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最終章
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千郷が目覚めたのは真っ白でふかふかな布団の上だった。
(ここは……)
随分と長く眠っていた気がする。体は横たわるのに慣れ、起き上がるのが億劫だった。
「おはようございます。時の女神様」
再び目を閉じようとすると、低く穏やかな男の声が聞こえた。優しく、低く妖艶な声。全てを包み込むような深さがある。
(時の女神……)
なんだか懐かしい響きに目を細めた。
そういえば自分の名前は? なぜここにいるのか、そもそもどこなのか。自分が何者かも分からず、彼女はゆっくりと体を起こした。
布団の脇には一人の男が控えていた。千郷が見たことのない衣服で、胸に手を当て柔らかい笑みをたたえている。
長身で黒髪。水色の瞳は、秋晴れの色の薄い空に似ている。
黒い服の中に白い服。中心には小さな丸が等間隔に並んでいる。白い服には、黒く細い帯のようなものが襟の下からぶら下がっていた。
彼のことを頭のてっぺんからじっくり見下ろすと、膝から下は布団が被った。
自分は高い位置で寝ていたようだ。布団を見ると足が生えている。正確には足が長い机の上に布団が敷かれていた。
頭と足の先には長い板が挿し込まれていた。角は削り取られ、丸みを帯びた美しい意匠だ。
こんな風に木を美しく変身させる人を知っている。ような気がした。
「よく眠れましたか?」
「……っ。あなたは……? 私は……?」
乾燥した喉で話そうとして一瞬つっかえた。喉元を押さえると、男が横の机から透き通った湯呑を差し出した。
両手で受け取り、回しながら見つめた。綺麗な湯呑だ。水がゆらめき、自分の顔が映った。
「美しいでしょう? それは硝子でできたコップというものです」
男が説明する言葉は耳に入ってこない。千郷は水面の自分を見て、拒絶するように顔を背けた。
「……ただの水ですよ。飲んでください」
男に言われるまま一気に飲み干した。水面に映る自分の顔は見たくないし、喉は乾ききって痛いくらいだ。
その瞬間にいろんなことが頭の中を駆け巡り始めた。
青一郎を失ったこと。
青一郎に想いを告げたこと。
青一郎のことを彼の姉夫婦に相談したこと。
青一郎に想いを告げられたこと。
女の童たちと畑を耕したり森に入ったこと。
青一郎にお供え物の野菜をつまみ食いされたこと。
白里・白夜姉弟や朱月・朱里兄妹が村にやってきたこと。
神里に文字の読み書きを教えてもらったこと。
村に女の童たちがやってきて一緒に暮らし始めたこと。
村の女たちに乳を与えられたこと。
神里に拾われたこと。
そして────目の前にいる男に、村のそばに置いていかれたこと。
「ぐっ……!」
なかった記憶までよみがえる。頭の芯に激痛が走り、千郷は両手でこめかみを覆った。
駆け巡った記憶たちをたぐり寄せ、つなぎ合わせるのに処理速度が間に合わない。
コップは床に落下し、割れて飛び散った。その音も不快で痛みが増す。
「……なんのために私を捨てたの」
千郷は顔を上げず、低く小さな声でつぶやいた。
この男は赤子の千郷を籠の中に寝かせ、額に口づけを落とした。跳び上がってしまいそうなほど冷たい唇で。普通の赤子だったら火がついたように泣いていただろう。
「私の仕事の相棒がほしかったんです。地球上の人間が増えて魂の管理が大変になってきたんですよ。そこで何人か人の姿をした者を作りあげた。その内の一人があなたですよ。人間の中に紛れて生きてもらい、才能を発揮した者を連れ戻そうと考えました」
突き刺すような頭痛がじんわりと痛むものに変わってきた頃、千郷はゆっくりと顔を上げた。
長い金髪が顔に絡みついた姿はさぞ妖怪のようだろう。しかし、男は微笑をたたえて優しく払った。
「あなたには時の女神として私の仕事を手伝ってもらいます。なので、これを」
黄金色に縁どられ、中の円盤には1から12の文字が刻まれていた。
数字にふれようとしたら空中で阻まれてしまった。コップの素材と同じ、薄い硝子で覆われている。
「それは時を自由に行き来するための懐中時計です。人間というのは死ぬ時機が決まっています。あなたにはそれを管理してほしい。魂の回収は私がやりますから」
「……私がいつ引き受けたってのよ。伝説の存在だって神里様はおっしゃっていたわ。そもそもあなたは何者なの?」
千郷は懐中時計というものを握りしめた。このまま割れてしまえばいいのに、と。
男は”そうでしたそうでした”とおどけてみせ、咳払いをした。
「申し遅れました。私は死神です」
男────死神は、腰を折ると千郷の手をとって口づけた。ひやっとした感触に身震いが走る。
赤子の時はなぜ、彼のことを簡単に受け入れていたのか理解できない。今はこんなにも憎くて仕方ないのに。
手を引っこ抜いてにらみつけると、死神は残念そうに眉を落とした。空になった手を体の後ろに戻す。
「……あんたが村の皆の魂を奪ったの」
低く動物が唸るような声で死神に噛みついた。
「奪ったのではありません。回収したのですよ……。誤解しないでくださいね? 隣村に襲われて命を落とした者がたくさんいたからですよ? 私は襲撃に関与してませんからね」
「それならなんで助けてくれなかったのよ! 青一郎さんはっ……」
布団の上に涙の粒が散らばった。
愛しい人の最期の姿を思い出す。血にまみれ、だんだんと体が冷たくなっていった。
その時に時間をどうこうする力があったらよかったのに、と自分の非力さを恨んだ。
「すみません……。歴史が大きく変わることはできないんですよ。我々のような人間とは違う者が関与してはいけないんです。ごめんなさい」
布団の上でうずくまると、申し訳なさそうな声が降ってきた。
「なんであんたが謝るの?」
「私はあなたを生み出しました。言わば私にとって娘です。娘が想い人と引き裂かれて……嬉しいわけないでしょう」
驚いた。死神が家族扱いしたことに。千郷は懐中時計を握りしめていた手の力をゆるめた。
鼻をならすと、ポン、と頭に手を置かれた。
「想い人を失ったばかりのあなたには酷でした。時の女神はまた別で探します。あなたがいた村には、人間にしてはなかなかいい力を持っている者が何人かいますよね。生き残った彼らにも手伝ってもらおうと思ってるんです」
「生きているの!?」
顔を上げると、死神が黄金色の髪を耳にかけた。コップが乗っていた机からかんざしを手に取ると、千郷の髪を手早くくくった。
そのかんざしは、青一郎が千郷のために作ってくれたものだった。
「姫様~!」
「あなたたち……!」
”会いたがっている者がいる”と言われて待っていたら、懐かしい顔が布団に駆け寄ってきた。
女の童だ。涙で縁どられた、透き通った瞳。その輝きは記憶の中のままだった。
また会えたことが嬉しくて千郷も涙目になる。
「姫様、最後までお守りできず申し訳ありません」
「そんな、私だって……。家に帰れなくてごめんね」
彼女たちは千郷の前に整列すると、涙を拭った。晴れやかな笑みで千郷のことを見上げている。
「私たちはあなたにお仕えできて本当に幸せでした」
涙を拭いながら黄玉が笑ってみせた。
「私も……あなたたちと過ごせて本当に楽しかったわ」
「姫様は……いつものんびりしている私のことを、優しく見守ってくれました」
「強くなりたい、と願う私のことも応援してくださいました」
青玉が珍しくはっきりと目を開け、ほほえんでいる。黒玉は相変わらずの勇ましさで。
「どうかこれからも姫様らしく、生きてください」
「きっといつか、青一郎様と結ばれることを願っております」
紅玉と白玉は、紅葉の手で千郷の手にそっとふれた。
「どうしたの……?」
まるで別れのような言葉に不安になる。やっと再会できたのだ。これからまた一緒にいられるのではないか。
女の童たちは手をつなぎ、光の玉となって姿を消した。それぞれ、名前の色を残して。
「彼女たちはね、私が送り込んだんです。才能を見せ始めたあなたを守らせるために」
光の玉は、死神の手の平の上で浮かんでいる。優しく光りを放つ彼らはホタルのようだ。
「だからあんなにしっかりしていたのね……」
(青一郎さんにもまた会いたいけど……あなたたちだってそうよ……)
千郷は目元を押さえた。彼女たちと過ごす毎日は色鮮やかで、飽きることがなかった。
初めて時越えをしたのは、千郷が布団もといベッドから下りた日だった。
懐中時計の使い方は教えてもらっている。
彼女はある時代を強く思い、懐中時計を握りしめた。その瞬間に千郷の体が輝き始めた。
懐中時計を熱いと感じた時には、死神が言っていた通り知らない場所に立っていた。
どこか懐かしいが千郷は知らない場所。
ここは時永一族が生まれたばかりの時代だ。
まだ住人は少なく、隣村との境界も曖昧だったと神里に聞いたことがある。隣村の連中が不穏な動きを見せたこともない、と。
集落も開放的で、千郷が生まれた時にすでにあった村の柵はまだなかった。
おそらくここがご神体があった場所、と千郷はしゃがみこんだ。そして、愛しい人と別れた場所でもある。彼女は短く生えそろった芝をそっとなでた。
小高い丘に突然人が現れても、誰も千郷に声をかけたり目を向ける者はいない。彼らの着物と違う、珍しい服装なのに。これはワンピースという服だと、死神に教えてもらった。
その死神によると、彼や時の女神である自分の肉体は普通の人間では見ることができないらしい。言葉を交わせるのはもうすぐ死ぬ者と人間ではない者。これではまるで自分は幽霊だ。
しかし、神通力を持った人間なら姿を見ることができる。それはこの村の────。
「お姉さんだぁれ?」
女の童と同じくらいであろう歳の少女が千郷を見上げていた。
その手には小さな籠に盛られた新鮮な野菜。どれも千郷が育てたことがあるものばかりだ。見慣れない色の野菜があるのは、品種改良を行う前の物だろう。
(この人が初代の……)
後の時永一族の初代神里、藤袴。
彼女は緑がかった黒いおかっぱ頭を揺らして首を傾げた。深い森の色をした瞳は知的で、幼いのに一人前の大人のよう。
美しい瞳で千郷のことをまっすぐ見つめると、彼女は太陽のような笑みを咲かせた。
「お姉さんすっごくきれい!」
「あ……ありがとう」
無邪気な笑顔にあてられ、千郷の頬が和らいだ。そういえば死神の間に来てからというもの、あまり笑わなくなった気がする。自分の性格も変わってしまったような。
以前の自分はもっと口調が柔らかくて、よく笑っていたと思う。この少女ほど無邪気でなくても。
藤袴に懐中時計を指さされ、名前を教えると興味深そうに手元をのぞきこんでいた。
「お姉さん、怖い人かと思ったけど笑顔かわいいね! ねぇ、ウチにおいでよ! 一緒にこれを食べよう? ウチの野菜、自慢なんだ!」
そういえば自分も野菜をたくさん育てていた。女の童たちと共に。
肥料を与えたり布をかぶせて温度を調整したり、常に試行錯誤していた。
そうして出来上がったおいしい野菜をお裾分けするのが習慣だった。
皆に喜んでもらえた。娘が立派に育った、と。
その野菜をご神体に供えては青一郎につまみ食いされ、味を褒められるのもひそかな楽しみだった。
「どうしたの……?」
「んん……。ううん、なんでもないの」
千郷は目元を乱暴に拭った。自分がこの村で生きた日のことを思うと、涙がぼろぼろとこぼれる。
あの時に戻りたい。時越えの力があれば容易いことではあるが、今の自分は皆に干渉してはいけない。姿も違うから受け入れてもらえるかどうか。そもそも彼らは今の千郷の姿を見ることができない。
「お腹空いたの……? あったかいもの食べたら元気出るよ!」
藤袴がワンピースの裾を引いて笑いかける。こんなに幼いのに優しい気遣いを見せる彼女はなんてよい子なのだろう。村人から愛され、歴代の神里の中で一番長寿だった、というのもうなずける。
千郷も笑みを浮かべると、最後のひとしずくが地面に落ちて宙で弾けた。
「……時の女神!」
いつの間にか聞きなれた男の声にハッとし、目を見開いた。
目の前に藤袴の姿はなく、涙が落ちたところから巨大な岩が盛り上がってきた。
地鳴りを響かせながら、岩は千郷の身長をゆうに超える高さになる。
いつの間にか現れた死神に横抱きされ、千郷は口元を押さえた。
「あの人はっ……!?」
「大丈夫、岩の前で驚いてます」
死神はそっと岩の向こう側に移動し、顔をのぞかせた。
藤袴は尻餅をついて大きな岩のことを見上げていた。確かに驚いてはいるが、その顔はワクワクを隠しきれていない。
それくらいの心意気がないと村の長にはなれないだろう。
死神は千郷のことを横抱きにしたまま、その場で軽く飛び上がった。
周りの景色が歪み、何種類もの絵の具で白い紙を埋め尽くした大きな筒が出来上がった。その中を死神と千郷は宙に浮いたまま移動する。
千郷が時越えした時には見なかった景色だ。
どこに向かっているのだろう。死神の間だろうか。
死神の顔を見ると、彼はほほえんでいた。彼は笑みを絶やすことがない。優し過ぎて不気味に感じるほど。
彼の背中では燕尾服の裾がはためいていた。千郷は死神のネクタイを押さえると、口を開いた。
「ねぇ……。私、やるわ」
「え?」
拍子抜けした彼の表情は見たことがない。笑いそうになったが、表情筋を引き締めた。
「時の女神になる。選ばれたなら全うしたい」
時越えをする前から考えていたことだ。
断ったらただの魂に戻してもらえる。だが、本当にそれでいいのだろうか。ここで逃げたら……。自問自答する度に愛しい人に言われた言葉がこだまする。
「いいのですか?」
「いいの、ってあんたが選んだんでしょ。他に探すって言ってたけど何もしてないじゃない」
「他の者たちを改めて見回ってきたのですが、やっぱり適任があなたしかいなくて……」
苦笑いしているが嬉しそうだ。結局この男の思惑通りになったのは若干癪だ。
千郷は一生懸命ぶすっとした表情を作って口をとがらせる。
「女神になるのも悪くないかもね……。いろんな時代を見てみたいから。このワンピース以外にも素敵な服があるなら着てみたいし」
「それはもう……たくさん! どれも美しいあなたに似合うはずです」
お世辞ではない言葉に薄く笑ってみせる。
愛しい人は外の世界を見たいと夢を語っていた。それなら自分が時を超えて多くの場所へ行き、心の中であの人に見せよう。いつまでも語りかけよう。
「いつかは一緒に……」
「どうしました?」
「別に。あんたには関係ないわ」
「手厳しいですねぇ……」
死神は鼻白んだが知ったこっちゃない。勝手に生み出して勝手に連れ戻したのだから、これくらいの反抗は許されるだろう。千郷には反抗期らしい反抗期がなかった。
(でも……青一郎さんに出会えたことに関しては感謝してもいいわ)
これは口が裂けても本人に伝える気はない。
その後、正式に時の女神となった千郷は各地に祠を作る。
様々な場所に、時代に、時越えの力を込めて。
ただの人間がふれてもなんの効果も発揮しないが、仲間が楽に時越えができるようにしてある。
大きな満月の夜。
千郷はビルから街を見下ろし、懐中時計を握った。
随分大きな建物だ。自分が育った時代には二階建ての建物すら考えられなかったのに。
真下には何本もの道が並び、その上を車が走っている。歩行者はアリに見えた。
煌々と輝く街灯はまるで星だ。
(毎日自分に祈りを捧げていたのね……)
千郷は満月を見上げると、闇夜に懐中時計を並べた。
時の女神になってからというもの、いろんな時代へ飛び、様々な場所を訪れた。
世界は広い、なんて簡単な言葉では済ますことができないほど、新しい発見が絶えない。
本分は人間が死ぬタイミングを管理することだが、新しいことに出会う度にワクワクしてしまう。死神には”いつも仏頂面をしている”、と嘆かれたが心は好奇心旺盛だ。青一郎の性格がうつったのだろうか。
「……『運命』って名前、結構気に入ってます」
忘れられない人の遺言を口にする。
そしてそれを名前にした。彼のことを、自分がこの道を選んだ理由を忘れないよう。
一陣の強い風が吹いた。夏の夜の風は強いが、じめっと湿気を多く含んでいる。運命はワンピースの裾をはためかせ、うねった髪を耳にかけた。
今の彼女は17歳より少し幼い姿だ。
時の女神というだけあって姿は自由に変えられるが疲れる。実は時越えの祠を作る時に自分の力を込めているので、力がなくなってきている。容姿が若くなっているのはそのせいらしい。
やがて赤子になったら人間として生まれ変われる、と死神は言っていた。
”解放してくれるの”、と嫌味っぽく聞いたら『二代目が生まれてもいいじゃないですか』と笑っていた。ここ数百年で彼は、運命の尊大な話し方に慣れたらしい。
今よりもっと幼い姿になって力を失ったら。赤子になり、魂になり、天界の幼稚園で過ごしながら両親を選ぶことになる。
生まれ変わったら再び青一郎に出会えるよう、ハルモニアと死神に頼んでみようか。それぐらいのことをしても許されるくらい、仕事には熱心に取り組んでいる。
(愛してるわ、青一郎さん……。きっと待っていてね。私のこと、忘れないで)
優しい瞳、後ろでまとめた茶髪、抱きしめる腕の力強さ。”千郷”としての記憶を大事にそっと、心にしまう。いつでも思い返せるように。
運命は懐中時計を握りしめると、満月に向かって飛びたった。
次、青一郎に会った時は自分から彼の胸に飛び込もう。こんな風に……。
運命の万年仏頂面が久しぶりに崩れた。
愛しさと寂しさが混ざり合わず、涙が夜空の星となって散った。
fin.
(ここは……)
随分と長く眠っていた気がする。体は横たわるのに慣れ、起き上がるのが億劫だった。
「おはようございます。時の女神様」
再び目を閉じようとすると、低く穏やかな男の声が聞こえた。優しく、低く妖艶な声。全てを包み込むような深さがある。
(時の女神……)
なんだか懐かしい響きに目を細めた。
そういえば自分の名前は? なぜここにいるのか、そもそもどこなのか。自分が何者かも分からず、彼女はゆっくりと体を起こした。
布団の脇には一人の男が控えていた。千郷が見たことのない衣服で、胸に手を当て柔らかい笑みをたたえている。
長身で黒髪。水色の瞳は、秋晴れの色の薄い空に似ている。
黒い服の中に白い服。中心には小さな丸が等間隔に並んでいる。白い服には、黒く細い帯のようなものが襟の下からぶら下がっていた。
彼のことを頭のてっぺんからじっくり見下ろすと、膝から下は布団が被った。
自分は高い位置で寝ていたようだ。布団を見ると足が生えている。正確には足が長い机の上に布団が敷かれていた。
頭と足の先には長い板が挿し込まれていた。角は削り取られ、丸みを帯びた美しい意匠だ。
こんな風に木を美しく変身させる人を知っている。ような気がした。
「よく眠れましたか?」
「……っ。あなたは……? 私は……?」
乾燥した喉で話そうとして一瞬つっかえた。喉元を押さえると、男が横の机から透き通った湯呑を差し出した。
両手で受け取り、回しながら見つめた。綺麗な湯呑だ。水がゆらめき、自分の顔が映った。
「美しいでしょう? それは硝子でできたコップというものです」
男が説明する言葉は耳に入ってこない。千郷は水面の自分を見て、拒絶するように顔を背けた。
「……ただの水ですよ。飲んでください」
男に言われるまま一気に飲み干した。水面に映る自分の顔は見たくないし、喉は乾ききって痛いくらいだ。
その瞬間にいろんなことが頭の中を駆け巡り始めた。
青一郎を失ったこと。
青一郎に想いを告げたこと。
青一郎のことを彼の姉夫婦に相談したこと。
青一郎に想いを告げられたこと。
女の童たちと畑を耕したり森に入ったこと。
青一郎にお供え物の野菜をつまみ食いされたこと。
白里・白夜姉弟や朱月・朱里兄妹が村にやってきたこと。
神里に文字の読み書きを教えてもらったこと。
村に女の童たちがやってきて一緒に暮らし始めたこと。
村の女たちに乳を与えられたこと。
神里に拾われたこと。
そして────目の前にいる男に、村のそばに置いていかれたこと。
「ぐっ……!」
なかった記憶までよみがえる。頭の芯に激痛が走り、千郷は両手でこめかみを覆った。
駆け巡った記憶たちをたぐり寄せ、つなぎ合わせるのに処理速度が間に合わない。
コップは床に落下し、割れて飛び散った。その音も不快で痛みが増す。
「……なんのために私を捨てたの」
千郷は顔を上げず、低く小さな声でつぶやいた。
この男は赤子の千郷を籠の中に寝かせ、額に口づけを落とした。跳び上がってしまいそうなほど冷たい唇で。普通の赤子だったら火がついたように泣いていただろう。
「私の仕事の相棒がほしかったんです。地球上の人間が増えて魂の管理が大変になってきたんですよ。そこで何人か人の姿をした者を作りあげた。その内の一人があなたですよ。人間の中に紛れて生きてもらい、才能を発揮した者を連れ戻そうと考えました」
突き刺すような頭痛がじんわりと痛むものに変わってきた頃、千郷はゆっくりと顔を上げた。
長い金髪が顔に絡みついた姿はさぞ妖怪のようだろう。しかし、男は微笑をたたえて優しく払った。
「あなたには時の女神として私の仕事を手伝ってもらいます。なので、これを」
黄金色に縁どられ、中の円盤には1から12の文字が刻まれていた。
数字にふれようとしたら空中で阻まれてしまった。コップの素材と同じ、薄い硝子で覆われている。
「それは時を自由に行き来するための懐中時計です。人間というのは死ぬ時機が決まっています。あなたにはそれを管理してほしい。魂の回収は私がやりますから」
「……私がいつ引き受けたってのよ。伝説の存在だって神里様はおっしゃっていたわ。そもそもあなたは何者なの?」
千郷は懐中時計というものを握りしめた。このまま割れてしまえばいいのに、と。
男は”そうでしたそうでした”とおどけてみせ、咳払いをした。
「申し遅れました。私は死神です」
男────死神は、腰を折ると千郷の手をとって口づけた。ひやっとした感触に身震いが走る。
赤子の時はなぜ、彼のことを簡単に受け入れていたのか理解できない。今はこんなにも憎くて仕方ないのに。
手を引っこ抜いてにらみつけると、死神は残念そうに眉を落とした。空になった手を体の後ろに戻す。
「……あんたが村の皆の魂を奪ったの」
低く動物が唸るような声で死神に噛みついた。
「奪ったのではありません。回収したのですよ……。誤解しないでくださいね? 隣村に襲われて命を落とした者がたくさんいたからですよ? 私は襲撃に関与してませんからね」
「それならなんで助けてくれなかったのよ! 青一郎さんはっ……」
布団の上に涙の粒が散らばった。
愛しい人の最期の姿を思い出す。血にまみれ、だんだんと体が冷たくなっていった。
その時に時間をどうこうする力があったらよかったのに、と自分の非力さを恨んだ。
「すみません……。歴史が大きく変わることはできないんですよ。我々のような人間とは違う者が関与してはいけないんです。ごめんなさい」
布団の上でうずくまると、申し訳なさそうな声が降ってきた。
「なんであんたが謝るの?」
「私はあなたを生み出しました。言わば私にとって娘です。娘が想い人と引き裂かれて……嬉しいわけないでしょう」
驚いた。死神が家族扱いしたことに。千郷は懐中時計を握りしめていた手の力をゆるめた。
鼻をならすと、ポン、と頭に手を置かれた。
「想い人を失ったばかりのあなたには酷でした。時の女神はまた別で探します。あなたがいた村には、人間にしてはなかなかいい力を持っている者が何人かいますよね。生き残った彼らにも手伝ってもらおうと思ってるんです」
「生きているの!?」
顔を上げると、死神が黄金色の髪を耳にかけた。コップが乗っていた机からかんざしを手に取ると、千郷の髪を手早くくくった。
そのかんざしは、青一郎が千郷のために作ってくれたものだった。
「姫様~!」
「あなたたち……!」
”会いたがっている者がいる”と言われて待っていたら、懐かしい顔が布団に駆け寄ってきた。
女の童だ。涙で縁どられた、透き通った瞳。その輝きは記憶の中のままだった。
また会えたことが嬉しくて千郷も涙目になる。
「姫様、最後までお守りできず申し訳ありません」
「そんな、私だって……。家に帰れなくてごめんね」
彼女たちは千郷の前に整列すると、涙を拭った。晴れやかな笑みで千郷のことを見上げている。
「私たちはあなたにお仕えできて本当に幸せでした」
涙を拭いながら黄玉が笑ってみせた。
「私も……あなたたちと過ごせて本当に楽しかったわ」
「姫様は……いつものんびりしている私のことを、優しく見守ってくれました」
「強くなりたい、と願う私のことも応援してくださいました」
青玉が珍しくはっきりと目を開け、ほほえんでいる。黒玉は相変わらずの勇ましさで。
「どうかこれからも姫様らしく、生きてください」
「きっといつか、青一郎様と結ばれることを願っております」
紅玉と白玉は、紅葉の手で千郷の手にそっとふれた。
「どうしたの……?」
まるで別れのような言葉に不安になる。やっと再会できたのだ。これからまた一緒にいられるのではないか。
女の童たちは手をつなぎ、光の玉となって姿を消した。それぞれ、名前の色を残して。
「彼女たちはね、私が送り込んだんです。才能を見せ始めたあなたを守らせるために」
光の玉は、死神の手の平の上で浮かんでいる。優しく光りを放つ彼らはホタルのようだ。
「だからあんなにしっかりしていたのね……」
(青一郎さんにもまた会いたいけど……あなたたちだってそうよ……)
千郷は目元を押さえた。彼女たちと過ごす毎日は色鮮やかで、飽きることがなかった。
初めて時越えをしたのは、千郷が布団もといベッドから下りた日だった。
懐中時計の使い方は教えてもらっている。
彼女はある時代を強く思い、懐中時計を握りしめた。その瞬間に千郷の体が輝き始めた。
懐中時計を熱いと感じた時には、死神が言っていた通り知らない場所に立っていた。
どこか懐かしいが千郷は知らない場所。
ここは時永一族が生まれたばかりの時代だ。
まだ住人は少なく、隣村との境界も曖昧だったと神里に聞いたことがある。隣村の連中が不穏な動きを見せたこともない、と。
集落も開放的で、千郷が生まれた時にすでにあった村の柵はまだなかった。
おそらくここがご神体があった場所、と千郷はしゃがみこんだ。そして、愛しい人と別れた場所でもある。彼女は短く生えそろった芝をそっとなでた。
小高い丘に突然人が現れても、誰も千郷に声をかけたり目を向ける者はいない。彼らの着物と違う、珍しい服装なのに。これはワンピースという服だと、死神に教えてもらった。
その死神によると、彼や時の女神である自分の肉体は普通の人間では見ることができないらしい。言葉を交わせるのはもうすぐ死ぬ者と人間ではない者。これではまるで自分は幽霊だ。
しかし、神通力を持った人間なら姿を見ることができる。それはこの村の────。
「お姉さんだぁれ?」
女の童と同じくらいであろう歳の少女が千郷を見上げていた。
その手には小さな籠に盛られた新鮮な野菜。どれも千郷が育てたことがあるものばかりだ。見慣れない色の野菜があるのは、品種改良を行う前の物だろう。
(この人が初代の……)
後の時永一族の初代神里、藤袴。
彼女は緑がかった黒いおかっぱ頭を揺らして首を傾げた。深い森の色をした瞳は知的で、幼いのに一人前の大人のよう。
美しい瞳で千郷のことをまっすぐ見つめると、彼女は太陽のような笑みを咲かせた。
「お姉さんすっごくきれい!」
「あ……ありがとう」
無邪気な笑顔にあてられ、千郷の頬が和らいだ。そういえば死神の間に来てからというもの、あまり笑わなくなった気がする。自分の性格も変わってしまったような。
以前の自分はもっと口調が柔らかくて、よく笑っていたと思う。この少女ほど無邪気でなくても。
藤袴に懐中時計を指さされ、名前を教えると興味深そうに手元をのぞきこんでいた。
「お姉さん、怖い人かと思ったけど笑顔かわいいね! ねぇ、ウチにおいでよ! 一緒にこれを食べよう? ウチの野菜、自慢なんだ!」
そういえば自分も野菜をたくさん育てていた。女の童たちと共に。
肥料を与えたり布をかぶせて温度を調整したり、常に試行錯誤していた。
そうして出来上がったおいしい野菜をお裾分けするのが習慣だった。
皆に喜んでもらえた。娘が立派に育った、と。
その野菜をご神体に供えては青一郎につまみ食いされ、味を褒められるのもひそかな楽しみだった。
「どうしたの……?」
「んん……。ううん、なんでもないの」
千郷は目元を乱暴に拭った。自分がこの村で生きた日のことを思うと、涙がぼろぼろとこぼれる。
あの時に戻りたい。時越えの力があれば容易いことではあるが、今の自分は皆に干渉してはいけない。姿も違うから受け入れてもらえるかどうか。そもそも彼らは今の千郷の姿を見ることができない。
「お腹空いたの……? あったかいもの食べたら元気出るよ!」
藤袴がワンピースの裾を引いて笑いかける。こんなに幼いのに優しい気遣いを見せる彼女はなんてよい子なのだろう。村人から愛され、歴代の神里の中で一番長寿だった、というのもうなずける。
千郷も笑みを浮かべると、最後のひとしずくが地面に落ちて宙で弾けた。
「……時の女神!」
いつの間にか聞きなれた男の声にハッとし、目を見開いた。
目の前に藤袴の姿はなく、涙が落ちたところから巨大な岩が盛り上がってきた。
地鳴りを響かせながら、岩は千郷の身長をゆうに超える高さになる。
いつの間にか現れた死神に横抱きされ、千郷は口元を押さえた。
「あの人はっ……!?」
「大丈夫、岩の前で驚いてます」
死神はそっと岩の向こう側に移動し、顔をのぞかせた。
藤袴は尻餅をついて大きな岩のことを見上げていた。確かに驚いてはいるが、その顔はワクワクを隠しきれていない。
それくらいの心意気がないと村の長にはなれないだろう。
死神は千郷のことを横抱きにしたまま、その場で軽く飛び上がった。
周りの景色が歪み、何種類もの絵の具で白い紙を埋め尽くした大きな筒が出来上がった。その中を死神と千郷は宙に浮いたまま移動する。
千郷が時越えした時には見なかった景色だ。
どこに向かっているのだろう。死神の間だろうか。
死神の顔を見ると、彼はほほえんでいた。彼は笑みを絶やすことがない。優し過ぎて不気味に感じるほど。
彼の背中では燕尾服の裾がはためいていた。千郷は死神のネクタイを押さえると、口を開いた。
「ねぇ……。私、やるわ」
「え?」
拍子抜けした彼の表情は見たことがない。笑いそうになったが、表情筋を引き締めた。
「時の女神になる。選ばれたなら全うしたい」
時越えをする前から考えていたことだ。
断ったらただの魂に戻してもらえる。だが、本当にそれでいいのだろうか。ここで逃げたら……。自問自答する度に愛しい人に言われた言葉がこだまする。
「いいのですか?」
「いいの、ってあんたが選んだんでしょ。他に探すって言ってたけど何もしてないじゃない」
「他の者たちを改めて見回ってきたのですが、やっぱり適任があなたしかいなくて……」
苦笑いしているが嬉しそうだ。結局この男の思惑通りになったのは若干癪だ。
千郷は一生懸命ぶすっとした表情を作って口をとがらせる。
「女神になるのも悪くないかもね……。いろんな時代を見てみたいから。このワンピース以外にも素敵な服があるなら着てみたいし」
「それはもう……たくさん! どれも美しいあなたに似合うはずです」
お世辞ではない言葉に薄く笑ってみせる。
愛しい人は外の世界を見たいと夢を語っていた。それなら自分が時を超えて多くの場所へ行き、心の中であの人に見せよう。いつまでも語りかけよう。
「いつかは一緒に……」
「どうしました?」
「別に。あんたには関係ないわ」
「手厳しいですねぇ……」
死神は鼻白んだが知ったこっちゃない。勝手に生み出して勝手に連れ戻したのだから、これくらいの反抗は許されるだろう。千郷には反抗期らしい反抗期がなかった。
(でも……青一郎さんに出会えたことに関しては感謝してもいいわ)
これは口が裂けても本人に伝える気はない。
その後、正式に時の女神となった千郷は各地に祠を作る。
様々な場所に、時代に、時越えの力を込めて。
ただの人間がふれてもなんの効果も発揮しないが、仲間が楽に時越えができるようにしてある。
大きな満月の夜。
千郷はビルから街を見下ろし、懐中時計を握った。
随分大きな建物だ。自分が育った時代には二階建ての建物すら考えられなかったのに。
真下には何本もの道が並び、その上を車が走っている。歩行者はアリに見えた。
煌々と輝く街灯はまるで星だ。
(毎日自分に祈りを捧げていたのね……)
千郷は満月を見上げると、闇夜に懐中時計を並べた。
時の女神になってからというもの、いろんな時代へ飛び、様々な場所を訪れた。
世界は広い、なんて簡単な言葉では済ますことができないほど、新しい発見が絶えない。
本分は人間が死ぬタイミングを管理することだが、新しいことに出会う度にワクワクしてしまう。死神には”いつも仏頂面をしている”、と嘆かれたが心は好奇心旺盛だ。青一郎の性格がうつったのだろうか。
「……『運命』って名前、結構気に入ってます」
忘れられない人の遺言を口にする。
そしてそれを名前にした。彼のことを、自分がこの道を選んだ理由を忘れないよう。
一陣の強い風が吹いた。夏の夜の風は強いが、じめっと湿気を多く含んでいる。運命はワンピースの裾をはためかせ、うねった髪を耳にかけた。
今の彼女は17歳より少し幼い姿だ。
時の女神というだけあって姿は自由に変えられるが疲れる。実は時越えの祠を作る時に自分の力を込めているので、力がなくなってきている。容姿が若くなっているのはそのせいらしい。
やがて赤子になったら人間として生まれ変われる、と死神は言っていた。
”解放してくれるの”、と嫌味っぽく聞いたら『二代目が生まれてもいいじゃないですか』と笑っていた。ここ数百年で彼は、運命の尊大な話し方に慣れたらしい。
今よりもっと幼い姿になって力を失ったら。赤子になり、魂になり、天界の幼稚園で過ごしながら両親を選ぶことになる。
生まれ変わったら再び青一郎に出会えるよう、ハルモニアと死神に頼んでみようか。それぐらいのことをしても許されるくらい、仕事には熱心に取り組んでいる。
(愛してるわ、青一郎さん……。きっと待っていてね。私のこと、忘れないで)
優しい瞳、後ろでまとめた茶髪、抱きしめる腕の力強さ。”千郷”としての記憶を大事にそっと、心にしまう。いつでも思い返せるように。
運命は懐中時計を握りしめると、満月に向かって飛びたった。
次、青一郎に会った時は自分から彼の胸に飛び込もう。こんな風に……。
運命の万年仏頂面が久しぶりに崩れた。
愛しさと寂しさが混ざり合わず、涙が夜空の星となって散った。
fin.
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