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伊織という女
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京の夜は、思ったより冷える。
屯所の庭で、伊織は木刀を振っていた。
昼の稽古では足りない。足りないどころか、まるで追いつかない。
ここは、命のやり取りをする男たちの場所だ。
伊織は歯を食いしばり、もう一度踏み込む。
――打つ。
――返す。
――斬る。
木刀が空気を裂く。
だが次の瞬間、力が抜けた。
「……ちがう」
小さく呟く。
さっきの踏み込みは甘かった。もし本物の刀なら、もう斬られている。
伊織はもう一度構え直した。
さらしを巻いた胸が苦しい。
呼吸が浅くなる。
でも、緩めるわけにはいかない。
女だと知られたら、ここにはいられない。
伊織は恋人の仇を討つために、女の身を隠して新選組に入った。
――知られるわけにはいかない。絶対に。
再び振りかぶったときだった。
「ずいぶん熱心だね」
声がした。
伊織の肩がびくりと跳ねる。
振り向くと、縁側に人影が立っていた。
月明かりに照らされた細い影。
笑っている。
それだけで誰か分かった。
沖田総司だった。
「お、沖田さん」
慌てて姿勢を正す。
沖田は縁側から降りてきて、伊織の木刀をちらりと見た。
「夜稽古か。感心だなぁ」
口調は柔らかいのに、目だけが鋭い。
剣士の目だ。
「昼の稽古じゃ足りないんです」
伊織は答えた。
「ここにいる人たち、強すぎます」
沖田はくすっと笑う。
「まあね。ここは一応、
新選組だから」
さらりと言う。
でも、その言葉の重さを伊織は知っている。
血の匂いのする集団。
京で最も恐れられている剣士たち。
その中に、自分は紛れ込んでいる。
女の身で。
沖田はふっと伊織の構えを見た。
「ちょっといい?」
「え?」
次の瞬間、沖田は伊織の手首を軽く取った。
「ここ」
指で木刀の握りを直す。
「力入りすぎ。そんな握り方だと手首壊れるよ」
伊織の体が固まる。
距離が近い。
近すぎる。
沖田の指は細いのに、妙に温かい。
「……はい」
声が少し掠れた。
沖田は気づいたのか気づいてないのか、軽く笑う。
「緊張してる?」
「してません」
「してるよ」
即答だった。
沖田は伊織の顔を覗き込む。
月明かりの中で、その瞳は妙に澄んでいた。
「そんな顔してる」
伊織は目を逸らす。
心臓がやけに速い。
戦うときとは違う鼓動。
理由が分からない。
沖田は突然、伊織の木刀を軽く弾いた。
カン、と乾いた音。
「ほら」
次の瞬間。
伊織の喉元に、沖田の木刀がぴたりと止まっていた。
一瞬だった。
伊織は目を見開く。
(速い……)
全く見えなかった。
沖田は少し首を傾げた。
「今の、もし本物だったら」
笑う。
「伊織さん、もう死んでる」
背中に冷たい汗が流れた。
悔しさが込み上げる。
伊織は唇を噛んだ。
沖田はそれを見て、ふっと木刀を下げた。
「でもね」
ぽん、と伊織の頭を軽く叩く。
「悪くない」
伊織は顔を上げる。
沖田は空を見上げていた。
「君、しぶとそうだし」
軽い声。
でもどこか楽しそうだった。
「案外、生き残るかもね」
その言葉を聞いたとき。
なぜか胸が熱くなった。
褒められたからだろうか。
それとも。
伊織は自分でも分からないまま、沖田の横顔を見ていた。
月明かりに照らされた横顔は、静かで、きれいで、どこか儚い。
この人は強い。
でも――
なぜか、壊れそうにも見えた。
沖田がふと振り向く。
「ん?」
目が合う。
伊織は慌てて視線を逸らした。
「……なんでもありません」
沖田は少し笑った。
「変な人だね、君」
そう言って、縁側へ戻っていく。
途中で一度だけ振り返った。
「また夜稽古するなら呼んでよ」
ひらりと手を振る。
「暇なとき付き合ってあげる」
その背中が闇に消えるまで、伊織は動けなかった。
やがて小さく息を吐く。
胸がうるさい。
さらしの下で心臓が暴れている。
伊織は木刀を握り直した。
「……なんでだ」
自分でも分からない。
ただ。
さっき沖田に触れられた手首が、まだ熱い。
夜風が吹く。
伊織はもう一度木刀を振り上げた。
だが。
その動きは、さっきまでより少しだけ乱れていた。
理由は、本人にも分からなかった。
屯所の庭で、伊織は木刀を振っていた。
昼の稽古では足りない。足りないどころか、まるで追いつかない。
ここは、命のやり取りをする男たちの場所だ。
伊織は歯を食いしばり、もう一度踏み込む。
――打つ。
――返す。
――斬る。
木刀が空気を裂く。
だが次の瞬間、力が抜けた。
「……ちがう」
小さく呟く。
さっきの踏み込みは甘かった。もし本物の刀なら、もう斬られている。
伊織はもう一度構え直した。
さらしを巻いた胸が苦しい。
呼吸が浅くなる。
でも、緩めるわけにはいかない。
女だと知られたら、ここにはいられない。
伊織は恋人の仇を討つために、女の身を隠して新選組に入った。
――知られるわけにはいかない。絶対に。
再び振りかぶったときだった。
「ずいぶん熱心だね」
声がした。
伊織の肩がびくりと跳ねる。
振り向くと、縁側に人影が立っていた。
月明かりに照らされた細い影。
笑っている。
それだけで誰か分かった。
沖田総司だった。
「お、沖田さん」
慌てて姿勢を正す。
沖田は縁側から降りてきて、伊織の木刀をちらりと見た。
「夜稽古か。感心だなぁ」
口調は柔らかいのに、目だけが鋭い。
剣士の目だ。
「昼の稽古じゃ足りないんです」
伊織は答えた。
「ここにいる人たち、強すぎます」
沖田はくすっと笑う。
「まあね。ここは一応、
新選組だから」
さらりと言う。
でも、その言葉の重さを伊織は知っている。
血の匂いのする集団。
京で最も恐れられている剣士たち。
その中に、自分は紛れ込んでいる。
女の身で。
沖田はふっと伊織の構えを見た。
「ちょっといい?」
「え?」
次の瞬間、沖田は伊織の手首を軽く取った。
「ここ」
指で木刀の握りを直す。
「力入りすぎ。そんな握り方だと手首壊れるよ」
伊織の体が固まる。
距離が近い。
近すぎる。
沖田の指は細いのに、妙に温かい。
「……はい」
声が少し掠れた。
沖田は気づいたのか気づいてないのか、軽く笑う。
「緊張してる?」
「してません」
「してるよ」
即答だった。
沖田は伊織の顔を覗き込む。
月明かりの中で、その瞳は妙に澄んでいた。
「そんな顔してる」
伊織は目を逸らす。
心臓がやけに速い。
戦うときとは違う鼓動。
理由が分からない。
沖田は突然、伊織の木刀を軽く弾いた。
カン、と乾いた音。
「ほら」
次の瞬間。
伊織の喉元に、沖田の木刀がぴたりと止まっていた。
一瞬だった。
伊織は目を見開く。
(速い……)
全く見えなかった。
沖田は少し首を傾げた。
「今の、もし本物だったら」
笑う。
「伊織さん、もう死んでる」
背中に冷たい汗が流れた。
悔しさが込み上げる。
伊織は唇を噛んだ。
沖田はそれを見て、ふっと木刀を下げた。
「でもね」
ぽん、と伊織の頭を軽く叩く。
「悪くない」
伊織は顔を上げる。
沖田は空を見上げていた。
「君、しぶとそうだし」
軽い声。
でもどこか楽しそうだった。
「案外、生き残るかもね」
その言葉を聞いたとき。
なぜか胸が熱くなった。
褒められたからだろうか。
それとも。
伊織は自分でも分からないまま、沖田の横顔を見ていた。
月明かりに照らされた横顔は、静かで、きれいで、どこか儚い。
この人は強い。
でも――
なぜか、壊れそうにも見えた。
沖田がふと振り向く。
「ん?」
目が合う。
伊織は慌てて視線を逸らした。
「……なんでもありません」
沖田は少し笑った。
「変な人だね、君」
そう言って、縁側へ戻っていく。
途中で一度だけ振り返った。
「また夜稽古するなら呼んでよ」
ひらりと手を振る。
「暇なとき付き合ってあげる」
その背中が闇に消えるまで、伊織は動けなかった。
やがて小さく息を吐く。
胸がうるさい。
さらしの下で心臓が暴れている。
伊織は木刀を握り直した。
「……なんでだ」
自分でも分からない。
ただ。
さっき沖田に触れられた手首が、まだ熱い。
夜風が吹く。
伊織はもう一度木刀を振り上げた。
だが。
その動きは、さっきまでより少しだけ乱れていた。
理由は、本人にも分からなかった。
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