼らは、リファリールの知らなかった思いを、生き方を教えてくれた。ひとの心は、そんなに簡単なものではない。
メビウスの笑みが歪んだ。
「これはこれは! てめえの蜜で頭の中までお花畑だねえ」
火のついた葉巻が顔に近づいてくる。リファリールは口から漏れそうな悲鳴を押し殺した。
「だがな、お嬢さん。そうむきに否定しなくても、俺は淫乱な化け物のあんたが気に入ってんだ。なにしろ、髪から爪まで金を産む。心臓代わりの核種を喰えば、不老不死なんて噂まで聞いたぜ?」
メビウスは凍りついたリファリールに、品物としての彼女の価値を吹き込んでいく。
「さて、花はちぎっても咲くらしい。髪もまあ、いけそうだ。その羊耳と角はどうなんだ? 元が樹だってんなら、手足もいでもまた生えんのかねえ? 再生すんなら、丸ごと売るより、飼って切り売りしてえところだ。ちょいと目立たねえところ……足の指でも、もいで試そうか?」
首輪から、イメージが叩き込まれる。千切られて、売られる自分の姿。
葉巻の火が、鼻先を掠めるほどに近づいたとき、リファリールはとうとう叫んでいた。
「やだっ! ユールさん、助けて……!」
メビウスが、葉巻を引っ込めた。ふーっと一息吸って、這ったまま目を見開いて浅く息をつくリファリールのこめかみを、ステッキの先で小突いた。彼女の口から、その名が出るのを待っていたのだ。子が母を求めるように、最も頼りにするものを呼んだそのとき。その心を、へし折ってやるために。
「男に会いたいなら、そこだ」
メビウスが壁を指すと、布が取り払われるように、透けた。
目に赤いものが飛び込んできた。
四角く金属線で区切られた、舞台。
何人か、倒れている。あるものは床に臥して、あるものは、金属線にひっかかるように。
舞台には、赤黒く明滅する陣が敷かれていた。
視界が開かれたと同時に、音がなだれ込んできた。唸り声、激しい、重い音。
舞台の上に、獣が組み合っている。一見、虎と狼が争っているようで、さらにその下に垣間見えたのは。
「ここは上客専用の観覧席でね。あっちからこっちは、聞こえないし見えない。……こりゃ、決着ついちまってんなあ」
リファリールは、目の前の光景を疑う。
こんなのは、嘘だ。この男が見せる、悪い夢だ。
黒い毛皮に覆われた、爪先が蹄になっている、脚。軽やかに駆ける、空を舞うように跳ねる、ユールの脚。
虎が、仰向けに地に押さえつけられた彼の膝に乗って、足首を掴んでいる。曲がってはいけない方向に、木の枝を折り取るように、蝶の翅をもぐように、無慈悲に、躊躇いなく力がかけられていく。
「やめて!」
リファリールの願いは届かない。耳をつんざく苦悶の絶叫に、そこで起きていることが現実だと思い知らされた。
「ステッキ、新調しようと思ってさあ。山羊肉なんざ臭くて食えたもんじゃないが、あの黒角はいい持ち手になりそうだろ?」
メビウスは、わざとらしく手を打った。
「そうだ、いいことを思いついた。あんた、繁殖させてやる。祭りで人気者になったからなあ、いくらでも客がつくぜ。大丈夫、今度は新しいステッキで、あんたに触れる男はみんな、あの兄ちゃんに見えるようにしてやるよ。なあに、覚めねえ夢は現実と一緒、信じるものは救われる! 好きな男に種付けてもらって、いくらでもガキ産みゃあいい。育てる心配なんかいらねえさ、俺が片っ端から捌いてやるよ。いい話だろう?」
リファリールが震えているのは、恐怖のためではなかった。
それ以外の全ての感情を退けて、混じり気なく、怒っていた。
リファリールの羊の巻角に沿って、魔力が渦巻きはじめる。今はない花の結節に、光の球が現れる。
魔力の放出に反応して、黒革の首輪が喉を圧迫し始めた。
「……く……!」
「やめたがいいぜ、お嬢さん。そーいう態度は、文字通り自分の首、絞めちまう」
それでも、リファリールはやめなかった。
リファリールの唯一の武器。
花を咲かせて、蜜を撒いて、この男の支配を逃れて。
早く、ユールを、助けなくては。
やがて、顔色をなくし、きつく首輪が食い込んだ喉をさらしたリファリールの身体を、メビウスは靴先で蹴った。
「ったく、きかねえ女だねえ。……おや、殺しちまったかな?」
二度と戻らないと思っていた場所に、ユールは立っていた。
摘発と調査ののち、封鎖されたはずの地下空間。地上に通じる出入り口は複数あり、構造も蟻の巣のように入り組んでいて、ここに住み着いていたときすら、全てを把握はできていなかった。
だから、潰しきれなかったのか。これでは、治ったと思った病が、再びひどくなってようやくその根深さに気がつくようなものだ。
今晩は、観客はいない。コールもない。
ひどく静かだ。どこかで、水が滴るような音がするばかりだった。
「待ってたぜ」
闇から現れるのは、虎族のタレスだ。そして、ひとり、またひとり。ユールは目と耳で確認する。この空間にいる相手は、全部で八人。
「感心感心、ひとりで来たな」
天井から下がるのは蝙蝠族だった。
「まあ、誰か連れてくるようなら開けてやらなかったけど」
ユールは鼻で笑った。
「てめえら、ガキの頃の俺にすら負けただろうがよ。ひとりで充分すぎらあ」
肉食獣たちが唸る。獣として生態系の上位にある彼らに威嚇されても、恐怖は感じなかった。
腹の中は煮えたっている。一方で、頭はひどく冷えていて、嘲りの言葉がするすると口から出てきた。
久しぶりの感覚だった。最近は、魔物に対してすら、ここまでの怒りは感じなくなっていた。
だが、城壁の中にも、魔物に等しく醜悪な敵がいる。
今にも牙を剥きそうな獣たちを、ユールの記憶にはない、新参らしい蝙蝠が片翼を広げて制した。
「黒山羊ユール。ボスからの伝言だ。『樹花族の女、手土産ってことでいいなら歓迎するよ』だとさ」
「ざけんじゃねえ! あの子、どこにやった!」
ユールが吠えると、ハイエナのシェイドが片目をすがめた。
「ほらな、ミュート。そんな交渉、聞くやつじゃねえわけよ。俺らだって草食野郎なんざ勘弁だ」
「すっかり正義の味方ぶってよ。ああ、違えか、もっと簡単だな。女取り上げられてキレてるだけだ」
「頭にお花の咲いた女の子、草食からすりゃ、食ってもヤっても美味えってわけだ。お似合いじゃねえか」
お互い様の挑発だ、わかっている。だが。
「あの女なら、今頃、ボスが味見してるところだ。気色悪い色してたが、ボスは希少種抱くのが趣味だからな」
抑えきれず、ユールの蹄がリングを踏み鳴らした。砕けそうなほど奥歯を噛み締める。角に魔力の稲妻が巻く。しかし、次の瞬間、バツッと破裂音がした。
片耳の付け根が深く裂けて、血が滴った。
「ああ、そうだ! せっかくの技だが、ここは魔力禁止でなあ! 大体拳闘ってなあ、てめえの拳で戦うもんだ!」
真っ先にリングに上がってきたシェイドがせせら笑った。
「兄貴、約束どおり、俺にやらせてもらうぜ。こいつにゃ二度、デビュー戦の邪魔されて……」
だが、彼が言い終わることはない。
その目には、片耳のちぎれかけた黒山羊が、消えたように見えた。
一呼吸のうちに距離を詰めた山羊の蹄が、下顎を蹴り上げる。がちんと強制的に閉じられた口に、舌が挟まった。
浮いた身体を、二撃目が襲う。
リングから蹴り落とされたシェイドの目は、黒目が上に回っていた。
「……三度目。お前、向いてねえんだよ」
ユールは吐き捨てて、準備運動は済んだとばかりに、首を鳴らす。
魔力を乗せる土台は、肉体そのものと、攻撃の動作だ。魔力を使えなくても、傭兵としての訓練と、魔物相手の実戦で鍛えたものが、そうそう遅れをとるものか。
リングには赤黒い色の陣が浮き出している。抑え込まれて内に向かった魔力が切り裂いたユールの腿を伝い落ちる血を吸って、禍々しく明滅する。
趣味の悪い舞台だった。
だが、丁度いいハンデだ。今の感情のままの魔力が叩き込まれていれば、シェイドの顔面はなかっただろう。
気持ちとしては殺してやりたいが、それでも、ひと殺しになるのは勘弁だ。リファリールは乱暴が嫌いなのだ。
「山羊に負けるなんざ肉食の恥、だっけ? これじゃあさあ、てめえら、魔力のせいにすらできねえわけだ」
ユールは挑発をやめない。もっと怒って、なんなら、全員まとめて上がって来ればいい。力の限り暴れ回って、このどん底に潜む悪意を全て、この場に引き摺り出してやる。
ぎらぎらと敵意に満ちた目を睨み返して、啖呵を切った。
「一生笑われる覚悟で来いよ、クズどもが!」
頭が、痛い。
内側から金属の櫛でひっかかれる、不快な軋みが思考を乱す。
息苦しい。なにかが、喉に巻きついている。手をやれば、硬い帯状のものと金具が触れた。
リファリールは焦っていた。悪いことが起きている。こんなところで寝ていては、いけない。
『リファちゃん』
記憶の奥底から呼び出される声。一筋垂らされた糸を手繰り、暗闇を振り切って浮上する。
目を開ければ、彼の姿があった。
「ユールさん……!」
ここは、今朝、ユールを探して虚しくシーツを探った、いつものベッドだ。
『リファちゃん、ただいま。遅くなってごめん』
混乱から抜け出せないまま、助けを求めた。
「ユールさん、大変なの……! オフィーリアさんが」
『ん……なんか、怖い夢でも見た?』
リファリールの訴えを、彼はなんでもないようにかわす。ベッドに上がってきて、リファリールの顔の両側に手をつく。
『俺、帰ってきたからさ。もう大丈夫』
彼はリファリールの首に触れる。そこにあるのは、黒革の首輪だ。
「なに、これ……」
『プレゼント。リファちゃんの花とおんなじだよ。俺のこと、もっと好きになる呪いだ』
彼は、蜂蜜色の目を、欠けた月のように弧にして笑った。
リファリールの背を、悪寒が這い上る。
――ユールさんじゃ、ない。
そう確信すれば、幻惑は綻びはじめた。
ユールの皮をかぶったナニカの、釣り上がった口の端から、彼にはあるはずのない牙が覗いた。
「嫌っ!」
身を捩り、ベッドから転げ落ちて逃げる。
その首を背後から捉えたのは、鉤型の黒いステッキの持ち手だった。
「くっくっく! ばれちまったか。他愛ねえ、惚れた男と見りゃメスの顔して媚びやがって、かわいいもんだったのになあ?」
シャツの襟を緩めたメビウスは、ずっと目をつけていた獲物を手の内にして上機嫌だった。
「せっかくのベッドより床がいいたあ、結構な趣味だ」
リファリールの首からステッキを外すと、命じた。
『這え。舐めろ』
「……っ!?」
リファリールは、見えない手に張り倒されたように、床に這った。突き出された革靴の先に、口が開いて舌が出そうになるのに、なんとか抗って唇を結んだ。
「ちょいと効きが悪いね」
背を押さえる力はそのままだったが、口だけは自由にされた。
「あなた、お祭りの、ときの」
「そう、黒貂のメビウスだ。覚えてくれていたとは光栄だね」
「オフィーリアさんは、どこ!」
「この状況でひとの心配たあ、ちょうちょのマダムも泣いて喜ぶだろうよ」
「答えて」
「まだそういう口のききかたするわけだ。だいぶこねくりまわしたんだが、割に精神強度が高い」
靴先に顎を上げさせられる。
屈辱だった。衣服こそ乱れていなかったが、身体を内から触られたような不快な感触が残っている。意識を失っていた間に、精神と記憶を探られていた。
「なあ、樹花族のお嬢さん。あんた中々、上手くやってる。俺も道具頼りだが似たような技使うんでね。感心するよ」
メビウスは葉巻をくわえると、マッチを擦った。リファリールの顔に怯えを見て、くつくつと喉をならす。樹花族がなにより火を怖がるのをわかっていての行動だった。
「虫人どもにぺこぺこさせて、祭りじゃ王族と並んでお姫様扱い。お気に入りの黒山羊の兄ちゃん、甘ったるい蜜でたらしこんで、身の回り守らせて、精気吸って……魅了で他種族操って食い荒らす、あんたのやってることは、まるっきり淫魔だぜ?」
「違う……!」
「うん?」
「花だけの、せいじゃない……!」
リファリールは折れそうな心を必死で支える。ここで引いたら、支配される。
「……花だけじゃないって、わたしのことちゃんと見て、好きになったんだって……ユールさんは、言ってくれたもの……!」
そして、ユールだけではない。リファリールがこの街で出会って、心を通わせたひとたち。たとえ花の魅了がきっかけであったとしても、全てが操られた結果だなんて、思わない。彼らは、リファリールの知らなかった思いを、生き方を教えてくれた。ひとの心は、そんなに簡単なものではない。
メビウスの笑みが歪んだ。
「これはこれは! てめえの蜜で頭の中までお花畑だねえ」
火のついた葉巻が顔に近づいてくる。リファリールは口から漏れそうな悲鳴を押し殺した。
「だがな、お嬢さん。そうむきに否定しなくても、俺は淫乱な化け物のあんたが気に入ってんだ。なにしろ、髪から爪まで金を産む。心臓代わりの核種を喰えば、不老不死なんて噂まで聞いたぜ?」
メビウスは凍りついたリファリールに、品物としての彼女の価値を吹き込んでいく。
「さて、花はちぎっても咲くらしい。髪もまあ、いけそうだ。その羊耳と角はどうなんだ? 元が樹だってんなら、手足もいでもまた生えんのかねえ? 再生すんなら、丸ごと売るより、飼って切り売りしてえところだ。ちょいと目立たねえところ……足の指でも、もいで試そうか?」
首輪から、イメージが叩き込まれる。千切られて、売られる自分の姿。
葉巻の火が、鼻先を掠めるほどに近づいたとき、リファリールはとうとう叫んでいた。
「やだっ! ユールさん、助けて……!」
メビウスが、葉巻を引っ込めた。ふーっと一息吸って、這ったまま目を見開いて浅く息をつくリファリールのこめかみを、ステッキの先で小突いた。彼女の口から、その名が出るのを待っていたのだ。子が母を求めるように、最も頼りにするものを呼んだそのとき。その心を、へし折ってやるために。
「男に会いたいなら、そこだ」
メビウスが壁を指すと、布が取り払われるように、透けた。
目に赤いものが飛び込んできた。
四角く金属線で区切られた、舞台。
何人か、倒れている。あるものは床に臥して、あるものは、金属線にひっかかるように。
舞台には、赤黒く明滅する陣が敷かれていた。
視界が開かれたと同時に、音がなだれ込んできた。唸り声、激しい、重い音。
舞台の上に、獣が組み合っている。一見、虎と狼が争っているようで、さらにその下に垣間見えたのは。
「ここは上客専用の観覧席でね。あっちからこっちは、聞こえないし見えない。……こりゃ、決着ついちまってんなあ」
リファリールは、目の前の光景を疑う。
こんなのは、嘘だ。この男が見せる、悪い夢だ。
黒い毛皮に覆われた、爪先が蹄になっている、脚。軽やかに駆ける、空を舞うように跳ねる、ユールの脚。
虎が、仰向けに地に押さえつけられた彼の膝に乗って、足首を掴んでいる。曲がってはいけない方向に、木の枝を折り取るように、蝶の翅をもぐように、無慈悲に、躊躇いなく力がかけられていく。
「やめて!」
リファリールの願いは届かない。耳をつんざく苦悶の絶叫に、そこで起きていることが現実だと思い知らされた。
「ステッキ、新調しようと思ってさあ。山羊肉なんざ臭くて食えたもんじゃないが、あの黒角はいい持ち手になりそうだろ?」
メビウスは、わざとらしく手を打った。
「そうだ、いいことを思いついた。あんた、繁殖させてやる。祭りで人気者になったからなあ、いくらでも客がつくぜ。大丈夫、今度は新しいステッキで、あんたに触れる男はみんな、あの兄ちゃんに見えるようにしてやるよ。なあに、覚めねえ夢は現実と一緒、信じるものは救われる! 好きな男に種付けてもらって、いくらでもガキ産みゃあいい。育てる心配なんかいらねえさ、俺が片っ端から捌いてやるよ。いい話だろう?」
リファリールが震えているのは、恐怖のためではなかった。
それ以外の全ての感情を退けて、混じり気なく、怒っていた。
リファリールの羊の巻角に沿って、魔力が渦巻きはじめる。今はない花の結節に、光の球が現れる。
魔力の放出に反応して、黒革の首輪が喉を圧迫し始めた。
「……く……!」
「やめたがいいぜ、お嬢さん。そーいう態度は、文字通り自分の首、絞めちまう」
それでも、リファリールはやめなかった。
リファリールの唯一の武器。
花を咲かせて、蜜を撒いて、この男の支配を逃れて。
早く、ユールを、助けなくては。
やがて、顔色をなくし、きつく首輪が食い込んだ喉をさらしたリファリールの身体を、メビウスは靴先で蹴った。
「ったく、きかねえ女だねえ。……おや、殺しちまったかな?」
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