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1章
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はーあ。今日も疲れた。翼は虚ろな目で鍵を取り出し、ため息をついた。
月八万、1LDKの一人暮らしのマンション。
翼は床に倒れ込み、敷いたカーペットを見つめた。最近は休みの日でも掃除をする気になれない。簡単な掃除機掛けをやったのをいつだったか思い出せない。
むくんで腫れぼったい手をおもむろに動かし、腕時計を見る。それすらも億劫だ。
時刻は二十一時過ぎ。晩御飯を食べる気になれない。
さっさとシャワーを浴びて寝てしまおう。どうせ明日も朝が早い……というのはいつものパターン。今日は仕事帰りにスーパーへ寄るのも面倒だった。
翼は顔を突っ伏すと、腕を投げ出した。体が重くて起き上がりたくない。また明日も仕事、と思うと呪い混じりのどんよりとしたため息しか出てこない。
(それにしても昼間のあいつはなんだったんだろ……。変なヤツだったな……)
毎日同じ繰り返しの中で起きた本日のイベント。馴れ馴れしく話しかけてきた男の、謎の言動。
彼が翼のことを見抜けたのが不思議だ。人の心や素性が読める能力を持っているかのような口ぶりが気になる。
「あー……仕事行きたくない……」
あの男は今が仕事時間なのだろう。昼職の翼はこれから眠るが、十二時間後には会社にいることを考えたらまたため息出そうになる。
できることなら一ヶ月ほど休みを取って、自由に過ごしてみたい。
「────ん? 待てよ」
急に思い出したことがあり、翼は体を起こした。髪はボサボサ、ジャケットは細かい埃で白くなっている。
彼女は会社関係の書類を漁るべく、寝室へ小走りした。
寝室の電気をつけ、カラーボックスから水色のファイルを出して勢いよくめくる。
「あった……!」
さっきとは打って変わり、明るい表情でそれを取り出した。
こんな大事なことをなぜ忘れていたんだろう。もしかしてこの日のために記憶から抹消していたのだろうか。
(さっそく明日にも申請しよ……! 私のバカンスは目の前だ!)
翼は柄にもなく拳を突き上げた。
今日使い切ったやる気が少しだけ回復した。ジャケットの埃を払うと、スーパーへ行こうと支度を始めた。
翼の勤める会社は世間でいうブラックな一面を持っている。週に五日、びっしりと詰まった業務内容があるが、とある特権があった。
それは、どうしても心が疲れた時に取得できる長期休暇。
そうして翼は田舎に帰り、都会での生活や仕事を忘れてしまうほどにリラックスしようと気をゆるめていた。
久しぶりに乗った電車は、翼が一番大好きな場所へ連れて行ってくれる。
人が少ない車両。涼しくなり、空調は切ってあるようだ。
景色は都会のびっしりとした街並みから、緑豊かな畑や田んぼ、隣の家と間隔が空いた広々としたものに変わっていく。心なしか空が近く見え、色もいつもより青く濃いような気がした。
窓の外を楽しみながら、ワイヤレスイヤホンで音楽を聴く翼の口角は自然と上がっていく。
『ばっちゃ! じっちゃ!』
『翼ぁ、やっとかめだなぁ』
『待ってたわよ』
翼は幼い頃から、祖父母が住む家が好きだった。母方の祖父母は植物に囲まれて暮らす人たちで、幼い翼にいろんな草木の名前を教えてくれた。
一人っ子の翼は両親以上に祖父母から愛情を注がれ、会いに行く度に歓迎された。
やがて目的の駅に電車が到着した。無人駅で降り、ICカードを簡易改札機にタッチする。
最寄り駅から祖父母の家まで遠いが、迎えの車はない。当然タクシーも走ってないので歩いていくしかない。翼は大きなキャリーケースの持ち手を伸ばした。
社会人になってから歩くのが苦手になった気がする。それもそのはず。自宅も会社も最寄り駅から近いからだ。
でも今日はたくさん歩きたい気分だった。長期休暇に入って気分が晴れやかだし、いい陽気だ。秋の気配を感じながら歩くのは楽しい。
道の端には落ち着いた色合いの花が揺れていた。時々、畑の隅にコスモスの群生も見つけた。
懐かしい景色を楽しんでいたら、祖父母の住んでいた家まであっという間だった。翼はショルダーバッグから鍵を取り出した。この鍵は数年前に母から渡されたものだ。
「ただいま~……」
「おかえりー」
「ひゃあっ!?」
ドアを開けた瞬間、出迎える声に翼は腰を抜かした。
「な、な……はぁ? なんであんたがここにいんのよ!」
出迎えた声の主には見覚えがあり過ぎた。つい最近顔を合わせたばかりで記憶に新しい。
彼は金色の前髪をさらりと払い、片目を閉じる。空より薄い碧眼が光った。
この前公園で声をかけてきた、ホストと思われる男だ。田舎に似つかわしい、スリーピーススーツを着ている。この前のテカテカスーツとは違うものだ。
「不法侵入! 今度こそ警察!」
震える足では立ち上がれない。だが、玄関にたくさん並んだ鉢植えにはぶつからないように。翼は後ろ手をついた。
男はしゃがむと、翼に向かって手を差し出した。
「俺は君のおばあさんと知り合いなんだ」
「知り合いなんて……どうだか」
祖母にホストの知り合いがいたなんて考えられない。祖父以外に男の影を感じたことはない。
「信じられないなら全部話そうか。風子の名前、生年月日、出身地エトセトラ……どれから言おうか?」
彼は翼の返事を待たず、彼女を立ち上がらせた。重たいキャリーケースを持ち上げて翼を家へ招き入れる。まるで彼がこの家の主のようだ。
「俺の名前はアヤト。よろしくね、翼ちゃん」
「え、私の名前……」
「おばあさんと知り合いなんだから当然さ」
祖母は植物が好きで、それを手入れをして過ごすのが幸せだとよく話していた。
彼女の人間関係については聞いたことないし、気になったことも無かった。夫である翼の祖父と植物さえあればいいと言い切ってしまいそうな人だったからだ。
月八万、1LDKの一人暮らしのマンション。
翼は床に倒れ込み、敷いたカーペットを見つめた。最近は休みの日でも掃除をする気になれない。簡単な掃除機掛けをやったのをいつだったか思い出せない。
むくんで腫れぼったい手をおもむろに動かし、腕時計を見る。それすらも億劫だ。
時刻は二十一時過ぎ。晩御飯を食べる気になれない。
さっさとシャワーを浴びて寝てしまおう。どうせ明日も朝が早い……というのはいつものパターン。今日は仕事帰りにスーパーへ寄るのも面倒だった。
翼は顔を突っ伏すと、腕を投げ出した。体が重くて起き上がりたくない。また明日も仕事、と思うと呪い混じりのどんよりとしたため息しか出てこない。
(それにしても昼間のあいつはなんだったんだろ……。変なヤツだったな……)
毎日同じ繰り返しの中で起きた本日のイベント。馴れ馴れしく話しかけてきた男の、謎の言動。
彼が翼のことを見抜けたのが不思議だ。人の心や素性が読める能力を持っているかのような口ぶりが気になる。
「あー……仕事行きたくない……」
あの男は今が仕事時間なのだろう。昼職の翼はこれから眠るが、十二時間後には会社にいることを考えたらまたため息出そうになる。
できることなら一ヶ月ほど休みを取って、自由に過ごしてみたい。
「────ん? 待てよ」
急に思い出したことがあり、翼は体を起こした。髪はボサボサ、ジャケットは細かい埃で白くなっている。
彼女は会社関係の書類を漁るべく、寝室へ小走りした。
寝室の電気をつけ、カラーボックスから水色のファイルを出して勢いよくめくる。
「あった……!」
さっきとは打って変わり、明るい表情でそれを取り出した。
こんな大事なことをなぜ忘れていたんだろう。もしかしてこの日のために記憶から抹消していたのだろうか。
(さっそく明日にも申請しよ……! 私のバカンスは目の前だ!)
翼は柄にもなく拳を突き上げた。
今日使い切ったやる気が少しだけ回復した。ジャケットの埃を払うと、スーパーへ行こうと支度を始めた。
翼の勤める会社は世間でいうブラックな一面を持っている。週に五日、びっしりと詰まった業務内容があるが、とある特権があった。
それは、どうしても心が疲れた時に取得できる長期休暇。
そうして翼は田舎に帰り、都会での生活や仕事を忘れてしまうほどにリラックスしようと気をゆるめていた。
久しぶりに乗った電車は、翼が一番大好きな場所へ連れて行ってくれる。
人が少ない車両。涼しくなり、空調は切ってあるようだ。
景色は都会のびっしりとした街並みから、緑豊かな畑や田んぼ、隣の家と間隔が空いた広々としたものに変わっていく。心なしか空が近く見え、色もいつもより青く濃いような気がした。
窓の外を楽しみながら、ワイヤレスイヤホンで音楽を聴く翼の口角は自然と上がっていく。
『ばっちゃ! じっちゃ!』
『翼ぁ、やっとかめだなぁ』
『待ってたわよ』
翼は幼い頃から、祖父母が住む家が好きだった。母方の祖父母は植物に囲まれて暮らす人たちで、幼い翼にいろんな草木の名前を教えてくれた。
一人っ子の翼は両親以上に祖父母から愛情を注がれ、会いに行く度に歓迎された。
やがて目的の駅に電車が到着した。無人駅で降り、ICカードを簡易改札機にタッチする。
最寄り駅から祖父母の家まで遠いが、迎えの車はない。当然タクシーも走ってないので歩いていくしかない。翼は大きなキャリーケースの持ち手を伸ばした。
社会人になってから歩くのが苦手になった気がする。それもそのはず。自宅も会社も最寄り駅から近いからだ。
でも今日はたくさん歩きたい気分だった。長期休暇に入って気分が晴れやかだし、いい陽気だ。秋の気配を感じながら歩くのは楽しい。
道の端には落ち着いた色合いの花が揺れていた。時々、畑の隅にコスモスの群生も見つけた。
懐かしい景色を楽しんでいたら、祖父母の住んでいた家まであっという間だった。翼はショルダーバッグから鍵を取り出した。この鍵は数年前に母から渡されたものだ。
「ただいま~……」
「おかえりー」
「ひゃあっ!?」
ドアを開けた瞬間、出迎える声に翼は腰を抜かした。
「な、な……はぁ? なんであんたがここにいんのよ!」
出迎えた声の主には見覚えがあり過ぎた。つい最近顔を合わせたばかりで記憶に新しい。
彼は金色の前髪をさらりと払い、片目を閉じる。空より薄い碧眼が光った。
この前公園で声をかけてきた、ホストと思われる男だ。田舎に似つかわしい、スリーピーススーツを着ている。この前のテカテカスーツとは違うものだ。
「不法侵入! 今度こそ警察!」
震える足では立ち上がれない。だが、玄関にたくさん並んだ鉢植えにはぶつからないように。翼は後ろ手をついた。
男はしゃがむと、翼に向かって手を差し出した。
「俺は君のおばあさんと知り合いなんだ」
「知り合いなんて……どうだか」
祖母にホストの知り合いがいたなんて考えられない。祖父以外に男の影を感じたことはない。
「信じられないなら全部話そうか。風子の名前、生年月日、出身地エトセトラ……どれから言おうか?」
彼は翼の返事を待たず、彼女を立ち上がらせた。重たいキャリーケースを持ち上げて翼を家へ招き入れる。まるで彼がこの家の主のようだ。
「俺の名前はアヤト。よろしくね、翼ちゃん」
「え、私の名前……」
「おばあさんと知り合いなんだから当然さ」
祖母は植物が好きで、それを手入れをして過ごすのが幸せだとよく話していた。
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