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1巻
1-2
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「なにか困ったことがあるみたいだけど、もしよかったら聞かせてもらってもいいかな? 飼い主さんのメンタルをケアするのも獣医師の役割のひとつだ。場合によっては相談に乗れるかもしれないよ」
そばに寄ってきた中村も、沙良の背中に掌を添えた。
「そうそう。なにか事情があるなら話してみて~」
気づけば沙良は、亮也にたずねられるままに現状を説明していた。
内定していた就職先が倒産したこと。二度目の就活が上手くいかない上に、あと十日もせずに住むところがなくなること。リクちゃんは心の支えであり、できれば離れて暮らしたくないこと、などなど……
話したところでどうにもならないとわかってはいる。けれど、言葉にしたことでいくらか気持ちの整理ができたような気がした。
こうなったら、入院をお願いするしかないだろう。
高くないと言ってくれたけど、長引けばそれなりの金額になる。金額次第では、実家に連絡することになるかもしれない。
まずは短い期間で借りられる、マンスリーマンションのようなところを考えるべきか。
やるべきことが次々に頭に思い浮かんだ。正直胃が痛くなりそうだったが、弱音なんか吐いている暇はない。
(よし、頑張ろう! 絶対に頑張り抜いてみせるからね、リクちゃん!)
沙良が気持ちも新たに診察台を見ると、リクちゃんがなにか訴えるように亮也のほうに片手を伸ばしていた。
亮也はリクちゃんの前にかがみ込み、差し伸べられた手を指先で摘んだ。そしてリクちゃんと、小さく握手をする。
リクちゃんを見つめていた亮也が、ゆっくりとひとつ頷いた。
「――よし、わかった。じゃあ、ここからは獣医師としての立場をいったん離れて……」
亮也が沙良の正面の椅子に座り直す。
「こういうのはどうかな? リクちゃんは入院してうちが預かる。小向さん、あなたはここに引越してきて、就活をしながら住み込みのお手伝いさんをする。仕事は僕の生活全般にかかわること、それとクリニックの雑用や、その他もろもろ――。無論、無理のない範囲でかまわないし、労働に見合った給料も支払う。ここのところなにかと忙しくて、以前からそういった人がいてくれたらいいなとは思っていたんだ」
「は、はいっ!? 私が、お手伝いさんを?」
「そう。そうすれば双方の問題が一気に解決する。ちょうど三階のひと部屋が空いているし、そこにはお客用のベッドも置いてある。身一つで来てくれれば、すぐに生活ができるよ。どう? 悪い話じゃないと思うけどな」
確かに悪くはない。
むしろありがたすぎて信じられないくらいだ。
しかし、目の前のイケメン獣医師と同居というのはどうだろう。いくら仕事とはいえ、男性と同じ屋根の下で寝起きすることになるのだ。
(それって傍から見れば、同棲と同じじゃない? いや、でも実際は違うけど……)
仮にそうするとして、両親にはなんて言おう?
期間限定のことだし、黙っていたほうが無駄に心配をかけなくてすむのでは……。だが、同じフロアというのはいかがなものか。しかし、これ以上いい解決方法があるとは思えない。
(だけどなぁ……。うーん、でも……)
あまりにも急展開すぎて、考えがまとまらない。
忙しく考えを巡らせる沙良の隣で、中村が言った。
「あら、いいじゃな~い? 先生ったら、男の一人暮らしで普段ろくなものを食べてないのよ。コンビニのお弁当とか、外食とか……。忙しいのはわかりますけど、もうちょっと食べることに興味を持たなきゃいけませんよ。小向さん、料理は得意かしら?」
「あっ、はい。一応ひととおりのことはできますけど……」
「まぁ! じゃあ、ぜひともそうなさいよ~。先生、これからしばらくの間は、まともなものが食べられますね」
中村が両手をポンと合わせた。まるで話は決まったと言わんばかりの口ぶりと態度だ。
「あ、あの――」
「ほんと、よかったわ~。一石二鳥とは、まさにこのことよ。ねぇ、先生?」
戸惑う沙良をよそに、亮也と中村が頷き合う。
まだ承諾するとはひと言も言っていないのに、いつの間にか勝手に話が決まっていた。
家事やクリニックの手伝いをすることは問題ない。
道徳的に考えると首を傾げたくもなるが、まあこんなイケメンが沙良に興味を示すことは考えられないから、自分さえ気にしなければそれも大丈夫か。単なる雇い主と、住み込みのお手伝いさんだ。
亮也と中村は、すでに日給の相場がいくらだのなんだのと話を進めている。
「――ってことで、一日一万円でどうかな。もちろん光熱費や食費はこっち持ちで、なにかイレギュラーなことがあれば、その都度話し合って決めるってことで」
諸々の経費の負担なしで一日一万円なんて、願ってもない話ではないだろうか。
治療が終わるころには、その後の生活に必要な資金も貯まっているかもしれない。ここはもう割り切って考えたほうがいいだろう。そして、改めて就活を頑張るのだ。
「わかりました。やらせていただきます!」
覚悟を決めた沙良は、亮也のほうに向き直り頭を下げる。
「改めてどうぞよろしくお願いします。あとで履歴書も提出させていただきますので」
「こちらこそ、よろしく」
亮也が右手を差し伸べる。あわてて同じように手を出すと、大きな掌にすっぽりと包み込まれた。ごつごつとしているけれど、すごく温かい手だ。
きっとこの手で触られる患畜は、漏れなく亮也を信頼して身を任せる気になるのだろう。
「僕のほうの経歴は、クリニックのホームページに載っているよ。とりあえずリクちゃんのことは僕に任せて、小向さんは必要な準備をして。仕事はいつからはじめられそうかな?」
今夜からリクちゃんがここに入院するとなると、沙良も一緒にいたい。本格的な引越しはあとにして、ひとまず今日からここに住まわせてもらおう。
「今日から大丈夫です。一度寮に帰って、とりあえず必要なものを取ってきます。そのまま食材の買い出しをして、夕方にはここに戻ってこられると思います」
「そうか。じゃあ、気をつけて行っておいで。もし遅くなるようなら電話してくれたらいい」
亮也が沙良に向けてにっこりと笑った。その顔は、イケメンすぎて困るレベルだ。
沙良はかろうじて視線を合わせたまま、ぎこちなく微笑みを返す。
診察の合間を縫って、改めてスタッフとの顔合わせをすませた。
クリニックには女性スタッフが三人おり、それぞれが交代で受付と診察室を担当しているらしい。
診察に立ち合っていた中村と、受付にいた大田が今日の当番とのこと。もう一人のスタッフは小山という人で、三人とも動物看護師の資格を持っているという。
入院に関する必要な手続きを終え、沙良は急ぎ寮に向かう。
寮の前には、引越しのトラックが停まっていた。
すでに新しい学生が続々と入居してきており、沙良の部屋も空き次第、次の学生が入る予定だ。
(ほんと、思えばいい迷惑だよね……。次の人のためにも、できるだけ早く引越しをすませちゃわないと)
迷ったあげく、実家にはリクちゃんの病気のことも含め、住み込みでお手伝いさんをする件は言わないでおくことに決めた。
住むところについては、当面友だちのアパートに居候することになったと連絡を入れる。
極力嘘はつきたくなかったけれど、今はこれがベストな選択だと自分に言い聞かせた。
差しあたって必要なものだけをリュックサックに詰め込み、ふたたびクリニックを目指し電車に乗る。駅前のスーパーで食材を買い込み、急ぎ足で歩いた。
クリニックの診療時間はすでに終わっており、入り口には「CLOSED」のプレートがかけられている。
ドアを開けてなかに入ると、中村たちが帰る準備をしていた。
「あら、おかえりなさい。リクちゃん、さっき流動食を食べたところよ」
大田が、リクちゃんの居場所を指で示して教えてくれた。
教えられたのは、「B」の部屋だ。あたりに亮也の姿はない。
「あの、薮原先生は……」
「先生は近所の患畜さんのお宅まで往診中よ~。今しがた連絡があって、もうじき帰るって」
看護服を脱いだ二人は、どこにでもいる近所のおばちゃんの格好をしている。
「はい、これも渡しておくわね」
大田が手渡してくれたクリアフォルダには、クリニックのスケジュールや看護師らのシフト表が入っていた。
それによると、クリニックは午前中は九時から十二時まで。午後は二時から六時までで、この時間帯は予約診療になる。土曜日は午前中の予約診療のみ。日曜日は休診日。その他往診や急患にも臨機応変に対応するそうだ。
「私を含め、ここにいる看護師は全員が五十過ぎで既婚者なの。だってほら、薮原先生ってあのとおりのイケメンでしょう? まだ独身だし、ここで長く働くには私たちくらいのおばちゃんがちょうどいいのよ。ね、中村さん?」
「そうなのよ。そうでないと、飼い主さんたちの視線が怖い怖い~」
中村が言うには、午前中の診療はそれほどでもないが、午後は亮也目当ての飼い主が頻繁に予約を入れて来院するとのこと。彼女たちは早めに待合室に来ては互いに牽制し合い、亮也をめぐって火花を散らしているそうだ。
なるほど。
沙良は、昼間見た女性飼い主たちのことを思い出した。
彼女たちがここに来る目的は、ペットの治療だけではなかったのだ。むしろ、亮也に会うことがメインなのかもしれない。
「だから、そのことに関しては、ちょっと心配なの。もしかして、飼い主さんたちが沙良ちゃんのことをライバル認定しちゃうんじゃないかって」
大田が心配そうに眉根を寄せると、中村も頷いて深刻そうな表情を浮かべる。
「うちのクリニックは、先生自身が広告塔だからね~。予約診療はほぼ全員が先生目当てに通ってくる人。皆さん火花バチバチで大変なのよ」
聞くところによると、かつては若い看護師も採用していたようだが、スタッフ間でもトラブルが相次ぎ大変だったらしい。原因は言わずと知れた、亮也をめぐる恋愛バトルだ。
結果、クリニックの実質的な採用基準は、五十歳以上の既婚者になったという。
「はぁ……、そうですか……」
なんとなく予想はついていたけれど、そこまでひどいとは思わなかった。
そういうことなら、極力飼い主の神経を逆なでしない、地味な裏方に徹しなければ。
沙良が自然と身を縮こめていると、中村が自分の胸を掌で叩いて、にっこりと笑う。
「平気よ~。もしなにかあっても私たちが支えるからね。他のことでも、いろいろと相談に乗ってあげるし」
その頼もしげな様子に、沙良はほっとして口元をほころばせた。
「はい! ありがとうございます」
「ちなみにうちの先生の診療対象って、オールマイティなのよ~。家庭にいるペットはもちろん、動物園にいる猛獣や水族館にいる魚だって診れちゃう。もちろん牛や馬だってどんと来いよ~」
中村が歌うように説明する。
「牛や馬まで……」
沙良は、実家にいる動物たちのことを思い出した。
実家の牧場には、牛が十五頭と馬が五頭のほか、ヤギやニワトリがいる。
もともと牧場にはかかりつけの獣医師がいたが、沙良が大学に進学してまもなく、病気で亡くなってしまった。今は新しく別の動物病院の世話になっていて、沙良はその先生とはまったく面識がない。
「そう。なかにはすごく暴れん坊の患畜もいるんだけど、先生に睨まれると漏れなくおとなしくなっちゃうから不思議なのよね」
大田が大げさに首を傾げる。それに合わせるように、中村が何度も首を縦に振った。
「そうそう、あの目に見つめられて、逃げ出せた患畜は今まで一匹たりともいないんだから~。小向さんも見たでしょう? あの調子で、動物も人間もロックオンしちゃうのよ。すごいわ~。さすがに私たちは慣れちゃってるけどね」
大田たちは顔を見合わせて、笑い声を上げる。
「目力もそうだけど、先生って、動物にも人間にも優しいのよ。それが動物にも伝わるんじゃないのかしらね。この人になら任せられる、って感じで」
「私もそう思うわ~。ここが流行っているのは、まずそれよね。実際腕もいいし、どんな患畜でも受け入れて助けようとしてくれるの。ほんと、あんないい先生ってなかなかいないわよね~」
「そうそう、うちは西亜大学の獣医学部と提携っていうか、交流があってね。輸血用の血液の調達もそこでしているし、大掛かりな手術とかあると、大学の施設を使わせてもらったりしてるの。先生の留守中に重症の患畜さんが出たときも、応援にきてもらったりとか。――あら、もうこんな時間だわ!」
時計を見ると、もう午後七時半をすぎている。
ひとしきり沙良に病院のことを説明した二人は、機嫌よく帰っていった。
沙良は彼女らを見送ったあと、改めて病院内を見回す。これからしばらくは、この建物が沙良の職場であり、住まいになるのだ。
「でも、よかった。先生もスタッフも皆いい人で……。ビビリで人見知りの私でも、すんなり受け入れてもらえたし」
親子ほど年が離れているせいもあってか、二人ともすでに沙良のことを「沙良ちゃん」と呼んでくれている。まるで、実家の近所のおばちゃんたちと話しているみたいだ。
内定がなくなってからずっと気持ちに余裕がなかったが、今はずいぶん楽な気持ちだ。
依然就活中だけど、少なくとも一歩前に歩き出せたという事実が沙良の心を軽くしているのだろう。
「やるからには、精一杯がんばろう」
気持ちを新たにして、背筋をしゃんと伸ばした。
昼間ざっと案内してもらったから、屋内にあるおおよその部屋の位置はわかっている。
待合室をすぎて右手にある入院室に向かう。
室内は、壁に沿って個室が用意されており、左右で大型動物用と小動物用に分けられている。
リクちゃんは左手上段の個室にケージごと入れられており、両隣には裂傷治療中のフェレットと、中耳炎のチワワがいた。
そっと近づいてみると、皆ちょうど眠っている。
沙良はしばらくの間リクちゃんの寝顔に見入ったあと、部屋を出て階段で三階に向かった。
背中には私物が入ったリュックを背負い、両手に食料品が入ったレジ袋を下げている。
聞かされた話では、建物の二階部分は患畜用の集中治療室――ICU専用のスペースになっているらしい。
屋内の階段と三階フロア全体の照明はセンサー式で、自動的に点灯するようだ。
「ほんと助かる~。ここってやたら広いんだもの。三階は患畜もいないし、一人だとなんだか怖いもんね」
二階の踊り場をとおりすぎ、三階に到着する。
実のところ、沙良は暗いところが得意ではない。得意でないというか、はっきりと苦手だ。正直言って、怖いのだ。
暗がりからなにかがふいに出てきそうで、どうしてもビクついてしまう。
「なんだか寮生活をはじめたときのことを思い出すなぁ……」
長年住んでいた実家なら慣れているし、家族がいるから割と平気だった。しかし、寮の慣れないワンルームでは、暗闇に対する苦手意識が前面に出てしまって最初は大変だったのだ。
リクちゃんが部屋で待っていてくれたから乗り切れたと言っても、過言ではない。
「大丈夫。同じ屋根の下にリクちゃんがいるんだもの。怖くない怖くない。もうじき薮原先生も帰ってくるし、ぜんぜん平気だって」
気持ちを切り替え、住居部分のドアを開けた。
広々とした玄関を通り抜けて、左手にあるキッチンに向かう。
実家にいたころから料理をしていた沙良にとって、食事作りはまったく苦にならない。寮には、自由に使えるキッチンがあり、沙良はよくそこで自分の食事を作っていた。
亮也は特に食べ物の好き嫌いや、住まいに関するこだわりはないらしい。家事に関することは全面的に任せると、さっきの時点で沙良に宣言していた。
3LDKのフロア全体は階下と同じ白壁で、床面も白木のフローリングだ。
全体の広さはおよそ八十平米といったところだろうか。
キッチンは、カウンターを挟んでリビングルームとダイニングルームに繋がっている。
「広~い! それに、なんだか、すっごくおしゃれ」
家具はモノトーンで統一され、リビングにはどっしりとしたカウチ型のソファが置かれている。
「それにしても、綺麗な部屋。まるで散らかってないんだ……」
男性の一人暮らしというから、多少雑然としているものと思っていた。けれど、ここは全体的に片づいているというか、そもそもあまり物がない。
本や洋服のたぐいは、壁と一体型の収納スペースのなかだと聞いている。
掃除するのは便利そうだが、生活感がまったく感じられない部屋だった。
食料品をキッチンに置き、ひととおり片づけをすませる。
「あ、そうだ。ちょっとだけホームページを見てみようかな」
これからはじまる同居生活を前に、雇い主に関することは事前に知っておいたほうがいいだろう。
沙良は荷物からノートパソコンを取り出し、クリニックのサイトにアクセスした。
「院長プロフィール」のページを開くと、亮也本人の写真の代わりに、かなりデフォルメされたタヌキのイラストが貼られていた。
「ぷっ……なんでタヌキ? 載せるなら、イケメンのライオンじゃないの?」
あれほどの美男だ。自慢げに顔写真を載せてもいいくらいなのに、タヌキでは実物の亮也とあまりにも違いすぎる。
「イケメンすぎて、かえって載せにくいとか? イケメンはイケメンなりに気を使って大変なのかなぁ」
一人きりでいる不安もあり、沙良は小さくひとり言を言いながら閲覧を続ける。
タヌキの下には、簡単な経歴が書かれていた。
亮也は国内最高峰の大学で獣医学を学び、その後北海道の動物病院に勤務、そして二年前に現在のクリニックを開業したようだ。動物全般診療可能で、特にエキゾチックアニマルを得意とする、とある。
「年齢は、今年で二十九歳か」
そう呟いたタイミングで、リュックサックに入れていたスマートフォンの着信音が鳴った。あわてて取り出して画面を確認すると、さっき登録したばかりの亮也の番号が表示されている。
「はいっ、小向です!」
すぐに応答したはいいが、緊張のせいで声が変に上ずってしまった。
『ああ、薮原です。今帰りなんだけど、必要なものがあれば買って帰るよ。なにかあるかな?』
亮也の快活な声が返ってくる。
普段父より若い男性と電話で話すことなどない沙良は、それだけでもビビってしまう。
「い、いいえっ。帰りに買い物をしてきたので、特になにもありません」
目の前にいるわけでもないのに、つい頭と手を振ってしまう。
『そうか。じゃ、あと三十分くらいで帰るから、留守番よろしく』
通話が切れ、部屋のなかに静寂が戻る。スマートフォンを当てていた耳が、やけに熱く感じた。
ふと気がつけば、耳だけではなく頬もジンジンと火照っている。
「『あと三十分くらいで帰るから、留守番よろしく』……だって。今の、なんだか新婚さんの会話みたいじゃない?」
呟くと同時に、意味もなくにやついている自分に気づき、一人あわてふためく。
「や……ちょ、ちょっと。なに考えてるのよ、私ったら!」
無意識だったけれど、さっき一瞬だけ自分と亮也が新婚夫婦だったら――、なんてことを想像していた。
ただいまとおかえりなさいのあとに、晩ごはんのメニューについて微笑みながら会話する、自分と亮也を――
「な、ないって! 間違っても、ないから! あんなイケメンと私がくっつくわけないでしょ?」
沙良は左右に頭を振って、的外れな発想を吹き飛ばした。
いくらなんでも、考えが飛躍しすぎている。
沙良がこうして住み込みのお手伝いさんになったのは、二人の利害関係が一致したからであり、沙良の現状を気の毒に思ってくれた亮也が親切心で提案してくれたおかげだ。
間違っても恋のはじまりなんかではない。そのことをしっかりと自覚しておかなくては、とんでもない勘違い女になってしまうではないか。
けれど、なぜか胸の鼓動は一向に静まる気配がなかった。
「さ、早く晩ごはんの用意しなくちゃ」
なんとか意識を切りかえ、沙良は持参したエプロンをつけて食事の準備に取りかかった。
亮也に聞かされていたとおり、冷蔵庫にはアルコールとミネラルウォーターくらいしか入っていない。調理道具は一式そろっているけれど、調味料の買い置きはなかった。
家でまったく料理をしないというのは、どうやら本当のようだ。
鍋やフライパンも、使われた形跡がまったくない。壁にかかっているおたまを見ると、店頭で売られていたときのシールが貼られたままになっていた。
「彼女とかいないのかな……」
あれほどの容姿である上に、人当たりもよく優しい。彼女がいて当然だし、むしろいないほうがおかしいと思う。
けれど、改めて周りを見回しても、生活感のみならず、女性の影もない。
シンク横の引き出しを開けると、コンビニでもらったと思われる割り箸が山積みになっていた。
「逆に何人も彼女がいるから、それぞれの存在がバレないようにキッチンとか使わせていないのかも。もしくはもともと恋人は家に入れない主義だったりして? イケメン獣医師の恋愛事情って、案外そんな感じなのかな」
恋人は一人か、もしくは複数いる。だけど、いずれにせよ仕事場がある自宅建物には立ち入らせない。そんな自分ルールが存在するのかもしれない。
そうであると仮定すると、いろいろと納得がいく。
「うん、だとしたらやっぱり私は論外だね。……って、最初からそう言ってるじゃない!」
自分に突っ込みを入れたところで、頭を切り替えて本格的に料理に取りかかった。
ステンレス製の調理台は、傷ひとつなく綺麗だ。しかし、沙良にはやや高くて使いづらい。
明日踏み台を買ってきて高さ調整をしよう。そんなことを思いながら炊飯器のスイッチを入れ、調理器具の準備をする。
高さを除けば、広くてとても使いやすいキッチンだ。これなら快適にすごせそうだし、調理もはかどるだろう。
時間があまりないから、夕食のメインメニューは豚肉が多めの野菜炒めに決めた。それにほうれん草の胡麻和えと、具沢山の味噌汁をつける。
すべてを同時進行で作りながら、器はどれにしようかと棚のなかを物色する。こちらも亮也の身長に合わせているのか、かなり高い位置までものが置けるようになっていた。
「うわ~、これじゃあ踏み台があっても、上のほうまでは届かないなぁ」
それにしても、どれをとってもおしゃれな食器ばかりだ。沙良の実家にあるようなキャラクターもののマグカップや、景品でもらったような皿などはいっさい見当たらない。
そばに寄ってきた中村も、沙良の背中に掌を添えた。
「そうそう。なにか事情があるなら話してみて~」
気づけば沙良は、亮也にたずねられるままに現状を説明していた。
内定していた就職先が倒産したこと。二度目の就活が上手くいかない上に、あと十日もせずに住むところがなくなること。リクちゃんは心の支えであり、できれば離れて暮らしたくないこと、などなど……
話したところでどうにもならないとわかってはいる。けれど、言葉にしたことでいくらか気持ちの整理ができたような気がした。
こうなったら、入院をお願いするしかないだろう。
高くないと言ってくれたけど、長引けばそれなりの金額になる。金額次第では、実家に連絡することになるかもしれない。
まずは短い期間で借りられる、マンスリーマンションのようなところを考えるべきか。
やるべきことが次々に頭に思い浮かんだ。正直胃が痛くなりそうだったが、弱音なんか吐いている暇はない。
(よし、頑張ろう! 絶対に頑張り抜いてみせるからね、リクちゃん!)
沙良が気持ちも新たに診察台を見ると、リクちゃんがなにか訴えるように亮也のほうに片手を伸ばしていた。
亮也はリクちゃんの前にかがみ込み、差し伸べられた手を指先で摘んだ。そしてリクちゃんと、小さく握手をする。
リクちゃんを見つめていた亮也が、ゆっくりとひとつ頷いた。
「――よし、わかった。じゃあ、ここからは獣医師としての立場をいったん離れて……」
亮也が沙良の正面の椅子に座り直す。
「こういうのはどうかな? リクちゃんは入院してうちが預かる。小向さん、あなたはここに引越してきて、就活をしながら住み込みのお手伝いさんをする。仕事は僕の生活全般にかかわること、それとクリニックの雑用や、その他もろもろ――。無論、無理のない範囲でかまわないし、労働に見合った給料も支払う。ここのところなにかと忙しくて、以前からそういった人がいてくれたらいいなとは思っていたんだ」
「は、はいっ!? 私が、お手伝いさんを?」
「そう。そうすれば双方の問題が一気に解決する。ちょうど三階のひと部屋が空いているし、そこにはお客用のベッドも置いてある。身一つで来てくれれば、すぐに生活ができるよ。どう? 悪い話じゃないと思うけどな」
確かに悪くはない。
むしろありがたすぎて信じられないくらいだ。
しかし、目の前のイケメン獣医師と同居というのはどうだろう。いくら仕事とはいえ、男性と同じ屋根の下で寝起きすることになるのだ。
(それって傍から見れば、同棲と同じじゃない? いや、でも実際は違うけど……)
仮にそうするとして、両親にはなんて言おう?
期間限定のことだし、黙っていたほうが無駄に心配をかけなくてすむのでは……。だが、同じフロアというのはいかがなものか。しかし、これ以上いい解決方法があるとは思えない。
(だけどなぁ……。うーん、でも……)
あまりにも急展開すぎて、考えがまとまらない。
忙しく考えを巡らせる沙良の隣で、中村が言った。
「あら、いいじゃな~い? 先生ったら、男の一人暮らしで普段ろくなものを食べてないのよ。コンビニのお弁当とか、外食とか……。忙しいのはわかりますけど、もうちょっと食べることに興味を持たなきゃいけませんよ。小向さん、料理は得意かしら?」
「あっ、はい。一応ひととおりのことはできますけど……」
「まぁ! じゃあ、ぜひともそうなさいよ~。先生、これからしばらくの間は、まともなものが食べられますね」
中村が両手をポンと合わせた。まるで話は決まったと言わんばかりの口ぶりと態度だ。
「あ、あの――」
「ほんと、よかったわ~。一石二鳥とは、まさにこのことよ。ねぇ、先生?」
戸惑う沙良をよそに、亮也と中村が頷き合う。
まだ承諾するとはひと言も言っていないのに、いつの間にか勝手に話が決まっていた。
家事やクリニックの手伝いをすることは問題ない。
道徳的に考えると首を傾げたくもなるが、まあこんなイケメンが沙良に興味を示すことは考えられないから、自分さえ気にしなければそれも大丈夫か。単なる雇い主と、住み込みのお手伝いさんだ。
亮也と中村は、すでに日給の相場がいくらだのなんだのと話を進めている。
「――ってことで、一日一万円でどうかな。もちろん光熱費や食費はこっち持ちで、なにかイレギュラーなことがあれば、その都度話し合って決めるってことで」
諸々の経費の負担なしで一日一万円なんて、願ってもない話ではないだろうか。
治療が終わるころには、その後の生活に必要な資金も貯まっているかもしれない。ここはもう割り切って考えたほうがいいだろう。そして、改めて就活を頑張るのだ。
「わかりました。やらせていただきます!」
覚悟を決めた沙良は、亮也のほうに向き直り頭を下げる。
「改めてどうぞよろしくお願いします。あとで履歴書も提出させていただきますので」
「こちらこそ、よろしく」
亮也が右手を差し伸べる。あわてて同じように手を出すと、大きな掌にすっぽりと包み込まれた。ごつごつとしているけれど、すごく温かい手だ。
きっとこの手で触られる患畜は、漏れなく亮也を信頼して身を任せる気になるのだろう。
「僕のほうの経歴は、クリニックのホームページに載っているよ。とりあえずリクちゃんのことは僕に任せて、小向さんは必要な準備をして。仕事はいつからはじめられそうかな?」
今夜からリクちゃんがここに入院するとなると、沙良も一緒にいたい。本格的な引越しはあとにして、ひとまず今日からここに住まわせてもらおう。
「今日から大丈夫です。一度寮に帰って、とりあえず必要なものを取ってきます。そのまま食材の買い出しをして、夕方にはここに戻ってこられると思います」
「そうか。じゃあ、気をつけて行っておいで。もし遅くなるようなら電話してくれたらいい」
亮也が沙良に向けてにっこりと笑った。その顔は、イケメンすぎて困るレベルだ。
沙良はかろうじて視線を合わせたまま、ぎこちなく微笑みを返す。
診察の合間を縫って、改めてスタッフとの顔合わせをすませた。
クリニックには女性スタッフが三人おり、それぞれが交代で受付と診察室を担当しているらしい。
診察に立ち合っていた中村と、受付にいた大田が今日の当番とのこと。もう一人のスタッフは小山という人で、三人とも動物看護師の資格を持っているという。
入院に関する必要な手続きを終え、沙良は急ぎ寮に向かう。
寮の前には、引越しのトラックが停まっていた。
すでに新しい学生が続々と入居してきており、沙良の部屋も空き次第、次の学生が入る予定だ。
(ほんと、思えばいい迷惑だよね……。次の人のためにも、できるだけ早く引越しをすませちゃわないと)
迷ったあげく、実家にはリクちゃんの病気のことも含め、住み込みでお手伝いさんをする件は言わないでおくことに決めた。
住むところについては、当面友だちのアパートに居候することになったと連絡を入れる。
極力嘘はつきたくなかったけれど、今はこれがベストな選択だと自分に言い聞かせた。
差しあたって必要なものだけをリュックサックに詰め込み、ふたたびクリニックを目指し電車に乗る。駅前のスーパーで食材を買い込み、急ぎ足で歩いた。
クリニックの診療時間はすでに終わっており、入り口には「CLOSED」のプレートがかけられている。
ドアを開けてなかに入ると、中村たちが帰る準備をしていた。
「あら、おかえりなさい。リクちゃん、さっき流動食を食べたところよ」
大田が、リクちゃんの居場所を指で示して教えてくれた。
教えられたのは、「B」の部屋だ。あたりに亮也の姿はない。
「あの、薮原先生は……」
「先生は近所の患畜さんのお宅まで往診中よ~。今しがた連絡があって、もうじき帰るって」
看護服を脱いだ二人は、どこにでもいる近所のおばちゃんの格好をしている。
「はい、これも渡しておくわね」
大田が手渡してくれたクリアフォルダには、クリニックのスケジュールや看護師らのシフト表が入っていた。
それによると、クリニックは午前中は九時から十二時まで。午後は二時から六時までで、この時間帯は予約診療になる。土曜日は午前中の予約診療のみ。日曜日は休診日。その他往診や急患にも臨機応変に対応するそうだ。
「私を含め、ここにいる看護師は全員が五十過ぎで既婚者なの。だってほら、薮原先生ってあのとおりのイケメンでしょう? まだ独身だし、ここで長く働くには私たちくらいのおばちゃんがちょうどいいのよ。ね、中村さん?」
「そうなのよ。そうでないと、飼い主さんたちの視線が怖い怖い~」
中村が言うには、午前中の診療はそれほどでもないが、午後は亮也目当ての飼い主が頻繁に予約を入れて来院するとのこと。彼女たちは早めに待合室に来ては互いに牽制し合い、亮也をめぐって火花を散らしているそうだ。
なるほど。
沙良は、昼間見た女性飼い主たちのことを思い出した。
彼女たちがここに来る目的は、ペットの治療だけではなかったのだ。むしろ、亮也に会うことがメインなのかもしれない。
「だから、そのことに関しては、ちょっと心配なの。もしかして、飼い主さんたちが沙良ちゃんのことをライバル認定しちゃうんじゃないかって」
大田が心配そうに眉根を寄せると、中村も頷いて深刻そうな表情を浮かべる。
「うちのクリニックは、先生自身が広告塔だからね~。予約診療はほぼ全員が先生目当てに通ってくる人。皆さん火花バチバチで大変なのよ」
聞くところによると、かつては若い看護師も採用していたようだが、スタッフ間でもトラブルが相次ぎ大変だったらしい。原因は言わずと知れた、亮也をめぐる恋愛バトルだ。
結果、クリニックの実質的な採用基準は、五十歳以上の既婚者になったという。
「はぁ……、そうですか……」
なんとなく予想はついていたけれど、そこまでひどいとは思わなかった。
そういうことなら、極力飼い主の神経を逆なでしない、地味な裏方に徹しなければ。
沙良が自然と身を縮こめていると、中村が自分の胸を掌で叩いて、にっこりと笑う。
「平気よ~。もしなにかあっても私たちが支えるからね。他のことでも、いろいろと相談に乗ってあげるし」
その頼もしげな様子に、沙良はほっとして口元をほころばせた。
「はい! ありがとうございます」
「ちなみにうちの先生の診療対象って、オールマイティなのよ~。家庭にいるペットはもちろん、動物園にいる猛獣や水族館にいる魚だって診れちゃう。もちろん牛や馬だってどんと来いよ~」
中村が歌うように説明する。
「牛や馬まで……」
沙良は、実家にいる動物たちのことを思い出した。
実家の牧場には、牛が十五頭と馬が五頭のほか、ヤギやニワトリがいる。
もともと牧場にはかかりつけの獣医師がいたが、沙良が大学に進学してまもなく、病気で亡くなってしまった。今は新しく別の動物病院の世話になっていて、沙良はその先生とはまったく面識がない。
「そう。なかにはすごく暴れん坊の患畜もいるんだけど、先生に睨まれると漏れなくおとなしくなっちゃうから不思議なのよね」
大田が大げさに首を傾げる。それに合わせるように、中村が何度も首を縦に振った。
「そうそう、あの目に見つめられて、逃げ出せた患畜は今まで一匹たりともいないんだから~。小向さんも見たでしょう? あの調子で、動物も人間もロックオンしちゃうのよ。すごいわ~。さすがに私たちは慣れちゃってるけどね」
大田たちは顔を見合わせて、笑い声を上げる。
「目力もそうだけど、先生って、動物にも人間にも優しいのよ。それが動物にも伝わるんじゃないのかしらね。この人になら任せられる、って感じで」
「私もそう思うわ~。ここが流行っているのは、まずそれよね。実際腕もいいし、どんな患畜でも受け入れて助けようとしてくれるの。ほんと、あんないい先生ってなかなかいないわよね~」
「そうそう、うちは西亜大学の獣医学部と提携っていうか、交流があってね。輸血用の血液の調達もそこでしているし、大掛かりな手術とかあると、大学の施設を使わせてもらったりしてるの。先生の留守中に重症の患畜さんが出たときも、応援にきてもらったりとか。――あら、もうこんな時間だわ!」
時計を見ると、もう午後七時半をすぎている。
ひとしきり沙良に病院のことを説明した二人は、機嫌よく帰っていった。
沙良は彼女らを見送ったあと、改めて病院内を見回す。これからしばらくは、この建物が沙良の職場であり、住まいになるのだ。
「でも、よかった。先生もスタッフも皆いい人で……。ビビリで人見知りの私でも、すんなり受け入れてもらえたし」
親子ほど年が離れているせいもあってか、二人ともすでに沙良のことを「沙良ちゃん」と呼んでくれている。まるで、実家の近所のおばちゃんたちと話しているみたいだ。
内定がなくなってからずっと気持ちに余裕がなかったが、今はずいぶん楽な気持ちだ。
依然就活中だけど、少なくとも一歩前に歩き出せたという事実が沙良の心を軽くしているのだろう。
「やるからには、精一杯がんばろう」
気持ちを新たにして、背筋をしゃんと伸ばした。
昼間ざっと案内してもらったから、屋内にあるおおよその部屋の位置はわかっている。
待合室をすぎて右手にある入院室に向かう。
室内は、壁に沿って個室が用意されており、左右で大型動物用と小動物用に分けられている。
リクちゃんは左手上段の個室にケージごと入れられており、両隣には裂傷治療中のフェレットと、中耳炎のチワワがいた。
そっと近づいてみると、皆ちょうど眠っている。
沙良はしばらくの間リクちゃんの寝顔に見入ったあと、部屋を出て階段で三階に向かった。
背中には私物が入ったリュックを背負い、両手に食料品が入ったレジ袋を下げている。
聞かされた話では、建物の二階部分は患畜用の集中治療室――ICU専用のスペースになっているらしい。
屋内の階段と三階フロア全体の照明はセンサー式で、自動的に点灯するようだ。
「ほんと助かる~。ここってやたら広いんだもの。三階は患畜もいないし、一人だとなんだか怖いもんね」
二階の踊り場をとおりすぎ、三階に到着する。
実のところ、沙良は暗いところが得意ではない。得意でないというか、はっきりと苦手だ。正直言って、怖いのだ。
暗がりからなにかがふいに出てきそうで、どうしてもビクついてしまう。
「なんだか寮生活をはじめたときのことを思い出すなぁ……」
長年住んでいた実家なら慣れているし、家族がいるから割と平気だった。しかし、寮の慣れないワンルームでは、暗闇に対する苦手意識が前面に出てしまって最初は大変だったのだ。
リクちゃんが部屋で待っていてくれたから乗り切れたと言っても、過言ではない。
「大丈夫。同じ屋根の下にリクちゃんがいるんだもの。怖くない怖くない。もうじき薮原先生も帰ってくるし、ぜんぜん平気だって」
気持ちを切り替え、住居部分のドアを開けた。
広々とした玄関を通り抜けて、左手にあるキッチンに向かう。
実家にいたころから料理をしていた沙良にとって、食事作りはまったく苦にならない。寮には、自由に使えるキッチンがあり、沙良はよくそこで自分の食事を作っていた。
亮也は特に食べ物の好き嫌いや、住まいに関するこだわりはないらしい。家事に関することは全面的に任せると、さっきの時点で沙良に宣言していた。
3LDKのフロア全体は階下と同じ白壁で、床面も白木のフローリングだ。
全体の広さはおよそ八十平米といったところだろうか。
キッチンは、カウンターを挟んでリビングルームとダイニングルームに繋がっている。
「広~い! それに、なんだか、すっごくおしゃれ」
家具はモノトーンで統一され、リビングにはどっしりとしたカウチ型のソファが置かれている。
「それにしても、綺麗な部屋。まるで散らかってないんだ……」
男性の一人暮らしというから、多少雑然としているものと思っていた。けれど、ここは全体的に片づいているというか、そもそもあまり物がない。
本や洋服のたぐいは、壁と一体型の収納スペースのなかだと聞いている。
掃除するのは便利そうだが、生活感がまったく感じられない部屋だった。
食料品をキッチンに置き、ひととおり片づけをすませる。
「あ、そうだ。ちょっとだけホームページを見てみようかな」
これからはじまる同居生活を前に、雇い主に関することは事前に知っておいたほうがいいだろう。
沙良は荷物からノートパソコンを取り出し、クリニックのサイトにアクセスした。
「院長プロフィール」のページを開くと、亮也本人の写真の代わりに、かなりデフォルメされたタヌキのイラストが貼られていた。
「ぷっ……なんでタヌキ? 載せるなら、イケメンのライオンじゃないの?」
あれほどの美男だ。自慢げに顔写真を載せてもいいくらいなのに、タヌキでは実物の亮也とあまりにも違いすぎる。
「イケメンすぎて、かえって載せにくいとか? イケメンはイケメンなりに気を使って大変なのかなぁ」
一人きりでいる不安もあり、沙良は小さくひとり言を言いながら閲覧を続ける。
タヌキの下には、簡単な経歴が書かれていた。
亮也は国内最高峰の大学で獣医学を学び、その後北海道の動物病院に勤務、そして二年前に現在のクリニックを開業したようだ。動物全般診療可能で、特にエキゾチックアニマルを得意とする、とある。
「年齢は、今年で二十九歳か」
そう呟いたタイミングで、リュックサックに入れていたスマートフォンの着信音が鳴った。あわてて取り出して画面を確認すると、さっき登録したばかりの亮也の番号が表示されている。
「はいっ、小向です!」
すぐに応答したはいいが、緊張のせいで声が変に上ずってしまった。
『ああ、薮原です。今帰りなんだけど、必要なものがあれば買って帰るよ。なにかあるかな?』
亮也の快活な声が返ってくる。
普段父より若い男性と電話で話すことなどない沙良は、それだけでもビビってしまう。
「い、いいえっ。帰りに買い物をしてきたので、特になにもありません」
目の前にいるわけでもないのに、つい頭と手を振ってしまう。
『そうか。じゃ、あと三十分くらいで帰るから、留守番よろしく』
通話が切れ、部屋のなかに静寂が戻る。スマートフォンを当てていた耳が、やけに熱く感じた。
ふと気がつけば、耳だけではなく頬もジンジンと火照っている。
「『あと三十分くらいで帰るから、留守番よろしく』……だって。今の、なんだか新婚さんの会話みたいじゃない?」
呟くと同時に、意味もなくにやついている自分に気づき、一人あわてふためく。
「や……ちょ、ちょっと。なに考えてるのよ、私ったら!」
無意識だったけれど、さっき一瞬だけ自分と亮也が新婚夫婦だったら――、なんてことを想像していた。
ただいまとおかえりなさいのあとに、晩ごはんのメニューについて微笑みながら会話する、自分と亮也を――
「な、ないって! 間違っても、ないから! あんなイケメンと私がくっつくわけないでしょ?」
沙良は左右に頭を振って、的外れな発想を吹き飛ばした。
いくらなんでも、考えが飛躍しすぎている。
沙良がこうして住み込みのお手伝いさんになったのは、二人の利害関係が一致したからであり、沙良の現状を気の毒に思ってくれた亮也が親切心で提案してくれたおかげだ。
間違っても恋のはじまりなんかではない。そのことをしっかりと自覚しておかなくては、とんでもない勘違い女になってしまうではないか。
けれど、なぜか胸の鼓動は一向に静まる気配がなかった。
「さ、早く晩ごはんの用意しなくちゃ」
なんとか意識を切りかえ、沙良は持参したエプロンをつけて食事の準備に取りかかった。
亮也に聞かされていたとおり、冷蔵庫にはアルコールとミネラルウォーターくらいしか入っていない。調理道具は一式そろっているけれど、調味料の買い置きはなかった。
家でまったく料理をしないというのは、どうやら本当のようだ。
鍋やフライパンも、使われた形跡がまったくない。壁にかかっているおたまを見ると、店頭で売られていたときのシールが貼られたままになっていた。
「彼女とかいないのかな……」
あれほどの容姿である上に、人当たりもよく優しい。彼女がいて当然だし、むしろいないほうがおかしいと思う。
けれど、改めて周りを見回しても、生活感のみならず、女性の影もない。
シンク横の引き出しを開けると、コンビニでもらったと思われる割り箸が山積みになっていた。
「逆に何人も彼女がいるから、それぞれの存在がバレないようにキッチンとか使わせていないのかも。もしくはもともと恋人は家に入れない主義だったりして? イケメン獣医師の恋愛事情って、案外そんな感じなのかな」
恋人は一人か、もしくは複数いる。だけど、いずれにせよ仕事場がある自宅建物には立ち入らせない。そんな自分ルールが存在するのかもしれない。
そうであると仮定すると、いろいろと納得がいく。
「うん、だとしたらやっぱり私は論外だね。……って、最初からそう言ってるじゃない!」
自分に突っ込みを入れたところで、頭を切り替えて本格的に料理に取りかかった。
ステンレス製の調理台は、傷ひとつなく綺麗だ。しかし、沙良にはやや高くて使いづらい。
明日踏み台を買ってきて高さ調整をしよう。そんなことを思いながら炊飯器のスイッチを入れ、調理器具の準備をする。
高さを除けば、広くてとても使いやすいキッチンだ。これなら快適にすごせそうだし、調理もはかどるだろう。
時間があまりないから、夕食のメインメニューは豚肉が多めの野菜炒めに決めた。それにほうれん草の胡麻和えと、具沢山の味噌汁をつける。
すべてを同時進行で作りながら、器はどれにしようかと棚のなかを物色する。こちらも亮也の身長に合わせているのか、かなり高い位置までものが置けるようになっていた。
「うわ~、これじゃあ踏み台があっても、上のほうまでは届かないなぁ」
それにしても、どれをとってもおしゃれな食器ばかりだ。沙良の実家にあるようなキャラクターもののマグカップや、景品でもらったような皿などはいっさい見当たらない。
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