【R18】月華の夜、龍と贄はつがいとなりて

琴音 結月

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第伍話:泡沫の逃避と龍の逆鱗

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 空はまだ、藍色に包まれていた。
 夜明け前。東の端が、ほのかに白み始めた頃。
 瑠璃は、珀のぬくもりをそっと置いて、寝台から抜け出した。
 昨夜の余韻が、いまだ甘い熱となって全身に灯っている。夢のような時間だった。これまで生きてきた中で、もっとも幸せな。
 こんなにも醜い身体を愛してくれた。美しいと、言ってくれた。
 けれど、これ以上彼の優しさに甘んじるわけにはいかない。
 彼は龍神。この地を護る神なのだ。いずれ朽ち果てる自分のような存在に、一時いっときでも縛りつけておくべきではない。
「……っ!」
 突然、目の前が暗転した。
 頭を殴られたような感覚。立ち上がっただけで、肺がちりちりと焼けるように痛んだ。背中も痛い。心臓も。
 身体が、悲鳴を上げている。
 心身を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出すと、瑠璃は静かに身支度を始めた。
 白い小袖に身を包み、深々と一礼をして、社をあとにする。振り返ることはしなかった。振り返れば、きっと離れがたくなってしまうから。彼のぬくもりを、求めてしまうから。
 夜露の滴る野草を踏みしめ、歩みを進める。
 外は静寂。そんななか、滝の音だけが、ひときわ鮮明に響いていた。
 まだ星のまたたく空の下。一歩、また一歩と、あてもなく歩く。向かう先など、どこでもよかった。ただ、誰の目にも触れない場所へ行きたかった。
 山を下り、白い鳥居を出たところで、脇道へと逸れる。途中、何度も立ち止まり、浅い呼吸を繰り返しながら、ふらつくように進んだ。
 今ここで歩みを止めてしまえば、獣たちの餌くらいにはなれるだろうか。とはいえ、村人たちに自分の屍を見せるのは、少々気が引けた。
 どこかひっそりと消えられる場所を。
 そんな儚い願いを抱きつつ、獣道へと入ったときだった。
 不意に、瑠璃の視界に飛び込んできた、見慣れた顔。
「……瑠璃?」
 ——村長むらおさだ。
 狩りの最中だろうか。その手には、油断なく槍が握られている。
 目を疑うような光景、だったのだろう。彼は、信じられないとでもいうように、その場でしばらく唖然としていた。
「おぬし……生きていたのか」
 力ない嗄声。明らかに動揺している。……当然だ。村のために命を賭したはずの娘が、こうして目の前に現れたのだから。
 贄の生存。それはすなわち、村の衰退を意味する。
「まさか、儀式をせずに逃げてきたのか?」
「……いいえ。滝壺に身を沈めたわたしを、龍神様は助けてくださいました」
「龍神様が……?」
「はい。贄など、必要ないと」
 呼吸の乱れを隠しながら、瑠璃は凛然とこう告げた。
 正直に話す必要などなかったのかもしれない。そもそもこれを口にしたところで、長が信じてくれるという保証もない。
 ただ、彼が——珀が、まるで命を犠牲にすることを渇望しているかのような、愚かな信仰に従いたくなかっただけだ。
 彼は優しい龍だ。けっして暴虐な護神まもりがみなどではない。村の人間たちとは、違う。
 次に長の口から吐き捨てられた、まさにそれを裏付けるかのような放言に、瑠璃の胸は劈かれた。
「必要ない、か。……穢らわしいゆえ、やはり龍神様はおぬしをお受けになられなかったのだな。患ってさえいなければ、母親に似て見目麗しかったものを」
「……っ」
「おぬしでは役不足だった。龍神様のお怒りを買う前に、今ここでおぬしを始末し、新たな娘を贄として捧げねば……!」
 そう口にした長の目は、完全に狂気の淵へと堕ちていた。
 もはや妄信。考えることを放棄し、悪しき因習に囚われた、異常なまでの執着。

 ——狂気の沙汰としか思えん。

 あのときの珀の言葉が、瑠璃の脳裡に生々しく蘇る。
「骨は拾ってやれんが、冬眠前の熊の餌くらいにはなれるだろう」
 しだいに空が明るさを帯びていく中。
 殺意を孕んだ槍の切っ先が、真っ直ぐ瑠璃へと向けられた。ざりっと、瑠璃が一歩後ずされば、長は二歩近づいてきた。
 どんな言葉を投げたところで、おそらく長の耳には届かない。それに、瑠璃の身体は、もう限界だった。
 遅かれ早かれ、自分の命は終わりを迎える。だが、よもやこんな最期だとは。

 珀さま——。

 心の中で、愛おしい彼の名を呼ぶ。
 彼のおかげで、ふたたび世界が色づいた。両親以外のぬくもりなど……愛など知らずに死んでいくのだと……そう、思っていたのに。
 この気持ちだけ、持って逝こう。
 瑠璃は、静かに目を閉じた。
「悪く思うな……!」
 そのときだった。

 ォ゛オ゛ォ゛ォォォ……

 凄まじい咆哮が、天を揺るがした。
 それまで晴れていた空はたちまち黒雲で覆い尽くされ、篠突く雨が大地へと降り注ぐ。
「な、なんだ……!?」
 闇を切り裂く一閃の稲妻。白い光が瞬時に辺りを支配するやいなや、雲の切れ間から巨大な龍が姿を現した。
 嵐の中でもわかる。美しく輝く白銀の鱗に、琥珀色の双眸。
 間違いない。あの龍は——。
「珀、さま……」
 珀は、長い尾を優雅に波打たせ、その体躯を瑠璃のかたわらへ降ろすと、鋭い眼光で村長を睨みつけた。
「ひぃっ!」
 骨の髄から麻痺させるような、圧倒的な怒り。
 あまりの恐怖に顔を歪めた村長は、槍を落としてその場にへたりと尻餅をついた。
「貴様、よくも俺のつがいを……」
 深淵から沸き上がるような唸り声が、地鳴りを誘う。
 開いたあぎとから覗く、鋼のように冷徹な牙。力を込めた鋭利な爪が、ぬかるんだ地面を容赦なく抉った。
「お、お許しください龍神様っ!」
 地面に身を投げ出した村長は、額を泥に擦りつけながら、両手を突き出し何度も頭を下げた。
「わたくしは、代々村に伝わる掟に従ったまででございます! この娘は、長らく病に苦しみ、村の者たちも気を揉んでおりました。龍神様にその身をお返しし、誉ある最期をと……」
「黙れ、痴れ者!」
「ひぃぃぃ……っ!」
 必死の命乞いと、もっともらしい言い訳に、尾をしならせ威嚇する。村長の矮小な弁明は、珀の逆鱗に触れるばかりだった。
 長きに渡る嫌悪と憎悪。珀にとって村の長とは、愚かな掟を墨守し、無辜むこの娘を弄ぶ、忌むべき存在でしかない。
「貴様らが勝手に作り上げた歪んだ信仰に俺を巻き込むな。俺は一度たりとも娘を寄越せなどと言った覚えはない」
「そ、そんな……」
 思いもよらない言葉だったのだろう。珀の口から語られた事実に、長は悄然と肩を落とした。
 長年信じてきたものが根底から覆る混乱と絶望。
 すべてが、音を立てて崩れ落ちてゆく。
「わたくしどもは、龍神様の御心を鎮め、村を守るために……」
「貴様らの守りたいものなど、己の瑣末な権力と刹那の安寧だけだろう。真にこの地を護ってきたのは、貴様らではない」
「で、では、二百年以上前に一度、わたくしどもの村をお沈めになったのは……あれは、娘が村に戻ってきたせいでは——」
「……っ!!」

 ドォ・ン

 村長が言い終えるか否かのうちに、珀はその尾を勢いよく薙ぎ払った。
 風鳴りにも似た轟音。吹き飛ばされた老体は枯葉のように宙に舞い、近くの木へと叩きつけられた。
「がっ、ぁ……」
 幹をずるずると滑り落ち、ぬかるんだ地面へと倒れ込む。
 苦悶の呻き声を上げるそのかたわらには、折れた槍が無残な姿を晒していた。
「二度とその娘のことを口にするなっ!!」
 あの日の悪夢が、ふたたび珀の心を締めつける。
 瑠璃と同じく村の犠牲となり、それでも村に帰れることを喜んだ娘。そんな当然の希望さえも砕かれ、無残にも命を奪われた娘。
 怒り、悲しみ、そして後悔——。村長の言葉は、珀のけっして癒えることのない傷を抉り返した。
「……珀、さま」
 ぴくっと、珀の体躯が、かすかに振れた。
 か細い声。惑いと安堵が入り混じった、愛しいその小さな響きが聞こえた瞬間、峻厳だった珀の相貌が和らいだ。
 瞳に滲むのは、怒りの残滓ではない。何よりも大切な存在を前にした、深い愛情の色。
 雨が、止んだ。
 苛烈な情動、その奔流に呑み込まれそうになっていた珀を、瑠璃が呼び戻したのだ。
 珀は、そっと慈しむように首を伸ばすと、頬ずりをして瑠璃に問いかけた。
「怪我は?」
「大丈夫です。……珀さまが、来てくださったから」
 瑠璃は、龍のかたちをしたその気高い玉顔に、自身の上体を寄せた。
 珀の目元に、今にも泣き出しそうな顔をうずめる。珀の纏う気色、そこに宿るぬくもりが、強張った瑠璃の心を解きほぐしていった。
 死ぬことは、怖くなかったはずなのに。
 彼が隣にいるだけで、こんなにも心が満ちていく。
「……珀さま……あの、わたし……っ」
 彼に訊きたいことが、謝りたいことが、たくさんある。伝えたいことが、たくさん。
「瑠璃」
「……っ」
「帰ろう」
 珀は、優しくそう告げると、言葉を詰まらせた瑠璃を自身の背に乗せた。そうして地上を離れると、天高く舞い上がっていく。
 雲間から零れる朝陽が、濡れた大地を黄金色に染め上げる。
 白銀の龍が空を往く。大切なつがいを、背に抱いて。
 その姿は、夜明けの空に差す光そのものだった。
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