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第参話:人ならざるもの
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珀が鳥居に縛りつけられた娘の姿を見つけたのは、娘を村に帰した三日後のことだった。
雨に打たれ、すっかり痩せ衰えたその小さな身体からは、かすかに息が漏れていた。急いで縄を断ち切り、必死でその身を抱きかかえる。
風がさざめく。周囲には、まもなく訪れるであろうそのときを待つかのように、数羽の黒い鴉がふたりの頭上を旋回していた。
「どうして……こんな……」
「……りゅう、じん、さま……?」
「……っ、何があった!」
力なく閉ざしたままの瞼に向かい、珀は問いかけた。完全に血の気の失せた顔。人間の体温とは、かくも冷たいものなのか。
もはや手の施しようがないほどに衰弱した娘を抱き締める。せめてもの償いにと、珀は娘の痛みを取り除いてやった。
「……『振り返る、こと、なかれ……戻る、こと、なか、れ』……」
「……?」
「……わたし、が、帰る、と……りゅうじんさま、怒って、村を、沈めちゃうん、だって……、……そんなこと、ある、はず、ないのに、ね……。あなたは……こんなに……優しい、の、に……——」
喉を、全身を、振り絞って紡いだ言葉だった。
切なくて、儚い、最期の——。
カァアッ!
刹那。一羽の鴉が、空に向かって鋭く啼いた。
珀の腕の前で、娘は静かに息を引き取った。三日前は、村に帰れることを、あんなに喜んでいたのに。
娘の頬についた雫の跡を、そっと指で拭う。後悔と怒りが、腹の底からふつふつと沸き上がってきた。
まだ年端もいかぬ娘に、なんと残酷な。人間とは、かようなまでに愚かしい生き物なのか。
許さない。絶対に。
ユ ル サ ナ イ
琥珀の双眸が、炯々とみなぎる。突如、雷鳴が轟き、稲妻が空を切り裂いた。鴉たちが、逃げるように飛び去って行く。
今から遡ること二百四十年。
村人は、龍の逆鱗に触れた。
◇ ◆ ◇
昼下がりの陽光が、木々を金色に染め上げる。
草木の息吹。小鳥の囀り。自然を彩るすべてのものが、澄んだ秋の空気に溶け込んでいく。
瑠璃が珀に保護されてから、三日が経過した。
「近くに実っていた柘榴だ。食べられるか?」
「あ……ありがとう、ございます。いただきます」
瑠璃が頷くと、珀は熟れて割けた果実をふたつに分けた。食べやすくしてくれたのだろう。珀の手から受け取った瞬間、馥郁とした香りが瑠璃の鼻孔をくすぐった。
鮮やかな深紅の果肉。光を受けて艶やかに輝くその様は、さながら紅玉のよう。
ぱくっと、瑠璃は遠慮がちにひとくち頬張った。舌を包み込むような甘さと爽やかな酸味が、口の中に広がっていく。「美味しいです」と微笑めば、同じく彼も微笑んだ。
食べずとも生きられる珀と、食べなければ生きられない瑠璃。
人ならざる彼との違いを、瑠璃は日々まざまざと感じていた。彼のその美貌には、畏怖すらおぼえてしまう。
それでも、彼のことを恐ろしいとは思わない。こうして自分のために食材を調達してくれる彼のことを、恐ろしいなどと思えるはずもない。
「肺の痛みはどうだ?」
「はい。おかげさまで、まったく。……久しぶりです。こんなにゆっくり眠れたのは」
「そうか。だが、治ったわけではないからな。無理はするなよ」
珀の忠告に、瑠璃は頭を下げるように首肯した。
その神秘的な力で、珀は瑠璃の痛みを取り除いてくれた。方法はいたって単純で、毎日数回、胸部に手をかざすだけ。珀が手をかざすと、その部分がじわりと熱を帯び、痛みが消えてなくなるのだ。
「……本当にありがとうございます。何から何まで、このように面倒を見ていただいて」
もう何度目かの謝意を伝える。
死を覚悟してここへ来た。今でも、死ぬことは怖くない。
だが、瑠璃は思い出した。孤独に慣れて忘れていた感覚を、珀が思い出させてくれた。
痛みのない身体がこんなにも軽いことや、誰かの厚意がこんなにも嬉しいこと。
誰かと話せることが、こんなにも、楽しいこと。
「気にするな。ここでの暮らしは窮屈だろうが、村には戻らないほうがいい。お前の親には酷だがな」
「窮屈だなんてそんな……! それに、そのお心遣いは不要です。親は、もうおりません」
「ふたりとも?」
「はい。……十年前の、はやり病で」
ちょうど今と同じ時季だったろうか。
はやり病で両親を亡くし、瑠璃は孤児となった。これだけなら、よくある話で終わっていたのだろう。
しかし、死斑病に罹患したことで、瑠璃の生活は一変した。
村一番の美人だと謳われた母。そんな母にそっくりだった瑠璃は、幼い頃から注目の的だった。
周りにはいつも人がいた。外で遊ぶことが好きだったため、村の子どもたちと日が暮れるまで野山を駆け回った。
それなのに。
「すぐ疲れてしまうので、だんだん外で遊べなくなってしまって……そのうち、痣が目に見える形で広がったことで、みんな気味悪がって遠ざかっていきました」
皆の気持ちはわかる。異質なものを遠ざけるのは、ある種の防衛本能だ。普遍的で、本質的な。
はやり病で子どもも多く喪ったため、若く健康な娘をひとりでも多く村に残しておきたいと考えたのだろう。村長はじめ村の重鎮たちは、満場一致で瑠璃を贄に指名した。
すべては村のため。
瑠璃は、甘んじて孤独を受けいれた。
「わからんな。なぜお前ひとりが耐えねばならん」
「え……?」
「なぜお前は怒らん。……お前だけじゃない。俺の元へ追いやられた娘たちは皆、誰ひとりとして村の連中に怒らなかった。誰ひとりとして、だ。なんの落ち度もないお前たちに死を命じておいて、自分たちはのうのうと生きていくなど、狂気の沙汰としか思えん」
これだから人間は好かんと、珀は言った。お前たちのことは別だが、と。
辛辣な皮肉。だが、さすがは龍神。毒を吐いても、品がある。
「お前は、もっと怒っていい」
「!」
思わず、目を見開いた。
胸奥が打ち震える。まるで稲妻が駆け抜けるかのように、びりびりと。
長年かけて溜まりに溜まった黒い濁りが、わずかに澄んだ気がした。
「ここまで言っても怒らんか?」
「え? え、と……」
きょとんとする瑠璃に対し、「怒れ」と拗ねたように珀が言う。眉をぴんっと跳ね上げ、腕組みをしたそのさまは、さながら稚児のようだ。
瑠璃は、つい笑ってしまった。それは、珀が可笑しかったからというわけではなく、愛嬌溢れる彼の表情が、あまりに魅力的だったから。
この瞬間、瑠璃の中に、何かがすとんと落ちてきた。
ああ、そうか……と、深く頷いた。
「……怒って、いいんですね」
虚ろだった場所が、じわりじわりと満ちていく。新たに得たわけではない。欠けていた大事なものを、ようやく取り戻したような感覚。
当たり前だと思っていた。ゆえに、疑うこともしなかった。
でも、そうじゃなかった。
「わたし、がんばって怒ります」
「頑張らんでも怒れるんだ、普通は」
「ふふっ」
「ったく。……術をかけるから横になれ。また呼吸が乱れ始めてる」
そう言うと、珀は胡坐をかいた自身の腿に、瑠璃の頭を凭せかけるように乗せた。彼の纏う霊妙な芳香が、瑠璃の鼻孔をくすぐる。
白く、淡く。瑠璃の胸元にかざした珀の手が、光を放つ。
その光は、瑠璃の胸中から黒い靄を吸い上げると、ひとつ残らず包み込んで——消えた。
「これでしばらくは障りないだろう。……夕餉時まで、少し休め」
「ありがとうございます。珀さまも、どうか、お休み、に……——」
最後まで言い切ることなく、瑠璃は瞼を落とした。まもなく聞こえてきた、小さな寝息。
珀は、さながら桜の花弁のように儚いその痩身を抱き上げると、起こさぬように寝床へと運んだ。
珀の玉顔が、微細に歪む。
痛みは消してやれる。だが、そんなものはただの対処療法だ。その場しのぎに過ぎない。
瑠璃の命の灯は、今にも消えんとしているというのに——。
このまま散りゆくのが瑠璃の運命だというのなら、そうなのだろう。現に、瑠璃は己の身に起こるすべての事象を、粛々と受けいれている。
「……強い娘だ」
滔々と流るる自然の理に身を委ねるか。はたまた、理に背き、燻り始めた情欲の焔を滾らせるか。
募る焦燥感と仄暗い葛藤が、珀の胸を締めつけた。
雨に打たれ、すっかり痩せ衰えたその小さな身体からは、かすかに息が漏れていた。急いで縄を断ち切り、必死でその身を抱きかかえる。
風がさざめく。周囲には、まもなく訪れるであろうそのときを待つかのように、数羽の黒い鴉がふたりの頭上を旋回していた。
「どうして……こんな……」
「……りゅう、じん、さま……?」
「……っ、何があった!」
力なく閉ざしたままの瞼に向かい、珀は問いかけた。完全に血の気の失せた顔。人間の体温とは、かくも冷たいものなのか。
もはや手の施しようがないほどに衰弱した娘を抱き締める。せめてもの償いにと、珀は娘の痛みを取り除いてやった。
「……『振り返る、こと、なかれ……戻る、こと、なか、れ』……」
「……?」
「……わたし、が、帰る、と……りゅうじんさま、怒って、村を、沈めちゃうん、だって……、……そんなこと、ある、はず、ないのに、ね……。あなたは……こんなに……優しい、の、に……——」
喉を、全身を、振り絞って紡いだ言葉だった。
切なくて、儚い、最期の——。
カァアッ!
刹那。一羽の鴉が、空に向かって鋭く啼いた。
珀の腕の前で、娘は静かに息を引き取った。三日前は、村に帰れることを、あんなに喜んでいたのに。
娘の頬についた雫の跡を、そっと指で拭う。後悔と怒りが、腹の底からふつふつと沸き上がってきた。
まだ年端もいかぬ娘に、なんと残酷な。人間とは、かようなまでに愚かしい生き物なのか。
許さない。絶対に。
ユ ル サ ナ イ
琥珀の双眸が、炯々とみなぎる。突如、雷鳴が轟き、稲妻が空を切り裂いた。鴉たちが、逃げるように飛び去って行く。
今から遡ること二百四十年。
村人は、龍の逆鱗に触れた。
◇ ◆ ◇
昼下がりの陽光が、木々を金色に染め上げる。
草木の息吹。小鳥の囀り。自然を彩るすべてのものが、澄んだ秋の空気に溶け込んでいく。
瑠璃が珀に保護されてから、三日が経過した。
「近くに実っていた柘榴だ。食べられるか?」
「あ……ありがとう、ございます。いただきます」
瑠璃が頷くと、珀は熟れて割けた果実をふたつに分けた。食べやすくしてくれたのだろう。珀の手から受け取った瞬間、馥郁とした香りが瑠璃の鼻孔をくすぐった。
鮮やかな深紅の果肉。光を受けて艶やかに輝くその様は、さながら紅玉のよう。
ぱくっと、瑠璃は遠慮がちにひとくち頬張った。舌を包み込むような甘さと爽やかな酸味が、口の中に広がっていく。「美味しいです」と微笑めば、同じく彼も微笑んだ。
食べずとも生きられる珀と、食べなければ生きられない瑠璃。
人ならざる彼との違いを、瑠璃は日々まざまざと感じていた。彼のその美貌には、畏怖すらおぼえてしまう。
それでも、彼のことを恐ろしいとは思わない。こうして自分のために食材を調達してくれる彼のことを、恐ろしいなどと思えるはずもない。
「肺の痛みはどうだ?」
「はい。おかげさまで、まったく。……久しぶりです。こんなにゆっくり眠れたのは」
「そうか。だが、治ったわけではないからな。無理はするなよ」
珀の忠告に、瑠璃は頭を下げるように首肯した。
その神秘的な力で、珀は瑠璃の痛みを取り除いてくれた。方法はいたって単純で、毎日数回、胸部に手をかざすだけ。珀が手をかざすと、その部分がじわりと熱を帯び、痛みが消えてなくなるのだ。
「……本当にありがとうございます。何から何まで、このように面倒を見ていただいて」
もう何度目かの謝意を伝える。
死を覚悟してここへ来た。今でも、死ぬことは怖くない。
だが、瑠璃は思い出した。孤独に慣れて忘れていた感覚を、珀が思い出させてくれた。
痛みのない身体がこんなにも軽いことや、誰かの厚意がこんなにも嬉しいこと。
誰かと話せることが、こんなにも、楽しいこと。
「気にするな。ここでの暮らしは窮屈だろうが、村には戻らないほうがいい。お前の親には酷だがな」
「窮屈だなんてそんな……! それに、そのお心遣いは不要です。親は、もうおりません」
「ふたりとも?」
「はい。……十年前の、はやり病で」
ちょうど今と同じ時季だったろうか。
はやり病で両親を亡くし、瑠璃は孤児となった。これだけなら、よくある話で終わっていたのだろう。
しかし、死斑病に罹患したことで、瑠璃の生活は一変した。
村一番の美人だと謳われた母。そんな母にそっくりだった瑠璃は、幼い頃から注目の的だった。
周りにはいつも人がいた。外で遊ぶことが好きだったため、村の子どもたちと日が暮れるまで野山を駆け回った。
それなのに。
「すぐ疲れてしまうので、だんだん外で遊べなくなってしまって……そのうち、痣が目に見える形で広がったことで、みんな気味悪がって遠ざかっていきました」
皆の気持ちはわかる。異質なものを遠ざけるのは、ある種の防衛本能だ。普遍的で、本質的な。
はやり病で子どもも多く喪ったため、若く健康な娘をひとりでも多く村に残しておきたいと考えたのだろう。村長はじめ村の重鎮たちは、満場一致で瑠璃を贄に指名した。
すべては村のため。
瑠璃は、甘んじて孤独を受けいれた。
「わからんな。なぜお前ひとりが耐えねばならん」
「え……?」
「なぜお前は怒らん。……お前だけじゃない。俺の元へ追いやられた娘たちは皆、誰ひとりとして村の連中に怒らなかった。誰ひとりとして、だ。なんの落ち度もないお前たちに死を命じておいて、自分たちはのうのうと生きていくなど、狂気の沙汰としか思えん」
これだから人間は好かんと、珀は言った。お前たちのことは別だが、と。
辛辣な皮肉。だが、さすがは龍神。毒を吐いても、品がある。
「お前は、もっと怒っていい」
「!」
思わず、目を見開いた。
胸奥が打ち震える。まるで稲妻が駆け抜けるかのように、びりびりと。
長年かけて溜まりに溜まった黒い濁りが、わずかに澄んだ気がした。
「ここまで言っても怒らんか?」
「え? え、と……」
きょとんとする瑠璃に対し、「怒れ」と拗ねたように珀が言う。眉をぴんっと跳ね上げ、腕組みをしたそのさまは、さながら稚児のようだ。
瑠璃は、つい笑ってしまった。それは、珀が可笑しかったからというわけではなく、愛嬌溢れる彼の表情が、あまりに魅力的だったから。
この瞬間、瑠璃の中に、何かがすとんと落ちてきた。
ああ、そうか……と、深く頷いた。
「……怒って、いいんですね」
虚ろだった場所が、じわりじわりと満ちていく。新たに得たわけではない。欠けていた大事なものを、ようやく取り戻したような感覚。
当たり前だと思っていた。ゆえに、疑うこともしなかった。
でも、そうじゃなかった。
「わたし、がんばって怒ります」
「頑張らんでも怒れるんだ、普通は」
「ふふっ」
「ったく。……術をかけるから横になれ。また呼吸が乱れ始めてる」
そう言うと、珀は胡坐をかいた自身の腿に、瑠璃の頭を凭せかけるように乗せた。彼の纏う霊妙な芳香が、瑠璃の鼻孔をくすぐる。
白く、淡く。瑠璃の胸元にかざした珀の手が、光を放つ。
その光は、瑠璃の胸中から黒い靄を吸い上げると、ひとつ残らず包み込んで——消えた。
「これでしばらくは障りないだろう。……夕餉時まで、少し休め」
「ありがとうございます。珀さまも、どうか、お休み、に……——」
最後まで言い切ることなく、瑠璃は瞼を落とした。まもなく聞こえてきた、小さな寝息。
珀は、さながら桜の花弁のように儚いその痩身を抱き上げると、起こさぬように寝床へと運んだ。
珀の玉顔が、微細に歪む。
痛みは消してやれる。だが、そんなものはただの対処療法だ。その場しのぎに過ぎない。
瑠璃の命の灯は、今にも消えんとしているというのに——。
このまま散りゆくのが瑠璃の運命だというのなら、そうなのだろう。現に、瑠璃は己の身に起こるすべての事象を、粛々と受けいれている。
「……強い娘だ」
滔々と流るる自然の理に身を委ねるか。はたまた、理に背き、燻り始めた情欲の焔を滾らせるか。
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