氷の副社長にマル秘任務で溺愛されています

有允ひろみ

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1巻

1-3

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「今日は、昨日とまるで印象が違うな。服装もヘアメイクも簡素だし、視界の端にあっても、さほど邪魔にならない」
「恐れ入ります」
「昨日僕が言った事を的確にとらえて実行に移しているのは評価に値する」

 斗真にめられた!
 ホッとした芽衣は、朝からの緊張をいくぶん解いて表情をやわらげる。

「ありがとうございます! このパンツスーツ、昨日デパートに寄って買ったんです」
「そうか」
「色は紺かグレーで迷ったんですけど、香苗かなえが――あ、香苗って私の高校の時の友達で、デパートで働いている子です。その子が、グレーのほうが着回しがきくって言うし、紺だと就活生みたいかなって」

 すでに正面に向き直った斗真が頷いて、同意する。

「ですよね? よかった、やっぱり正解だったんですね。取材で副社長のお供をする事もあるだろうと思って、結構奮発したんです。洋服って着る人によって違って見えますよね。私レベルだと、ある程度いいものじゃないと、値段以下に見えたりして――」
「うるさい!」

 一喝いっかつされ、芽衣はハッとして口をつぐんだ。

「す、すみません。つい――」
「取材をするのは許可した。だが、今みたいな、くだらないおしゃべりはご法度はっとだ。いいな?」
「はいっ、すみません!」
「取材は可能な限りテンポよく進めてくれ。そうすれば、一カ月かからずに仕事を終えられるだろう? 見てのとおり僕は忙しい。こんな取材はさっさと終わらせたいし、少しでも早く今の状況から解放されたい――つまりは、そういう事だ。君もそのつもりで、動いてくれ」

 信号が変わり、車が再び走り出した。
 芽衣は「はい」と言って頷き、早々にバッグからメモ用紙とボイスレコーダーを取り出した。

「録音してもいいでしょうか?」
「どうぞ」

 許可を得て、録音のスイッチを押す。
 芽衣は斗真のほうに身体を向け、彼の横顔に視線を置いた。流れる風景をバックに、彼の完璧な顔のラインが浮き上がって見える。
 それにしても、なんて整った顔だろう――うっかり見惚れてしまい、芽衣はあわててメモ用紙に視線を落とした。

(何やってんの! こんなんじゃ、百の質問をするだけで一カ月が終わっちゃうよ!)

 芽衣は自分自身を叱咤しったし、活を入れた。

「では、始めさせていただきます。副社長は、普段ご自身で運転して外出先に向かわれるんですか?」
「そうだ」
「運転するのが、お好きなんですか?」
「そうだな。運転している間は、誰にも邪魔されずに済むし、一人になれるからな。もっとも、今は、まったくそうじゃないが――」

 はい、出た。人間嫌い。
 さっそく嫌味を言われて、ふと顔を上げた。
 すると、ちょうど左カーブを曲がろうとする斗真と視線が合う。一瞬、流し目を送られているような気分になり、図らずも鼓動が激しくなる。

「そ、そうですか。副社長は、一人の時間を大切にされているんですね」
「人がそばにいると気が散るし、落ち着かないんだ」
「それは、誰でもですか? 例えば、家族とか恋人とか……」
「恋人なんて、一時的に関係しただけの他人だ。それに、家族といえども結局は個人の集まりだし、ただの入れ物にすぎない」
「副社長って、結構クールな考えをお持ちなんですね」
「別に、普通だろう。誰だって、自分の時間を邪魔されたくない。君だってそうじゃないのか?」
「それはそうですが……」

 言われてみれば、そのとおりだ。
 さっきは即、彼の人間嫌いが出たと思ったが、短絡的な判断だったと反省する。

「では、副社長が孤独や寂しさを感じる時は、どんな時ですか?」
「そんな時はないな。孤独は心の平穏を呼ぶし、寂しいという感情を持ったのは、もうはるか昔だ」
「昔……ちなみに副社長は、どんなお子さんだったんですか?」
「さあ、子供の頃の事なんかもう忘れたし、思い出したくもない」

 話す彼の横顔に、さっと影が差した。
 考えてみれば、斗真の両親が離婚したのは彼がまだ子供の頃だったと聞いている。詳しい事はわからないが、幼少期については触れられたくないのかもしれない。

「あの、副社長――」
「そろそろ目的地に着くぞ。インタビューは、いったん終わりだ」

 斗真が、ふいにそう言って左にハンドルを切る。少々荒い運転だったせいか、シートから背中を浮かせていた芽衣は、遠心力で斗真のほうに倒れ込んでしまう。

「あっ――」

 シートベルトのおかげで即座に体勢を持ち直したが、彼のジャケットの左腕にファンデーションが薄くついてしまっている。

「す、すみませんっ。そでが――」

 芽衣はポケットからハンカチを取り出し、そでの汚れを拭こうとした。しかし、ちょうど車が建物の駐車場に入るタイミングと重なり、思うように動く事ができない。
 車が停車し、芽衣はようやくシートベルトを外して車外に出る。先に降りて歩き出す斗真を追い、ジャケットのそでについた汚れを拭こうとした。

「副社長、待ってください。そでに汚れが――」
「触るな!」

 芽衣がハンカチを持った手を汚れに近づけた途端、斗真がその手を払いのけた。
 手にしたハンカチが宙を舞い、駐車場の床に落ちる。
 ハタと目が合った彼の目は驚くほど冷たかった。
 芽衣はたじろいで、頬を引きらせる。

「も……申し訳ありません……!」

 芽衣は咄嗟とっさに落ちたハンカチを拾おうとした。しかし、それよりも一瞬早く動いた斗真に先を越されてしまう。

「いや……すまない。急に大声を出して、悪かった」

 斗真が早口でそう言い、芽衣にハンカチを差し出した。芽衣を見る彼の顔には、戸惑いの表情が浮かんでいる。

「いえ、私こそ、すみませんでした」

 ハンカチを受け取る時、ほんの少しだけ二人の指先が触れた。その途端、斗真の手に緊張が走ったのが分かった。
 まるで、嫌なものにでも触ったみたいな反応だ。
 それに気がついた芽衣が顔を上げた時には、彼はもう背を向けて歩き出していた。そして、以後一度も芽衣のほうを見る事はなかったのだった。


「失敗したぁ……」

 その日、自宅アパートに帰り着くなり、芽衣はがっくりと膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。

「私のバカ~! 調子に乗ってペラペラしゃべるんじゃなかった」

 そのままの姿勢で靴を脱ぎ、のろのろと起き上がる。四畳半のキッチンを通り抜けて、十畳のリビングに入った。ガラス製のテーブルに寄りかかるようにしてラグの上に座り、深いため息を吐く。
 あのあと、斗真とともにファッションビルに向かい、いくつかのコスメティックショップめぐりをした。
 時間にして、およそ二時間あまり――
 結果的に、予定どおり市場調査をする彼を取材できたし、帰りは芽衣の自宅最寄り駅まで車で送ってもらった。
 しかし、斗真との距離はまったく縮まらず、むしろ時間を追うごとに広がっていったような気がする。そうなったのも、すべて自分の迂闊うかつな言動のせいだ。
 もともと冷淡だった彼の態度が、家族の話とハンカチの受け渡しをきっかけに、はっきりとマイナス方向に傾いた。これでは、極秘任務はもちろんの事、取材の続行すら危ぶまれる。

(あの様子からすると、副社長の「女性恐怖症」って、本当なんだろうな)

 優子の話を信じていなかったわけではないが、実際に今日斗真の様子を見てそう思った。
 事前に話を聞いていたにもかかわらず、ウロチョロつきまとった上に家族の話を持ち出した。あげく、急に触ろうとしたら不快に思われるに決まっている。

(いっそ着ぐるみでも着る? もしくは男装してみるとか? ふざけるなって怒鳴られそうだよね。あ~あ、明日からどうしよう~!)

 社長直々じきじきに頼まれて単純に嬉しかったし、広報部員としてというよりも個人的な使命感に燃えていたのは確かだ。
 だが、今回の極秘任務は、それだけでやりげられるような仕事ではない。
 せめて、自分がもっとうまく立ち回る事ができていたら……
 そう思うものの、今のところ何をやっても斗真をイラつかせてばかりいる。

(張り切って引き受けたはいいけど、本当に私なんかにできるのかな……?)

 不安に駆られたが、今さら「やっぱり、できません」などと言うわけにはいかなかった。
 だが、今現在斗真からかなり迷惑がられている自分だ。これからどうやって取材を進めていけばいいのか……
 いっそ、質問をすべてアンケート形式にして渡そうか――芽衣がそんな事を考えていると、バッグの中に入れたスマートフォンが着信のメロディを奏で始める。
 画面を見ると、かけてきたのは斗真だ。

「はい、佐藤ですっ!」

 秒速で出て、画面に耳を押し当てる。

『うるさい! 耳元で、そんな大声を出すな!』

 いきなり聞こえてきた大音量に、芽衣は顔をしかめた。
 大声を出しているのは、そっちのほうでしょ! と言いたいのを我慢して、また耳を画面に近づける。

「すみません。あわてていたもので、つい……」
『君は、いつもあわてている印象がある。もう少し落ち着いて行動しろ。それに、声が大きすぎる。もっとボリュームを抑えてくれ』
「わかりました。以後、そういたします」

 それについては自覚もあるし、素直に受け入れておく。

『明日の朝、車で迎えに行くから、午前七時にアパートの外に出ているように。いいな?』
「へっ? あの――もしもし?」

 芽衣が確認しようとした時には、もうすでに通話が終わっていた。
 状況が呑み込めず、しばらくの間口を開けたまま呆ける。

「えっ……何? 副社長が迎えに来るって……私を?」

 いきなりの展開に焦り、芽衣は首を傾げて考え込む。

「なんで家の場所を知ってるの? って、人事名簿を見ればわかるか」

 副社長なのだから、それくらいの権限はあるだろう。
 それにしても、だ。

(どうして、わざわざ迎えに来てくれるんだろう? もしかして、私が思ってるほど怒ってないのかな?)

 芽衣は、そんなふうに考えて表情を明るくする。

「それにしても、副社長って声までイケメンだなぁ」

 普通に話していてもそう思ったが、電話だとよりそれを強く感じた。
 彼ほどハイクラスのイケメンに、朝車で迎えに来てもらう――そんな事が自分の身に起こるなんて、夢ではないのか。
 芽衣は、立ち上がってテーブルの周りをグルグルと回り始める。途中、ベッドの角に左足の小指をぶつけ、悲鳴を上げた。

「いっ……たぁい……」

 これだけ痛いのだから、きっと夢ではない。
 芽衣は痛みで床を転げ回りながらも、耳に残る斗真の声を頭の中で何度となくリピートさせるのだった。


 翌朝、芽衣は目覚まし時計が鳴る前に目を覚まし、身支度を始めた。
 メイクをしようとテーブルの上に鏡をセットし、洗い立ての顔に自社の化粧水や乳液を、たっぷりと叩き込む。
「エゴイスタ」は、年齢や肌質によって多種多様な商品を提供している。企業コンセプトである「素肌に優しく寄り添う」を主軸に、極力肌に負担をかけない成分で作っており、今や世界規模で顧客が増えつつある。
 芽衣が今使っているのは、天然の薔薇ばらを使用した天然素材百パーセントの「ロージィ・ローズ」というブランドだ。
 少々値は張るが、割引が効くし使用感と香りがいいので、入社以来ずっと同じものを使っている。
 肌を整えたあと、ファンデーションを塗ろうとして、ふと手を止めて鏡を見る。

(また昨日のような事があるかもしれないよね……)

 もともと薄化粧の芽衣だが、やはりすっぴんには抵抗がある。
 それに、化粧品メーカーに勤務する自分が、ほぼノーメイクで出かけるのはためらわれた。
 けれど、不測の事態を回避するために、あえてアイラインを薄く引いてリップクリームを塗っただけで化粧を終わりにした。
 髪の毛もお団子ヘアをやめて、きつく撫で上げて黒色のバレッタで留めるだけにする。
 今日着るのは、昨日のスーツと一緒に買った黒に細いピンストライプのパンツスーツにカッターシャツだ。
 アクセサリーは一切なし。メイクをほとんどしていないせいで、若干年齢よりも若そうに見えるが、昨日よりさらに女っぽさがなくなったように思う。

「これで、よし!」

 準備を万端に整えアパートを出た。
 時刻は午前七時十分前。昨夜、ベッドに入ってから考えたのだが、もしかしたら迎えに来るのは斗真だけではなく、黒川も一緒かもしれない。
 二人きりでなければ、さほど緊張せずにすむのだが。
 あれこれと思考をめぐらせながら待っていると、道の向こうに斗真の運転する車が停まった。
 芽衣は急いで車に駆け寄り、助手席のドアを開けた。

「おはようございます。……副社長、お一人なんですね」
「おはよう。そうだが、それがなんだ?」
「いえ、もしかして朝はどなたかが運転しているのかと思っていたので」
「基本的に、僕は自分で運転して移動している。専属の運転手はいないし、必要がある時は黒川に頼む」
「そうでしたか。では、失礼します」

 助手席に乗り込み、シートベルトを締める。

「少し先に公園の駐車場があるな。そこに停めるから、効率よく取材を始めてくれ」

 そう言うが早いか、斗真は車を発進させた。

「はい、わかりました」

 さすが、できる男は何をするにも無駄がない。ほどなくして目的地に到着し、車のエンジンが止まった。
 芽衣はシートベルトを外して、ぺこりと頭を下げた。

「あの……わざわざ迎えに来てくださってありがとうございます。それに、昨日はいろいろとご迷惑をおかけしたり余計な事を言ったりして、申し訳ありませんでした」
「ここは通勤ルートの途中だし、別に君は何もしていないから謝る必要はない。それに、迎えに来たのは、通勤時間の今なら仕事の時間を邪魔されずに取材を受けられると思ったからだ。昨日は中途半端に取材が終わっただろう?」

 ああ、なるほど――
 すべては取材を早く終わらせるため。ただ、それだけ。だが、文句を言いながらも、斗真が取材の事を気にかけてくれているのはわかった。

「お心遣い感謝いたします!」
「声のボリューム!」
「す、すみませんっ」

 芽衣は肩をすくめながらバタバタと取材の用意をし、身体ごと運転席を向いた。そして、ボイスレコーダーの録音スイッチを押して質問を始める。

「では、始めさせていただきます。副社長は一人暮らしをされていますが、食事や掃除などの家事はどうなさっているんですか?」

 アンケートから抜粋した斗真への質問は多岐にわたるが、彼の私生活に関する項目が結構な数を占めている。中にはプライベートすぎる質問もあるが、それは状況を見ながらするかしないかを決めるつもりだ。

「当然、すべて自分でしている」
「ご自身で……。副社長もエプロンをしてキッチンに立たれるって事ですか?」
「エプロンはしない。だが、割と料理はする」

 てっきり料理なんかしないと思っていたのに、意外な答えが返ってきた。それを言うと、斗真がふん、と鼻で笑う。

「一人暮らしなら、自分で作る他ないだろう。外食もするが、自分で作って食べたほうが時短になる。もちろん、面倒な時は適当に買って食べたりもするが」
「ちなみに、今朝は何を召し上がったんですか?」
「白ごはんに豆腐の味噌汁。サワラの漬け焼きとサラダだ」
「私より女子力高っ」

 さすがコスメティックメーカーの副社長というか、なんというか。かっこよくてハイスペックである上に、料理上手という付加価値まである。

「なんだって?」
「い、いえ、なんでもありません。朝からすごいです。手が込んでますね」
「別に手は込んでない。魚は漬けた状態のものを産地から送ってもらって焼いただけだ」
「それでも、です。私なんか、今朝はシリアルに牛乳をかけたのを流し込んだだけです」

 それを聞いた斗真が、眉間に薄く縦皺たてじわを寄せる。

「昨夜は何を食べたんだ?」
「えっと……昨日は、ちょっと疲れていたし、コンビニで買った焼肉弁当で済ませました」

 我ながら言い訳がましいと思ったが、実際疲れていたし、いつもよりも早寝をした。

「そうか。最近のコンビニはいろいろと充実してるからな」
「はい。うちのプチプラコスメも置いてあったりして、便利ですよね」

 芽衣が普段行くコンビニエンスストアは、弁当や総菜などが特に充実している。
 時間帯によっては品薄になるが、料理が得意でない芽衣にとってはありがたいし、なくてはならない場所だ。

「君は、あまり料理をしないのか?」
「あ……はい。実はそうなんです。自炊もしますけど、どうしてもコンビニに頼っちゃって」

 実際、自分で作るより買ったほうが美味おいしいし、手間もかからない。

「そうか。人の食生活に首を突っ込むつもりはないが、それで仕事をする元気が出るのか? だが、肌のいろつやはいいな」

 ふいに伸びてきた斗真の手が、芽衣の頬を指で摘まんだ。ムニムニと弾力を確かめられ、横にぐっと引っ張られる。

「ふむ、張りもあるし水分量も多そうだ。きめが細かいし、色白だな。とてもいい。きわめて良好な状態に保たれている」

 しばし納得したような顔で芽衣を見ていた斗真が、ハッと気がついたように手を離し、運転席のドアのほうに身を引く。

「――すまない。つい……」

 自覚しないまま、そうしてしまったのだろう。彼は、明らかに動揺しており、若干頬が引きっている。
 斗真の様子を見た芽衣も遅ればせながらにあたふたして、あやうくボイスレコーダーを落としそうになった。

「い、いえっ……。その、私の肌の調子がいいのは、ぜんぶうちの会社の化粧品のおかげです! 私、入社して以来、ずっと『ロージィ・ローズ』を使ってるんですけど、香りもいいし、もう最高なんです! あ、そういえば、『ロージィ・ローズ』って、副社長が企画して商品化されたものですよね」

 芽衣は内心の動揺を押し隠し、素早く話題を化粧品にすり替えた。

「ああ、そうだ」
「ではその件について、お話を伺ってもいいですか?」
「もちろん、かまわない。『ロージィ・ローズ』を企画したのは僕だが、もともと薔薇ばらを使用したラインナップを作りたいと言い出したのは社長だった。知ってのとおり、薔薇ばらを使用した化粧品は他の会社からも出ている。だが、『エゴイスタ』から出すからには、とことんこだわって他社とは一線をかくすものを作りたい。そう思って、まずは薔薇ばらの生産地にこだわって、現地に工場を作るまでに二年かかった」

 斗真が「ロージィ・ローズ」に関わるプロジェクトを立ち上げたのは、今からちょうど八年前――彼が二十七歳の時だ。

「我が社のホームページにも、そうしたこだわりについて掲載されていましたね」

 社員であると同時に、「エゴイスタ」の大ファンでもある芽衣は、日頃から自社の商品をチェックして知識を深めていた。
 決して自社製品をゴリ押しはしないが、肌について悩みを持つ知人にわれれば、化粧品について軽くアドバイスをする事もあった。

「うむ。……あれを書いたのは僕だ」
「そうだったんですね。あの文章には『ロージィ・ローズ』に対する深い愛情と熱意が感じられます。副社長は、自ら研究開発もされたんですよね? 実際、どれくらい関わっていらっしゃったんですか?」
「もちろん、企画段階から商品化まで。工場を作るにあたり、現地調査に行って商品作りにふさわしい土地を探したり、農園経営者を探したりした。商品化するまでに、かなりの手間暇がかかったが、いい結果を得られてよかった」
「はじめから終わりまで、すべてに関わっていらしたんですね。副社長は、ご自分を完璧主義者だと思いますか?」
「別に、完璧主義者だとは思わない。ただ、自分がやり始めたものだから、最後まで責任を持ってやりげたかっただけだ」

 完璧主義者というよりは生真面目という事だろうか。
 いずれにしても、さすが副社長を務めているだけあって人の何倍も責任感が強いようだ。

「ちなみに、商品化するにあたって一番大変だったのは、なんでしたか?」
「交渉だな」

 間髪容かんはついれずに答えたところからして、それ相応に苦労したであろう事がわかった。
 なるほど――人間嫌いの彼にしてみれば、交渉は最も苦手とするものなのだろう。
 それは理解できる。しかし、今のままでは、いつまでたっても苦手が改善されず、この先ずっと苦労する事になるだろう。
 せっかく超がつくほど優秀なビジネスパーソンなのに、人間嫌いであるがゆえに力を十分発揮できないなんて――

「あの……こう言ってはなんですが、副社長ってクールですよね」

 芽衣が遠慮がちにそう言うと、斗真がわずかに片方の眉尻を上げた。

「だからなんだ。言いたい事があれば、はっきり言えばいいだろう」
「わかりました。……なんというか、副社長にはどこか人を寄せ付けない雰囲気があるので、交渉する時もそんな感じだったら、打ち解けるまでに時間がかかっただろうなって」
「ふん……君の言うとおりだ。僕は周りに冷淡な毒舌家だと思われているし、実際そのとおりの人間だ。交渉に一年以上かかったのも、それが原因だというのはわかってる」

 さすが副社長――周囲から自分がどう思われているのか、自分の短所がどこか、客観的にとらえているようだ。

「交渉がうまく進まず、一時はもうダメかと思ったりもしたな。だが、時間はかかったが、結果的に交渉は決裂せずに済んだ。……しかし我ながら、もっとうまく立ち回れないものかとれったく思ったのも確かだ」

 斗真の顔に当時をなつかしむような表情が浮かぶ。
 それまでの冷たい雰囲気がなくなり、芽衣は一瞬で彼の顔に目を奪われた。
 クールで誤解を受けるような言動をする斗真だが、今の彼からは仕事に対する真摯しんしな思いがダイレクトに伝わってくる。
 表情ひとつで、これほどの吸引力を発揮するとは――
 おそらく斗真と接する人は今の自分と同じように、もれなく彼に惹きつけられるはずだ。
 そして、付き合ううちに彼の生真面目さやビジネスパーソンとしての真意が伝わり、結果的に交渉もうまくいったのではないだろうか。
 彼の努力は、きっと並大抵のものではなかっただろう。
 芽衣は心の中で斗真に賞賛の拍手を送るとともに、彼に尊敬の念を抱いた。

「副社長って、人を寄せ付けない雰囲気があるのと同時に、無条件で人を惹きつける吸引力もありますよね。以前、一度エレベーターの中でお見かけした事があるんですが、オーラがすごかったのを覚えてます」

 斗真が芽衣のほうを向き、黙ったまま目を細める。

「副社長の努力のおかげで『ロージィ・ローズ』は大人気定番商品になったんですね。当時の副社長が諦めないで頑張ってくださってよかったです。おかげで、私の肌はピチピチのモチモチですよ! ほら、どうぞ遠慮なく触ってください! ほらほら――」

 芽衣は運転席のほうに身を乗り出し、右頬を斗真に近づけた。
 そして、すぐに斗真のしかめっつらに気がついて表情を硬くする。

「す、すみません! 私、また――」

 昨日、調子に乗って反省したばかりなのに、またしてもやらかしてしまった!


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