黒山羊と花の乙女

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36.メビウスの悪夢① ※

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 オフィーリアは、翅をだらりと冷たい床に広げていた。
 カツン、カツン。
 硬い靴音がまるで頭を蹴り飛ばすように、暴力的に響く。

「おやマダム、なんてざまだ」

 妙に明るい声が、降ってくる。

「ミュート、ちいときつく当てすぎじゃねえか? 大事な卵抱いた身体で、気の毒ったらねえよ。……あれ、吸わせてやれ」

 口元に柔らかいものが押し当てられる。甘い、優しい香りに誘われるまま、口吻を伸ばして、蜜を吸った。

 意識がはっきりしはじめた途端、身体が慄いた。
 白い八重咲きの花は、半ば握りつぶされて、鉤爪のついた獣の手の中にあった。

「リファ、リール、さま」

 震える腕を花に伸ばす。しかし、目の前で獣の手は引っ込み、錠がかけられた。意識を失う前に見た、蝙蝠族の男だった。

 金網の向こうには、もう一人、黒服の貂がいる。
 オフィーリアは声を振り絞った。

「リファリール様は、どこ!」
「ああ、心配いらねえよ。あれは最高級品だ。一番いい部屋に入れてある。もちろん、あんたのことも歓迎してるつもりだよ? とっときの樹花族の蜜吸わせてやるくらい。状態がいい方が値が上がるからさあ」

 黒貂メビウスはソファに腰掛けて、黒いステッキの柄に、両手と顎を乗せた。

「なーあ、マダム。ちょうちょってのは、何が一番高く売れるか知ってるかい」

 メビウスは、低い虫籠の中の黒揚羽を睨め付けた。

「わかりやすいのは大型種の雄の翅だ。ありゃ他種の目から見ても綺麗なもんだね。需要って意味なら一番多い。柄は派手なほどいい。丸ごと標本はエグいって敬遠する客には、翅だけのアートも人気だ。俺も扱ったことあるよ、何十頭分も翅を使って、額の中に花束みたいに飾ってさあ……先のオークションじゃ、なかなか盛り上がったもんさ」

 オフィーリアにはおぞましいばかりの話を、得意げに語る。

「だが、一番高えのは、あんたみたいに卵で腹膨らませた雌の生体なんだよ。欲しがる客は限られてるが、売値はそれこそ桁違い」

 オフィーリアは服を剥がれていた。恥辱を与えるためだけではなかった。孕んでいるのがわかりやすいようにするためだ。
 オフィーリアは理解し始めていた。
 この男は、ひとを商うのだ。

「ご招待したのはそういうわけだ、黒揚羽のマダム・オフィーリア。俺にゃわからんが、虫の中じゃ美人で通ってるらしいねえ。孕んだあんたが手に入るなら、どんだけでも金積むってお得意様が、ひとりふたりじゃねえんだよ」
「そんなこと、許されるわけが……!」

 腕で身体を支えて、オフィーリアは黒貂を睨む。

「へーえ、なかなかいい目だ。自前で店構えてるだけあるね。俺は気の強い女は好きだよ」

 メビウスは顎を上げると、ステッキを持ち直した。

「鼻っ柱へし折ってやるのが、楽しいからさあ。ま、ちょうちょに鼻なんてあんのか知らねえが」

 ステッキが虫籠の天井を打ったとたん、オフィーリアの視界が歪んだ。





 闇の中に、無数の標本箱が吊られている。
 虫籠に閉じ込められた商品オフィーリアを、魔灯が照らし出す。

 オークショニアは黒貂メビウス。
 気取ってハットをとり、しなやかな身体をくねらせて一礼すると、ステッキを回した。

『さて次なるお品は、皆さまご存知、黒揚羽のマダム・オフィーリア! 熱いご要望にお応えしての入荷でございます。代替わりを控えてご覧の通り、卵入り! 金貨十枚からで参りましょう!』

 十五、二十。三十。
 四十五、五十。
 百!

 オフィーリアの値付けが釣り上がっていく。目の前の標本箱に入っているのは、青筋揚羽の翅だ。

――ルミエール。

 ひととき、オフィーリアを慕ってくれた、軽薄なまでに明るい青年。地下の組織で働かされていた彼は、摘発のときに助け出された小灰蝶が言うには、逃げようとして捕まり、翅をむしられて殺されたという。その身体は見つからなかった。ルミエールを使っていたという、黒山羊のものになったとも、聞いたけれど。

――あなた、こうして売られたの……!

 声にならない。動けない。
 
 百五十と言ったのは蟷螂だ。三角の頭を90度回して、抱くものをずたずたに切り裂く腕を広げる。

『ずっと見てたよ、マダム・オフィーリア。毎年毎年腹膨らませやがって、ひでえ淫乱のちょうちょ……ああ、その腹切り裂いて、目の前で喰う卵はどんだけ美味いんだろうなあ。大丈夫だよ、空っぽになった腹には、俺のもん注ぎなおしてやる。そうやって一緒に死のうな、オフィーリア。もう誰にもやらねえよ』

 二百、と蟷螂と競るのは蝦蟇。口から伸びる長い舌から、ぽたり、ぽたり、粘液が滴る。

『いけないいけない、そんなむごいことをしてはよろしくない。オフィーリア、優しくするとも。舌で巻き取って、その綺麗な翅がくしゃくしゃになるのも、細い腕が折れるのも、腹の中でぷちぷち卵が潰れるのも……ゆっくり、君の全てを味わって、まるごとお腹にしまってあげる』

 言葉だけですら、ねとねとと犯されて絡め取られる。オフィーリアは、声にならない声で叫んだ。

――やめて、やめて、嫌だ! せめて卵は、卵は残して……!

 メビウスが虫籠を覗き込んでくる。落とし穴のような真っ黒な目、口ばかりにやにや笑っている。

『そりゃ無理な相談だ、マダム。あんた何回生きたか知んねえが、その命、完全に断ち切りたいって……孕んだ雌を喰いたがる客は、正にそこに興奮するわけだ。春にヒラヒラ復活されちゃ、興醒めってもんだろう?』

 五百。

 値付けが跳ね上がる。のっそり現れるのは、蜥蜴族だ。蟷螂と蝦蟇との三すくみで競り続け、蜥蜴が八百と言い渡したところで、終わった。
 
『ひどいやつらだ。助けられてよかったよ、オフィーリア』

 蜥蜴はメビウスから檻の鍵を受け取って言う。

『安心なさい、殺したりなど絶対しないとも。こんなところはすぐに出て、わたしの屋敷で卵を産むがいい。……全く、それもこれも、お前が美しいのがよくない。貴重な宝石はふさわしい場所に仕舞わなくては』

 蜥蜴は陰鬱に、独り言のように呟いている。

『なにも不自由させやしない、立派な籠を用意してある。毎年雄をあてがってもやろう。何代も何代も、大切に守ってやるとも……』

 メビウスが高笑いして、オフィーリアの檻を再びステッキで叩く。
 鋭い音と共に、悪夢がひび割れていった。




「さあて、ご趣味のいいファンばっかりだ。誰が競り落とすかはやってみなきゃわかんねえが。一番あんたに金を出す……入れ込んでるやつに可愛がってもらえんのは、保証してやるさ」

 オフィーリアは恐怖に震える身体をかき抱いている。
 代替わりで従業員には暇を出し、春まで休業の看板をかけているオフィーリアがいなくなったところで、誰も気づいてはくれない。だからこそ今、狙われたのだ。
 しかし、リファリールも共に攫われたのならば。

「すぐ、傭兵団が探しにくるわ……リファリール様がいなくなって、黙っているはずがない……!」

 しかし、メビウスはニヤニヤ笑いを引っ込めなかった。

「うんうん、普通、そう思うよなあ。……特にあの黒山羊くんとかさあ、絶対に大騒ぎしそうだもんな」
「あ……」

 恐ろしい可能性に思い至った。
 あの黒山羊も、このひと攫いたちの仲間だったら。

「まさか、あの、男」

 メビウスは愉快そうに口にした。

「うん、先代が可愛がっててね。知らねえ仲じゃねえわけよ」

 リファリールに近づいた獣族の男への嫌悪が、オフィーリアの中で一気に膨らんで、疑念が確信に変わった。
 花祭りの夜、オフィーリアの言葉に傷ついた顔をしてみせたことすら、全て、演技だ。
 それでもリファリールが望むならと、どうせ寿命の違う異種族、やがて死に別れて、リファリールはグリムフィルドのもとへいく運命だと、口を噤んだのが悔やまれた。たとえリファリールに嫌われようと、もっと強く諫めて、やめさせるべきだった。
 一度裏に染まって、ルミエールを売り飛ばした男だ。更生などするはずがない。
 はじめから、あの男は機会を見て、リファリールを売るつもりだったのだ。一緒に暮らしている恋人ならば、リファリールがいなくなったことを、いくらでも誤魔化せる。病で臥せったなり、故郷に帰ったなり……あの男はそれが充分通るほど、リファリールと睦まじいふりをして、周囲を信用させている……。

「あの、ケダモノ……!」

 オフィーリアの声に憎悪を聞き取って、メビウスは満足げに笑みを深めた。

「……ま、ご想像にお任せしておこう。迎えを期待するのも、ご自由にってことで」




 商品の状態確認と世間話を済ませて、メビウスは廊下に出た。
 最後は見当違いに怒り狂って、なかなか滑稽だった。まだ笑いが引っ込まないくらいだ。
 しかし、黒揚羽のご指摘通り、樹花族については何か細工をしないことには、すぐに騒ぎになってしまう。黒揚羽のついでに仕入れができたのは幸運だったが、こうなると、あの黒山羊はさっさと抱き込むか、片付けるかしなければならない。

 蝙蝠のミュートだけ連れていたのが、何人かの手下が後をついてきた。

「ボス」
「うん?」
「ミュートが持ってきた樹花族、バフォメットの女らしいですが」
「お前らほんとあの山羊好きだよね。元同僚のよしみってやつ?」

 虎も狼もハイエナも、泣く子も黙る肉食の獣族が、山羊一匹に目の色を変える。メビウスが祭りの夜につついたときには、青ざめて女に庇われすらしたものが、昔はどれだけ暴れ回ったのやら、本性を見物してみたい気もしはじめた。

「魔力持ちの黒角、欲しくねえですか」
「俺たちはやっぱり、あの山羊は喰い殺さなきゃ、気が収まんねえ」
「目玉抉って鼻潰して、歯ぁ全部引っこ抜いて、あの忌々しい脚へし折って、心臓食いちぎって、それでもまだ足りねえ」

 熱烈なことだねえ、と呆れ笑う。ボスと呼ばれるからには、手下どもに餌をやるのが仕事の一つだ。

「前はてこずったんだろ? やれんの?」

 鉛色の義歯を剥き出して、虎族のタレスが答えた。

「あんな野郎、魔力さえなけりゃただの山羊。……『リング』の使用許可を」
「あ、もう手段選ばねえわけね」

 最近改造した特別製の舞台だ。魔力の行使を妨害する陣が床に仕込まれている。
 ハイエナ族のシェイドが言い添える。

「ミュートの調べじゃ、樹花族と山羊、しかも前科持ちじゃ釣り合わねえって、虫どもなんかにゃ白い目で見られてるって話です。あいつも始末しておいて、ふたりでどっか逃げちまったことにすりゃあいい」

 口封じに片付ける方向だ。どのみち、手下のこの様子では、黒山羊を引き込んで使うのは無理そうだった。

「んー……ま、ちょいと雑だがいいか。蒸発は金か色だ。せいぜい、代書屋に泣ける置き手紙書かせとけよ。ふたりで遠くで幸せになります、探さないでください、ってやつな」
「承知しやした」

 先代以来、久しぶりの興行ショーだ。希少種の女を嬲りながら愉しむのも一興。
 メビウスは追加で指示した。

「『窓』は閉めとけよ。いらない客ってのは来るもんだ」




 通りが夕闇に包まれていく。
 城壁の外での魔物討伐を終えて帰ってきたユールは、ギルドに入らずに、仲間に手を振って別れた。帰着の報告なら小隊長のディードがしてくれる。
 家路を、蹄を鳴らして飛ぶように駆けていく。頭の中はもう、帰りを待っているリファリールのことでいっぱいだった。
 しかし、魔術屋敷のドアノブに触れたとたん、手が弾かれた。

 ポケットの中に、チモシーを入れっぱなしなのを思い出した。疲れたと言って潜り込んできて、そのまま眠ってしまったのだ。
 引っ張り出して腹をくすぐっても、目を開けずにうるさそうに尾を振って丸まろうとする。

「チモシー、起きろって」

 そのとき、ドアが内側から開いた。一角獣のオーネストだった。

「ユールさん、よかった。おかえり」
「あ、どうもっす」

 見れば、手に箱を持っている。

「これ、少し前に届けものってことで預かったんですけどね。……リファリールさんもいないみたいで」
「いないって……?」

 急に、ざわりと嫌な予感がした。もう日も落ちたというのに、どこに行ったというのだろう。

「あと、これ……その、開けてみてくれませんか。受け取ったあとから、家鳴りが酷い。屋敷が怒っているみたいなんです」

 確かに、ミシミシと音がする。チモシー一匹にここまでぴりぴりと反応するのも、なかったことだった。

 甘い、誘うような匂いが漂っている。
 頭で理解する前に、寝起きの悪いリスをポケットに押し込んで、箱を受け取る手が震えていた。

 リファリールの匂いだ。いないはずなのに。眼裏に、青いものが閃く。それはルミエールの幻影だった。

 箱を開けると、目に白いものが飛び込んできた。
 噛み殺された小鳥の死骸のように、潰された花だった。

 その下に、カードが敷かれていた。

『リベンジマッチといこう、悪魔バフォメット。リングで待ってるぜ』

 忌まわしい過去が、蘇る。

『ただし、今度告げ口したら、女は二度と戻らない』
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