狼少女のタカラモノ

橘 志摩

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26.感情

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 菜摘が戸惑っているうちに悠一は会計を済ませて店の外に出てしまう。
 そのままホテルのフロントに足を向けて、予約してるんだけどと菜摘が聞いていない事実をホテルマンに告げて早々とチェックイン作業を済ませて鍵を受け取った。

「…ゆ、悠一…?」
「あとでな。今は部屋行こう」

 彼がそういうなら、きっと今ここでは説明してもらえないんだろう。
 口を噤んで、悠一の後について歩く。エレベーターに乗り込んでも、彼も菜摘も黙ったままだ。

 押した階数に到着したことをエレベーターが告げて、その階に降りる。
 たどり着いた部屋はフロアの一番端の部屋だった。

 その部屋の鍵を開け、入る事を促される。

 確か、大事な話を、していた筈だ。
 ゆっくり、ちゃんと話せる場所に移動しようと、そう言われたのに。
 何故今、こんな高級ホテルの一室に二人で入っているのだろう。

 菜摘はぼんやりする思考でただそれだけを考えて、身体中に大きく響く自分の心臓の音だけを認識していた。

「…菜摘」
「…っな、ななに…っ」
「何じゃねぇよ、そんなに緊張しなくても何もしねぇって。座れよ」
「…ぁ…う、うん」

 どことなく、悠一の機嫌が悪いのは気のせいだろうか。
 その空気に少しだけ怯えつつ、菜摘がソファに座ると、悠一も隣に腰をおろした。

 その距離は、至極、近い。

「…お前、付き合うの。あの男と」
「そ、それは…」
「付き合ってもいいって、そう思ってんの」
「…っ思ってるって言ったらどうするの!」
「俺が許さないって、別れないって言ったら?」

 悠一は、ずるい。
 こんなふうに、すべてを菜摘に委ねるような質問ばかりで、自分の考えてることは何一つ言ってくれない。
 こみ上げてきた涙を堪えることは難しくて、何故自分は悠一の言葉にこれほど傷ついているのだろうと混乱する。

 そして、唐突に理解するのだ。

 その想いはいつだって突然で、こっちに拒絶する暇も隙も与えてくれない。

「…ゆうちゃんは…どう、思ってるの…っ」
「…何が」
「何がじゃないよ! お父さんとお母さんのこととか、おじさんとおばさんのこととか、…っ私のこととか…っ」

 ソファの座面においていた手をぎゅっと、握り締めた。
 この答えを聞いたら、きっと全部終わりにしなきゃいけないことだってある。
 けど、どうしても、聞かずにはいられなかった。

「…お前も俺も、もういい年だし。このまま付き合ってても菜摘が俺に惚れることがないってわかってるなら別れたほうがいいと思ってるよ」
「…っ…ど…どうして…っ」
「だってそうだろ、元々、お前に恋人ができても嘘つかなくて済むようにって始めたことだ。菜摘は言わない事があっても嘘はついてないし。今だって俺に言いたいこと言えてるじゃん。だから、もう大丈夫は大丈夫だろ?」

 彼の優しい掌が菜摘の頭を撫でる。
 優しい眼差しが、今は痛い。

 結局のところ、悠一にとっても菜摘は妹のままだったって事だ。それでも。

 気がついてしまったこの気持ちを、なかったことにはできない。
 自分はどんなに単純だろうと思う。

 彼の優しさに触れて、大事にしてもらって、大事にしたいと、そう、思ってた。いや、その気持ちは今でも。むしろ、今が一番強い。

「…悠一は…私と、別れて、平気なの…っ」
「―――平気だよ、俺は、お前が幸せになるなら、それが本望だから」
「ならなんで!」
「…菜摘…?」
「…っならなんで…っ許さないとか、別れないとか、いうの…っ」

 どうして、金沢に嫉妬してるみたいな、そんな言葉を口にするの。
 我慢していたはずの涙腺ははここで決壊した。

「…どうして…っ」
「…オヤジとおふくろの言うとおりなんだよ。おじさんとおばさんの心配は当たってるんだよ。俺はお前に、そんな苦労させたいとは思わない」
「…どういう…?」
「…けど、お前が、俺のところからいなくなるのも、嫌なんだよ。矛盾してるのはわかってる。菜摘が俺の方を向いてればいいって思う気持ちと、他の男と幸せになれって想う気持ちがあるんだ」
「…悠一…」

 悠一の優しい指が、菜摘の涙をそっと拭う。
 かさついた唇が目尻に触れて、思わず瞼をぎゅっと閉じた。

 その瞬間、頭を引き寄せられて、強く抱きしめられる。
 鼻を擽ったのは悠一の香りで、それが、高ぶっている心を落ち着かせてくれた。

「…うちは自営業だよ。しかもいつどうなるかわからない。今でこそそこそこ繁盛してるけど、それはオヤジとおふくろの力だ。俺の力じゃない」

 それは、母も言っていた事だ。悠一も同じ事を考えていたのかと思うと、胸が痛い。
 そんなことないと言えるのは、菜摘だけなのだろうか。

「俺だって自分の腕に自信はあるさ。それなりに修行してきてるしな。けど、それと営業とは話は別だから。俺はどうしたっておふくろには勝てないし、オヤジにも勝てない。今のまま、来てくれてるお客様がそのまま俺に引き継いでくれるとは限らない。そうなったら営業も生活も苦しくなるだろうし、…もしそのとき、俺の隣にいてくれるのが菜摘だったら、間違いなくお前に苦労させるだろ。…俺は、菜摘にはちゃんと笑ってて欲しいんだよ。笑って幸せだってそう言ってて欲しいんだって、気がついたんだよ。…お前、本当ほっとけない幼馴染みだから」

 悠一の掌は変わらず、何度も何度も菜摘の頭を撫でた。
 それは泣いている彼女を慰めようとしてくれているのか、また別の理由があるのかはわからない。
 けれど、菜摘が、この手と離れたくないと願うには十分すぎるぬくもりだった。

「どうして…、私に、聞いてくれないの…」
「…菜摘?」
「どうして、私に何も言ってくれないの? なんで私が苦労するからって、私がその苦労してもいいかって、聞いてくれないの?」
「あのな、」
「わかってるよ! 最初が恋愛感情で始まったことじゃないって! 悠一が、私に気使ってそう言ってくれてるんだってわかってるけど…! でも…っ私だって…!一緒に考えたかった…!」
「…菜摘、」

 悠一の背中に腕を回して、力いっぱい抱きついた。
 彼は料理人で、ガタイもいい。背中に回りきらないほど広い背中はもう力強い人のそれだともう、知っている。

 彼の胸板に顔をうずめて、何度か深呼吸を繰り返す。

 戸惑う気配を纏う彼に、初めて動揺させられたなんて、どこか他人事のようなことを考えている自分がいる。

 顔を上げて、間近にあった、彼の唇に、菜摘は自分のそれを、押し付けた。

「…っ…こないだの続き、して…っ」
「……は?」
「続き、して。…私に触って、お願い」

 驚いている悠一をよそに、菜摘はもう一度口付ける。
 トンっと、彼の背中がソファに当たった。

 抵抗らしい抵抗もなく、菜摘にされるがままになっているのは混乱しているからだろう。
 菜摘は構わず、彼の足を跨ぎ、首に腕を回して、自分の唇を押し付ける。
 力の入ってない唇を開いて、舌をすべり込ませると、腰に回っていた彼の腕に力がこもった。

「んっ…」

 菜摘が主導権を握っていたはずのキスは、あっという間に逆転していた。



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