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4章

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 廊下には影で見た通りの大柄な男がいた。筋肉がついた二の腕は引き締まっており、肌は浅黒い。頭の上で固定した髪は夜のように真っ黒。閉ざされているであろう右目には黒い楕円形の眼帯をつけている。

 彼は“むっ"と言いながら音が出そうなほど素早く夜叉の方に首を向けた。

「ひっ…!」

 思わず小さく悲鳴を上げた夜叉は体育座りをして縮こまった。

 父も愛用していたらしい袖のない着物を着た男は、新緑色の瞳を見開くと夜叉に近づいて勢いよく持ち上げた。

「おーおー! 朱雀の愛娘よ! 元気にしておったか!」

「ひょ────ひょえー!?」

 男はまるで夜叉を子どものように持ち上げて満面の笑みでカッカッカと声を上げた。

「誰ですかあなたは…下ろしてー!」

 誰かに見られているわけではないが恥ずかしい夜叉は両手で顔を覆った。そこへタイミングがいいのか、お盆にお茶やお菓子を乗せた舞花が戻ってきた。

「あら…玄武げんぶ様。お久しゅうございんす」

「うむ。舞花殿こそ。おや、よきものをお持ちだ」

「舞花ぁ~…」

「その前に娘を下ろして下さんし────びっくりし過ぎて泣きそうになっておりんすゆえ…」

「む、これは失敬」

 解放された夜叉は涙目で舞花の元に駆け寄ると背中に隠れて玄武のことを恨めしげに見つめた。

 流石にバツが悪くなったのか男────玄武は、ちょんまげを結った後頭部を掻きながら苦笑いをして夜叉に謝った。



 舞花が追加で玄武の分のお茶とお菓子を持ってくると、座布団の上であぐらをかいた玄武が熱い湯呑みを片手に名乗った。

「我が名は玄武。玄武族の頭領だ。普段は人間界で医者をしている。我が一族は医療系で仕事をしているものが多いのだ」

「お医者さん…全然見えない…。ジムで働いているんじゃないんですか?」

「これ、主はほんに…」

「良いのだ。よく言われるゆえ。夜叉、我の信条は“筋肉は全てを叶える"だ。体力があれば病気にも怪我にも強い体になれる。そして鍛えられれば自ずと精神も強くなり何事にも打ち勝て、耐えられる。そう! 筋肉こそが正義なのだ!」

「お、おう…」

 熱いお茶をためらいなく一気に飲み干した玄武は満面の笑みで、今日帰ってきて本当によかったと話した。

 朱雀とは親友で、夜叉や舞花のことはよく聞いていた。最近は青龍や白虎からも。人間界へ会いに行くのは自分の仕事もあるし夜叉を驚かせてはいけないと思い直し遠慮していた。

 ガタイはいいが気遣いもできる男に夜叉は心を打ち解け始めていた。朱雀が生きていたら彼のことを紹介してもらっていたのだろうかと想像した。

「ところで夜叉は今日は何をしに来たのだ?」

「舞花に会いに来たんです」

「そうかそうか。学校は楽しいか?」

「はい。変な友だちも多いけど皆面白いです」

「変な友だち…」

 夜叉のとげはないが笑いを含んだ言い方に玄武は思わず繰り返したが、彼女の深い青い目の輝きに微笑んで何度も頷いた。

「友が多いのなら良いことだ。大切にするのだぞ」

「はい!」

(朱雀…)

 冷めた印象があった夜叉だが不意に見せた子どものような笑顔に朱雀の微笑みが垣間見えた。玄武は懐かしさに包まれて思わず表情が消えた。もう会えない親友はこんなところに片鱗を残していた。

 玄武は大きな掌で夜叉の頭をポンポンと撫でた。

「本当に大きくなった…いつか同じ頭領となることを楽しみにしている!」

「あ…」

 今度は夜叉の表情が消える番だった。しかしすぐに顔に戸惑いと申し訳なさを足し、首をかいて俯いた。

「私…これからのことはよく考えてなくて…。父の、朱雀の血を引いてるのは私だけってのは分かってるけど頭領になりたいとかは分かんなくて…」

「これは失敬。そんな深刻そうな顔をするな。我はもっと軽い気持ちで言ったのだ、そこまで考えさせてすまない…」

「いえ! 頭領の方に話せてよかったです」

「…もしかして頭領になるように強いられているのか?」

「そんなことはないです! 期待されてるのは薄々感じますけど…。阿修羅は当然のように思ってるみたいだし」

「あぁ。阿修羅が頭領になるのもありだと我は思っているが、あれは頑として首を縦に振らない」

「みたいですね…」

「もういっそ2人が結婚してしまえば簡単な話になりそうだな。朱雀の愛娘が嫁になれば阿修羅も…」

「阿修羅とは結婚しませんよ!」

 とんでもない方向に話を進められそうなことを察した夜叉は思わず立ち上がった。大柄な玄武相手では立ち上がっても彼の方が存在感が大きい。

 余計なことをたくさん話してしまったことに気がついた玄武はまた"すまない"と苦笑いすると、阿修羅のことを思い出しながら顎をさする。

「そうか…あれの想いは届いておらなんだな。それとも夜叉には想い人が…」

「うっ…」

 痛いところを突かれたように夜叉は声を上げてしまい、音が出そうなほど頭から湯気を出すと真っ赤な顔を手で覆ってうつむいた。
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