黒山羊と花の乙女

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35.オフィーリアの店じまい

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 リファリールは夜明けの寒さに身震いした。

 半ば目をつぶったまま、シーツの上を手で探って、ぬくもりを探す。

 大好きなユールの腕に潜り込んで、寝巻きの下に手を潜らせて、素肌の温かさを感じたい。

 広い背中、ズボンをはいているみたいに毛皮に覆われたお尻と脚。
 短い毛は硬いけれど、流れに沿って撫でると、すべすべだ。
 ちょこんとかわいいしっぽは、触るとぷるぷる震えて手のひらをくすぐり返してくれる。

 寝起きの悪戯をしていれば、彼はリファリールを身体の上に乗せてくれる。
 今度はちょうどいい位置に来た、その頭に手を伸ばす。指に絡む、少し癖のある柔らかい黒髪、ぴょこんと飛び出た山羊の耳。温かい角。

 彼は気持ちよさそうに目を瞑ったまま、リファリールの胸のふくらみに鼻を埋める。脚を撫でる手が、裾を上げていく。
 首筋をぺろりと舐められれば、くすぐったさに甘えた声が漏れる。
 はだけた胸もとの膨らみを彼の手のひらがすくいあげて、次に舌が這うのは、つんと尖った薄紅の頂。敏感な部分をぬるぬると温かく包まれて、身体が芯から溶けていくように気持ちいい。
 腿のあたりに感じるものをなでさすると、彼は熱いため息をついて、リファリールの脚を開かせる。

 許し合った彼となら、おはようも言わないまま、お互い寝惚けたふりをして身体を探り合うのも、たまらなく幸せで――




 リファリールはひとり、そんな朝を思い出しながら、枕を抱きしめて彼の残り香を嗅いでいた。

 ユールは泊りがけの仕事に出ていて、今日の夜にならないと帰ってこない。
 目が覚めてくると急に虚しくなって、身体を起こした。
 ひとりでは広すぎるベッドの上で、ぽつんと膝を抱く。
 休日なのが余計に、寂しさを感じさせた。




 晩秋の乾いた風に、枯葉がからころと転がっていく。
 リファリールは白いマフラーを口元を隠すように巻いた上に、お揃いのミトンの両手を重ねて、息を吐いた。温気が少しの間、毛糸の間にとどまる。
 どちらも前の休みに、蚕蛾のリンニールの洋品店の売り出しで、ユールが買ってくれたものだ。
 樹花族のリファリールが、太陽の弱まる季節に活動が鈍くなっていくのを気遣っての贈り物だった。

 手提げ籠には、ディアズ青果店で買った、ユールの夕食のためのカボチャとムカゴ、それに林檎が入っている。どれも旬で美味いよとルッコラが勧め、お腹が大きくなった妻が勘定をしてくれた。夏はひどい悪阻で店に出られなかったのが、花祭りの祝福を受けたころから楽になったのだと、リファリールに感謝してくれて、お腹を触らせてくれた。恐る恐る置いた手を中からググッと押されて、驚いた。

「あら、動いた! ちびちゃんもお姉さんにご挨拶してるんだわ」
「そりゃあいい、ちびは商売向きかもしれないねえ!」

 鹿の夫婦の様子が、眩しいくらい羨ましかった。




 まっすぐ帰る気になれなくて、商店街を歩いていた。先週までは賑わっていた通りだが、今は春まで休業の看板が目立つ。冬眠をする獣族や、代替わりする虫人たちの店だ。冬は、深い眠りの季節だ。

 風がすうすう、身体を吹き抜けていく。なんともいえずやるせなくなって、ぺたんこの臍のあたりに、ミトンに包まれた手を置いてみた。

 ユールは今年も、もうすぐ北街道の応援に行ってしまう。留守の間のことは、こちらに残る団長やフィミー、スヴェラードたちに頼んであるからと言われて、行ってほしくないなんてわがままは、飲み込んでいた。スヴェラードは強いのに行かないのはずるいと八つ当たりじみて思ったが、爬虫系は寒いのが苦手らしい。

 ユールと暮らせて、毎日、嬉しい。朝起きれば彼がいる。仕事が終われば帰ってきて、ただいまを言ってくれる。
 彼があくびをしたり歯を磨いたり爪を切ったり、そんななんでもない寛いだ動作が全部愛おしくて、つい見つめてしまう。
 でも、一緒にいるのが日常になる裏返しに、彼がいない時間が、前にもまして切ない。
 しっかりしないと、と思う。
 結婚式も、子どももそうだ。リファリールは、彼の優しさに甘えて、お菓子をねだる子どものように、どこまでも欲深くなっていく自分を見つけている。
 きっと焦ってはいけないのだ。グリムフィルドにも、ユール自身にも、待つように言われているのだから。

 気分転換に、青葉亭に顔を出してみようかと思いついて、踵を返した。
 すると、黒い翅の虫人が視界に入った。
 黒揚羽のオフィーリアが、店の二階のテラスから舞い降りてくる。

「リファリールさま、ごきげんよう」

 嬉しそうに挨拶してくるが、着地でふらつくのに、慌てて手を伸ばした。

「大丈夫ですか?」
「まあ、お恥ずかしい」

 触れて、どきっとした。生命の流れが、風に遊ばれる枯葉のように、ほとんど止まっている。けれど、黒いドレスの下の膨らんだ部分にだけ、無数の煌めきが感じられた。

「産室で休んでいたのですが、お姿をお見かけして、つい出てきてしまいました」

 そう言って、オフィーリアはふらふらと細い触角を揺らした。




 店内は照明が落とされ、商品棚には全て布がかけられていた。
 二階の居室に、オフィーリアを支えて上がった。

「私としたことが、申し訳ありません。思ったより急に、身体がいけなくて」

 長椅子に寄り掛からせて、リファリールは花を摘んで差し出した。遠慮するのを無理にでも勧めて、一口、蜜を吸わせた。

「恐れ入ります。ああ、こんな幸せなことってありませんわ……」
「いいんです。オフィーリアさんには、お世話になったから」
「なんにも……」
「ひとりなんですか?」
「ええ、お店の子達は春までみんなお休みです」

 オフィーリアは真ん中の腕で、自身の腹部を支えるように包んだ。

「その、お腹」
「はい、もうすぐ産卵を迎えますの。この身体で最後の大仕事ですわ」

 花の効果で、オフィーリアの身体には一時的に力が戻りはじめていた。

「ご心配には及びませんわ。代替わりのときは、いつもこう。秋の終わりはお店をしまって、産室を整えて……もうすぐ、術師の方が来て、この家丸ごと、春まで閉じるんですのよ。そうしたら、私は一人で、静かに時が満ちるのを待つんです」

 蝶の彼女は、冬の間は卵の姿で命をつなぐ。そして、春にまた、オフィーリアとして目覚める。
 そう聞いても、弱りきった姿を前に、リファリールの心配は消えなかった。

「術師さんが来るまで、一緒にいてもいいですか」
「……リファリール様は、本当にお優しい。甘えさせていただきますわ」

 ハーブの入った水を出してもらって、ぽつりぽつり、話をした。

「怖くないですか?」

 口に出したあと、無神経だったかと気がついた。リファリールの躊躇いに気付いて、オフィーリアは穏やかに答える。

「いいえ。先代たちの記憶では、眠るのと、変わらないのです。たくさん働いて、くたくたになって、沈むように眠る夜と同じ。安全なところで、卵さえ無事に産むことができれば、なにも怖いことなどありませんの」
「そうなんですか」
「ふふふ、まあ、男のひとなんてもっと気楽ですわね。私の相手も、毎年のことですから何にも心配していなくて、少し前に南に旅立ちましたわ。秋桜の野原で死にたいんですって。彼も、春になったら卵の一つから帰ってくるんです。きっと、生まれたらお土産話ですわ」

 不思議だった。獣族よりずっと短い命の虫人たちは、なにより長い時をわたる術を持っていて、死を怖がらないようだった。

「……でも、少しばかり寂しい気は、するのです」

 オフィーリアは窓の外を見やる。

「私はオフィーリアで、次に生まれる私もオフィーリアと名乗るでしょう。先代たちから全てを受け継いだ私が、そうしたように。ああ、でも、やはり、今私が宿る身体は朽ちて、命としては終わるのですわ。さて、次に目覚める私は、本当に私なのかしら? ……そんなことを考えていたときに、リファリール様をお見かけしたら、どうしてもお声が聞きたくなってしまったのですわ」

 虫人たちは、皆そうだ。本能のまま、リファリールを慕う。

「本当にしょうがない……アメランなどを見ていると、むず痒くなってしまいますが、私もひとのことを言えませんわね。ご迷惑に思われるときもあったでしょう」
「……いえ」

 ユールとのことに口を出してきたときは、確かにそうだった。オフィーリアも、リファリールに直接言わないまでも、よくない顔をしていたらしい。
 けれど、今際の彼女にそんな話をしたくはなかった。

「草木の化身、樹花族のあなたさまは、虫人わたしたちにとって、巡る命の拠り所なのです。どうか、お許しくださいませ」

 窮屈そうに身を屈めるのを、お腹に障りそうでやめてもらった。

「オフィーリアさん、わたしね、このごろ、考えていたことがあるんです。街にきて、いろんな種族のひとと、出会って……命の長さも、在り方も、ひとりひとり全然違うんです。同じ形でないことが、寂しくて不安に思うことも、あるんですけど……」

 傷つき目の光を失って帰ってきたユール。痩せ細り、ベッドの上でもがいているエリーゼ。フロックの慟哭が耳に蘇る。ネムがフサフサの尻尾をゆらして、瞼の裏をかけていく。
 そして、目の前にいる、衰えたオフィーリアの姿。

「でも、だからこそ、同じ時を生きられることが、嬉しくて、愛おしくて仕方ないの。短くても長くても、命は全部同じで、大切なの」

 オフィーリアが微笑むのが、リファリールにはわかった。

「……私、私の代でリファリール様に出会えたことを、幸せに思いますわ。あなたさまが樹花族なのを抜きにして……ひとりの素敵なお嬢さんとお近づきになれたことを」
「わたしもです。今日、お話しできてよかったです」

 寂しい、とても寂しい。
 けれど、リファリールも彼女に微笑み返す。精一杯生き切ったそのときは、認めて、送り出してあげたい。
 長い命を持つ自分の役目として、ネムに教わったことが、できるようになりたかった。




 下階から呼び鈴が聞こえた。
 立ち上がろうとするオフィーリアを座り直させて、リファリールは応対に出た。
 マントのような両腕で身体を覆った、蝙蝠族の男だった。

「……冬の眠りの結界のご用意に参りましたが、マダム・オフィーリアはご在宅で?」

 リファリールの背後にぴたりとついて階段を上がるのが、薄気味悪いような気がした。

「あの、どこかでお会いしませんでしたか?」
「さあ? あなたはずいぶん有名ですから知っていますけどね。樹花族のリファリールさん」

 蝙蝠は喉の奥で不気味に笑った。
 耳の奥がつんと痛むような、不快な音だ。リファリールはオフィーリアが待つ部屋のドアの前に立ち塞がって、蝙蝠を振り向いた。

「あなた、本当に術師?」
「もちろん。結界だけじゃない、俺は色々、使えるよ」

 蝙蝠の大きな目が、廊下の薄闇の中で爛々と輝いていた。

「気づくのが少しばかり遅かったな、お嬢さん」

 がばりと裂けるように口が開き、赤い三角の舌が閃く。
 先程の笑い声とは比べ物にならない、耳から頭の中まで貫き通す音の波が、リファリールを襲った。

「あっ、つっ……!」

 思わず耳を塞いで膝を折る彼女の髪を、鉤爪の手が掴む。金属板を引っ掻くような音がもう一度、至近距離から叩き込まれる。

「リファリールさま!」

 オフィーリアの叫びが遠い。
 出てきちゃだめと伝えたくても、もう声が、出なかった。
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